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短編大作選

【櫻田さん】という女性

 隣に、誰かが引っ越してきた。そんな、噂がある。そんな噂と、明かりだけが灯っている。

 姿を見ていないから、何も分からない。櫻田さんという、名字の女性らしい。表札を見て、知った。


 なんか、紙袋が下がっていた。僕の部屋の、ドアノブに。

 中身は、さくら味のお菓子。【夜桜お月】という、銘菓だった。きっと、その櫻田さんからだろう。

 櫻田さんの顔は、誰も見ていない。まだ、大家さんしか知らない。住人の間では、かなりミステリアスな存在になっていた。




 気になりながら、ベッドで横になる。低いテーブルに置いた、さくら味のお菓子が、寂しくしていた。

 壁の向こうから、話し声が聞こえる。でも、誰かが来た様子はない。


 ずっと家にいた。だけど、玄関のドアの音は、一度も聞いていない。不思議さが増した。独り言にしては、相づちが多い。電話かもしれない。

 部屋にいる様子は、ありすぎるほどにある。なのに、外になかなか出てこなかった。




 パソコンで、ずっと執筆していた。両手で、控えめにカタカタ言わせた。視線は、パソコン画面に向いていた。

 でも耳や脳は、壁の向こうに向いていた。ずっと、小さい物音がしている。部屋中を、歩き回っているような音だ。


 荷物を持ち上げては、降ろしている。そんな音も感じた。櫻田さんは、ずっと家で何かしている。それがずっと、気になっていた。

 そのせいで、画面上では、ただ棒が出たり消えたり。それを、長時間繰り返していた。




 一夜を越した。櫻田さんの部屋のチャイムを、鳴らしてみた。人差し指を、ピンと立てて。でも、出てこない。

 部屋からの物音は、まったく聞こえなくなっていた。さらに、知りたくなった。櫻田さんの、顔や正体を。


 他の住人は、櫻田さんと喋ったという。きちんと挨拶しに、訪ねてきてくれたという。とても、明るい人だったという。

 僕を避けている。そう感じた。それが、悪い意味ではなく、いい意味であることを願っていた。




 また、袋が下がっていた。僕のドアノブに。今度は、ピンク色のビニール袋だった。

 中身は、ジュースだ。僕が、子供の頃好きだった【スッキリ梅ジュース】だ。紙パックのやつ。とても懐かしい。


 ずっと、飲んでいなかった。まだ売っているなんて、知らなかった。

 さくらと関係が深い人。梅ジュースが好き。それくらいしか、情報はない。まだ、どんな人なのか、想像がついていない。




 隣から、懐かしい曲が流れてきた。自然と、カラダが揺れた。心は、踊らされていた。

 小学生の頃に流行った、【たこ焼きコロンコロン】という曲だ。


 たこ焼きに、命が宿ってゆく。そして、ただ転がりたいように転がる。そんな愉快な曲だ。

 小学生を中心に、爆発的にヒットした。もしかすると、同世代かもしれない。櫻田さんと僕は、同学年という可能性もある。




 夕方、コンビニに出掛けた。つぶれた靴のかかとを、起き上がらせて。ねじ込むように、それを履いて行った。【スッキリ梅ジュース】を探しに。

 パソコンで、梅ジュースについて調べた。そして、個人経営のコンビニを、探し当てた。


 【ハイパ一田仲】。スーパーマーケッ

トの上。それを目指したいから、スーパーよりスゴそうな、ハイパー。それを付けたらしい。

 名付け方が、面白い。一度も行ったことがない。でも、ワクワクが止まらない。個人経営みたいなものが、かなり好きだから。




 6本入り梅ジュースを、買って帰ってきた。ビニールで、ガチガチにまとめられてる。そんなタイプのやつだ。

 また何かが、ぶら下がっていた。僕の部屋のドアノブに。

 今度は、クリーム色の布の袋。小さめのやつだ。取り出すと、【ハルの麗らか】という漫画の、4巻だった。


 梅本さくらさん。その名前が、パッと出てきた。櫻田というのが、隣人の名字。だけど、それは最近授かった、名字なのだろう。

 名字が変わっていたから、分からなかった。そういうことだ。でもあれは、忘れるはずがない。貴重な想い出の、一ページだった。




 顔を合わさず、遠回しに伝えてくれていたんだ。自分の存在を。さくらさんは、何にも変わっていない。

 梅ジュースの【梅】。漫画本の【本】。さくら味のお菓子の【さくら】。すべてを合わせると【梅本さくら】になる。


 僕の物わかりは、相変わらず悪い。でもそれで、成り立っている関係もある。だからいい。

 さくらさんは、遠回しに伝える人だった。昔から、そうだった。スキ一の絵文字だけの、メールが来たときもあった。


 その時に、さくらさんが伝えたかったこと。それは、好きだよということだったらしい。

 それは、かなり分かりやすい方だ。だから、すぐに分かった。でも、月日が経って、かなり進化した。遠回しが、洗練されている気がした。




 小学生の頃、家に遊びに行ったことがある。一度ではなく、複数回。まあまあ、仲が良かったから。

 その時に、【たこ焼きコロンコロン】のCD。【ハルの麗らか】という漫画の4巻。それらを、置き忘れた。それを今、思い出した。


 梅ジュースは、梅本さくらさんのお母さんが、何度も出してくれた。そんな、想い出のジュースだ。


 おかしい。なんか、変だ。すぐ、死ぬわけではない。命の危機には、直面していない。なのに、すごくフラッシュバックしている。次々と、想い出がよみがえってくる。




 さくらさんに、返事をしたい。でも、普通のものだと、つまらない。少し、遠回しに伝えたい。

 肩こりにいい塗り薬を、ぶら下げようかな。そう思った。肩こりの薬は、肩が重いのを無くしてくれる。


 肩重いが無くなる。肩重いじゃない。片想いじゃない。両想いだったよ。そういうニュアンスのことを、伝えたかった。

 そんなの、伝わらない。少し、遠回しすぎたかな。他に、何かないだろうか。

 結構考えた。そして、やっと思い付いた。もう、すぐに買いに行っていた。




 帰ってきた。そして、櫻田さくらさんのドアに、すぐぶら下げた。

 気付いてくれるかな。僕の、素直な気持ち。

 ぶら下げたビニール袋の中身。それは、【わたしの初恋】という名前のイチゴ。1パック。


 気付いてくれるといいな。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 【わたしの初恋】とは、だいぶストレートなものをチョイスしましたね!笑
[一言] 甘酸っぱいですね 爽やかな読後感でした
[良い点] お隣さんは一人暮らしのようで、名字が変わったのが婚姻によるものか別の理由かは不明ですね。 後者であればチャンスはあるかも。
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