08 不気味な中学生
横浜ボクシングジム。
歴史を感じさせるジムのトレーニングルーム。蛍光灯がちらつき、古びた壁には年月を重ねた汚れや傷が目立つ。ジム全体に汗と革の匂いが漂い、天井にはパンチングボールが規則正しくリズムを刻んでいた。何年もここで打ち込まれた拳の軌跡が、空気に染み込んでいるように感じた。
「叩いてみろ!」短髪で少し太っている白いTシャツ姿の男が無言で練習用のグローブを手渡してきた。このジムの主のようなトレーナーの大黒さんだ。典型的なボクシングのトレーナーといった風貌た。少し太っているがガッチリとした体型で、頭は坊主だ。タオルを首からかけ、ジムの中をうろうろして口は忙しい。
迅はグローブを見よう見まねで自分の手に装着した。
目の前には、黒く重厚なサンドバッグが静かに揺れている。まるで闘志を持った相手のように、不気味な存在感を放っていた。
ズン! ズン! と迅は力一杯、サンドバッグに向かって拳を叩き込んだ。だが、イメージとは大きく異なり、バッグはびくともせず、重くどっしりとしていた。わずか数発で、拳がジンジンと痛み始め、腕全体が痺れた。
五分も経たないうちに、大黒さんが匙を投げるような表情で言った。「もう、いい」
迅は汗を拭い、グローブを外しながら息を整えた。
次に渡されたのは縄跳びだった。大黒さんは、めんどくさそうな顔をして迅の顔を見て静かに言った。
「とりあえず、やれ!」
「はい!」
迅はすぐに縄を持ち、軽快に飛び始めた。縄跳びなら自信があった。しかし、手にした縄は驚くほど重く、子供の頃に遊んでいたものとは全く違っていた。跳ぶたびに腕が重くなり、全身に負荷がかかる。
少し離れた場所から大黒さんが声を荒げた。「ちんたらしているな! もっと早くしろ!」
「は、はい、すいません!」大黒さんの厳しい声が響くたびに、迅は速度を上げようと必死だった。だが、十分も経たないうちに、もう体力は限界に近づいていた。
「これを着けてリングに上がれ」大黒さんは無表情でヘッドギアを投げてきた。
「はい!」着け方もよくわからず、グローブ同様、見よう見まねで装着しながら、迅はリングに上がった。
そこには、細身の中学生くらいの少年がすでに立っていた。 身長は百六十センチといったところか。体は中学生らしくない筋肉で覆われていた。肩幅は広く、逆三角の体型で肌は全く日焼けしておらず真っ白だった。顔はロシア人の血でも混ざっていそうで堀の深さが際立った。体が小さいせいか、グローブがやけに大きく見えた。
ちなみに、迅は身長百八十なので、二十センチぐらいの身長差がある。
側から見ると弟の相手をしてやっている兄といった構図だろう。実態は逆なのだが。
「こいつを殺してみろ!」 大黒さんが迅の目を見て静かに言った。
「え? あ、はい。……頑張ります!」 迅は殺すという言葉に反応して一瞬驚き、目を泳がせながら応えた。
目の前の少年は、ニヤニヤしながら「殺してくださーい。よろしくでーす」と軽く挨拶してきた。だが、その笑顔に、迅はどこか不気味さを感じた。まるで新しいオモチャを与えられた肉食動物のような。得体の知れない恐怖だ。
「三割ぐらいっすか?」少年が大黒さんに軽く確認を取る。
「そうだな。おまえは殺すなよ、隼人」 大黒さんは限度がなさそうな隼人を軽く牽制した。
「うぃっす!」 隼人は、軽くワンツウをしながら応えた。
ゴングが鳴ると同時に、舐められてなるものかといった空気を放ち、隼人は勢いよく突進してきた。迅は最速の逃げ足ボクサーを目指していたので、攻撃はせず、ひたすらかわすつもりだった。だが、想像とは全く違い、一瞬で隼人のパンチが迅の顔面をとらえた。続けざまにボディにも強烈な一撃が入る。
『くそー、集中しろ!』と自分に言い聞かせながら、相手の動きに集中するが、隼人の拳は重く速かった。一分ほど経ったころ、かろうじてパンチを一発だけ避けられた。その途端、隼人のプライドに火がついたのか、強烈なアッパーが飛んできた。
迅はリングに倒れ込んだまま、意識を失った。
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「おはよー。おじさん。そろそろ起きる時間だよー」声変わり前のソプラノボイスが、迅の頭上から降ってきた。
彼の顔の上には、スパーリングで自分を叩きのめした隼人の顔があった。
「無理しない方がいいっすよー。おじさん!」
その言葉は、見下すような目つきと共に投げかけられた。迅はまだ十八歳だった。隼人にとっては「おじさん」という言葉が、そのまま侮蔑の意味を含んでいることは明らかだった。
あまりにも実力が違いすぎたせいで、バカにされても、見下されても、悔しさは感じなかった。ただ自分の弱さを痛感するばかりだった。
実は、この隼人との出会いが、十年後、迅の人生を大きく変えるのだ。もちろん、このときの迅がそのことを知る由もない。
「もう、帰っていいよ。続けるかどうか、ゆっくり考えて!」大黒さんが遠くから言い放った。
迅は震える体を起こし、言葉を噛み締めた。「諦められないです!なんでもやるので、指導してください!」声がかすれていたが、迅の決意は固かった。
「おー、ガッツあるねー。じゃあ、まだできるなら、とりあえず縄跳び一万回やってから帰れ」
「ありがとうございます」
迅はまだ脳が揺れている感覚が残る中、縄を手に取り、跳び続けた。見捨てられる恐怖が、彼を動かしていた。
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自宅に戻ったのは、夜遅くだった。
ジムを出たときには、体は限界に近く、足元がふらついていた。最強になる道は見えず、全身筋肉痛の重い体をひきずって、途方に暮れながら帰宅した。
洗面台の前で鏡を覗き込むと、そこには腫れ上がった顔が映っていた。頬は青黒く腫れ、目の周りには深いアザができていた。
『誰だ、こいつ……?』自分でも見たことのない顔だった。
『世界チャンピオンが所属するジムだから仕方ない……』自分にそう言い聞かせ、少しでもプライドを保とうとした。
ふと、彩の部屋のドアに目を向け、完全にしまっていないドアの隙間からこっそり中を覗いた。彩の幽霊に会えるかもといった淡い期待を抱き。ベッドの上にポツンと置かれた骨壺が視界に入った。その瞬間、走馬灯のように彩の顔が脳裏に浮かんできた。彼女の笑顔が、はっきりと見える。意思とは無関係に勝手に涙が溢れてきた。
『絶対に諦めない……』再び湧き上がる決意が、迅の心を満たした。
ドアを静かに閉め、再び洗面台の前に立つ。鏡には、ひょろっとした体つきの男が映っている。胸板は薄く、弱々しかった。
『こんな体じゃ話にならない……こんな男じゃ彩は守れない』
迅は決意を固めた。体が限界に近づいているのに、彼の心は休ませようとしなかった。それから、毎日ジムに行く前に筋トレをし、ジムから帰る足で神社の階段でダッシュを繰り返した。
『強くなるんだ……』そう誓いながら、彼は夜の闇の中を駆け続けた。