35.飲みましょう
飲もうという誘いは何度も母から断られたが、最終的に一時間半後ならいいという許可を得た。
きっちり90分後、母の部屋を訪れると母はソファーに座っていた。髪が濡れている、風呂上がりのようだ。
「本当に来たのね。」
母は呆れた顔で言った。母と夜二人で過ごすなんて久しぶり・・・いや、初めてかもしれない。私はイソイソとワゴンを押し、お酒とつまみをテーブルに並べた。
「あなたお酒飲めるの?」
「どうでしょう・・・」
前世ではたまに飲んでいたけどかなり弱かった。今世ではまだ乾杯の時ぐらいしか飲んだことはない。
「まあ、あの人の子だから強いのかもね。」
母はそう言うと杯を持ち上げて言った。「乾杯」
私も慌てて杯を持ち上げ一口飲んだ。飲みやすい白ワインだ。母が好きな種類だとメイドは言っていた。
杯を持ってぼんやりしている母を眺める。濡れた髪で服が濡れていた。
「お母様、風邪を引きますわ。乾かさないと。」
「・・・そうね。」
母は返事だけして動こうとしない。仕方なく私がドライヤーを取りに行き、母の背後にまわった。この世界のドライヤーは前世と見た目は同じだ。風の魔石を入れて使う。乾くのは遅いが音は小さい。髪に風を当て始めると、母がぽつりと言った。
「私の髪多いでしょう?」
うーん、私と同じぐらいだからよくわからない。多いのか。
「あの人なら、一瞬で乾かしてくれたのよ。」
? 火の魔法を併用したのだろうか。父器用だな。
「お風呂のお湯だって、一瞬で沸かしてくれたわ。魔石だとあんなに必要なのね・・・」
これは知っている。母が浴槽に魔法で水を張り、父がそれを温めていた。この世界では貴族でもお風呂はちょっと贅沢だ。だが母は毎日入っていた、父と母なら一瞬で準備できるから。
私は何も言えずに母の髪を乾かし続けた。ドライヤーの音だけが響く。
「これから死ぬまで、つまらない人生を送るのね。」
「お母様?」
「いいのよ、私の人生なんて所詮添え物よ。でも、それで良かったのに・・・っ」
母が項垂れた。泣いているようだった。背後に立っていて良かった。母の泣き顔なんて見たくない。
私は必至で言葉を探したが、何も出てこなかった。前に聞いた話を鑑みれば、あの二人が母を添え物として扱っていたのは明らかだった。母だけではなく、あの二人にとっては自分たち以外のものは全てラブストーリーを彩る飾りに過ぎないのだろう。私のことだってそうだ。この世界の主役はあの二人で、私たちはただのモブだ。
放っておきましょう、お母様。忘れてしまえばいいんですよ。
お母様も新しい恋をすればいいのでは?
そのうちお父様もひょっこり帰ってくるかもしれません。
どれもこれも気休めだ。父があの人だけを愛するように、母は父だけを愛し続ける。私たちはそう決められている。ーーー誰に?
「放っておきましょうお母様。忘れてしまえばいいんですよ。」
母から返事はなかった。
「新しい恋でもして、幸せになればいいんです。男は星の数ほどいるんですよ。」
私はドライヤーを止めた。痛いような沈黙が落ちる。
「振り向いてくれない筈の男が一瞬振り向いてくれた。それだけの事です。夢だと思って忘れましょう!」
努めて明るく出した声に、母が苦笑するのがわかった。
「・・・確かに、最初から最後まであの人は私のものではなかった。他人の男だったということね。」
そういうと母は振り返って笑った。母を、生まれて初めて綺麗だと思った。
「手に入らないものを追いかけて・・・手に入れた気になっていたけど・・・あの人、神の化身かなにかなのかしら?」
「違います」
あんな人が神であってたまるか。せいぜい魔王だ。
母がくすくす笑った。こんな風に肩の力を抜いて笑う母を、私は知らなかった。
「私にとって神様みたいなものだったわ。そうね、神を手に入れようとしたこと自体が無謀だったのね。」
その後私は体よく部屋を追い出された。
「私、酔うとめんどくさいらしいの。だからアダールから飲みすぎるなって言われてたんだけど、もういいわよね。でもさすがに娘にそんな姿を見せるわけにはいかないから。」
そんな事を言われながらグイグイと体を押され、廊下まで押し出された。
「お休みミツコ。ミツコって名前はアダールがつけたの。何の相談もなくね・・・私はミドリって名前にしたかったのよ。でももう忘れるわ。お休みミツコ。明日の朝は起こさないで。」
そう言って扉は閉められた。母は今から泣くのかもしれないが、もう大丈夫だろうと思った。




