第75話 きっと私には分からない
割れたフラスコの底に倒れ込んだお人形さんが、ゆっくりと起き上がり、こちらを眺めている?
私よりも身長が低そうです。全身が濃い闇色に染まった人型で、顔がありません。まるで影絵を見ているような――そんな、錯覚。小さい体の中に閉じ込められた魔力はとても――。
突如、お人形さんの身体が蠢き、形状が変わっていきます。
お嬢様は杖を構え、魔法弾を放ちました。
しかし――。
「私の魔力が――吸収された?」
魔法を当てた場所が、極端に膨張しました。
「しばらく、手出ししないでください」
「あれを――放っておけと?」
ノエルさんの言葉に、お嬢様は"ありえないわ"という顔を致しました。
「アリーシャ、あれよりも先に片付ける相手がいるでしょ」
ニーナ様がガーラン様に再び杖を向けられました。
「私を殺したら、もう誰もあれを止められませんぞ?」
向けられた杖が、微かに揺れました。
「悩む必要などありません、不要なものは排除しておきましょう」
そう言って、目では追えないぐらいの速さでガーラン様の後ろへと回り込むと、右ストレートを繰り出しました。しかし、再び空振りとなります。
消えたガーラン様は、一番初めに立っていた場所へと移動していました。
「どうやら、逃げ足だけは超一流のようですね」
「言ってくれるではないか」
ガーラン様は、鼻で笑われます。
再び――嫌な気配がしました。
人形が大きく――本当に、大きく蠢めきました。それはまるで黒く濁った肉塊で、なんとか人の形を維持しています。――私でも異常だと分かるぐらいの魔力が漏れ出しました。
「な、なんなんすか、あれ」
ネネさんが呟かれます。
「逃げた――ほうがいいんじゃないっすかね?」
その言葉に、誰も答えませんでした。
「この被験体も聖女のなりそこないだが、それでも一番出来がいい。この十年間、こいつを超えるものが造れていないのは、実に嘆かわしい事実なのだが――何も、我々が悪いわけではない。有能な被検体がいないのが悪いのだ!」
黒い――闇色にそまった人形は、3mを超える巨体にまで膨れ上がりました。
その見た目から、動きは遅い。と思っていたのですが、動いた――と思ったときには、数メートルも離れたノエルさんとの距離を一瞬で縮めていました。
「ノエル!」
ニーナ様が、叫ばれます。
人形が、彼女を――殴り飛ばしました。
ものすごい、音がします。
ノエルさんの身体は吹き飛ばされ――叩きつけられた壁が割れ、煙が立ち昇りました。
お嬢様は、私の手首を強く握ったまま――杖を構えます。
私の身体は情けなくも震えていました。
嫌な――予感がするのです。
それが、何かは分からないのですが――私は、嫌な予感がしました。
「最高だ、最高ではないか! まさか、ここまでとはな!」
ガーラン様が、嬉しそうに笑い出します。
人形は私たちを素通りし、ノエルさんの元へと向かいました。誰も、動こうとしません。私も、お嬢様に手首を掴まれているから――という理由だけでなく、足が前へ出そうにありません。それは、何故か。そんなの、分かるわけがありません。
「酷いね、私は。そうやって、分からないふりを続けるんだから」
声がしました。
後ろから。
それは――私?
小さい頃の、私。
少し――呆けてしまいました。
しかし、気づいたときにはそこに、誰もいませんでした。
だから、私は考えるのを止めました。
だって、思考したって何も分かりませんから。
それよりも、大きな――そう、大きな魔力を感じました。
追跡した先に、ノエルさんがいます。
えぐれた壁に寄りかかり、座り込んだ彼女。そして、その前に立ち尽くす人形――の下に、大きな魔法陣が浮かび上がっています。
そこから、無数の鎖が現れ、人形を捕らえました。全身に巻きついた鎖は、人形を締め上げます。激しく動けば動くほど鎖が食い込み、陣が光を帯びました。
鎖が――徐々に魔法陣の中へと引っ張ります。人形は少しずつ下へと引っ張られ、もがきながらもゆっくりと魔法陣の中へと引きずり込まれ、姿が消えてしまいました。
ノエルさんはゆっくりと起き上がりますと、歩き出し――ガーラン様の前で足を止めます。
「今のは、地の鎖か」
「だとしたら、なんでしょうか?」
「そんな貴重な魔道具を、一介のシスターが持てるはずがない。お前、教皇直属の――」
「だとしたら、何です? あなたには関係のない話です。後、不愉快ですから訂正しておきますが、あれは魔道具ではなく神具です」
ノエルさんは、拳をガーラン様に向けられました。
「あなたにもう一度問います。あんなもののために、あなたたちは一体どれだけの子供たちを犠牲にしてきたのですか?」
「何度問われようとも、同じだよ」
ガーラン様の顔が、歪んで見えました。
「そんなの、ほんの少しだ」
急激な魔力反応。
背筋が凍るぐらいの。
異常。
魔法陣に亀裂が入り、その中から人形が飛び出してきました。
「馬鹿な、あれはSランクの――」
ノエルさんの間合いを一瞬で詰めると、人形は彼女の頭を掴み、高く持ち上げました。
そして――。
悲鳴が上がります。
だって、彼女の頭はあまりにも簡単に* * *しましたから。
赤。
赤が、跳ねました。
ノエルさんの腕がぶらりと下がりますと、彼女の身体は投げ飛ばされました。
床に倒れ、起き上がる気配がありません。
「ハハハ、本当に素晴らしい」
ガーラン様は笑います。
それを、異常だと感じました。
「ニーナ様、大人しく我らに従うのなら、痛い目に合うこともありませんぞ?」
「ふざけんな――と言いたいところだけど、後ろの奴らは何も関係がない。だから、私は殺されて当然でも――ネーヴェも、あいつらにもそれがない」
「だから逃がせと? そんなの、無理な話ですなぁ」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに、笑われました。
「でしょうね、この屑。あんたらは、さっさと逃げてここの話を――」
ニーナ様が杖を構えたとほぼ同時に彼女の身体は人形によって吹き飛ばされます。
そして、ネーヴェさんと――ネネさんも。
何か、耳に聞こえた気がしましたが、言葉を認識できません。
お嬢様は私の手を離され、人形へと向かいますが――他の皆さんと同じように――。
視界が歪んで、脳が溶け出していくような感覚。
人形が私の方へと近づき――立ち止まりました。
とても、とても大きく――足元しか見えません。でも、そんなのは当然です。だって、顔を上げられませんから。
分かりません。
私には、分かりません。
何が起きているのか、私には分からないのです。
音。
人形から、音がしました。
そして、太い腕が近づき――大きな手が私の頭の上へと置かれます。
それでも、私は顔をあげることができそうにありません。
それが何故なのか――私には、分からないのです。




