湯浴み留学生は酔夢に微睡む
挿絵の画像を作成する際には、「Gemini AI」を使用させて頂きました。
日本を訪れる留学生なら、母国で見聞きした日本文化を生で体感したくなるのは当然の欲望だろうね。
大阪の日本橋や帝都の秋葉原でオタク文化を満喫したり、京都の映画村や伊勢の戦国村で忍者や侍に成り切ったり。
台湾産まれの私こと王美竜にだって、堺県立大学の留学生として日本へ来たら、是非とも試してみたいと夢見た事があるんだ。
それはね…
足を充分に伸ばせる桧風呂に肩まで浸かると、程良い滑りを帯びた熱いお湯が、一糸纏わぬ素肌を穏やかに刺激する。
この心地良さには、思わず溜め息が出るね。
「やっぱり日本に来たなら温泉だよね!ああ~、身体がポカポカしちゃう!」
私は自分の声を浴場の壁面に反射させながら、首をグリグリと回して至福の溜め息を漏らしたんだ。
「おっと!タオルが落ちちゃう!」
水面スレスレでキャッチしたタオルは、四つ折りにしてチョコンと頭の上へ。
正に危機一髪かな。
「御満悦だね、美竜さん。そう喜んで貰えると、私も嬉しくなってくるよ。」
今回の和歌山旅行に付き合ってくれたゼミ友の蒲生希望さんは、タオルの摺り落ちなんか全く気にせず、涼しい顔で半身浴を決め込んでいるんだ。
実用性を考えたら、ああして頭に巻くのが正解なのだけど、タオルは折り畳んで乗せるのが日本流な気がするんだよね。
そう!
何を隠そう、私が憧れていたのは日本の温泉文化なのでした。
熱い温泉の湯に身を委ねていると、昼間の疲れがお湯に溶けていくみたい。
そうして立ち上る白い湯気を見ていると、昼間に訪れた和歌山市と泉南地域の観光名所の思い出が、ホワホワッと蘇って来るんだ。
「今日は最高だったね、蒲生さん!みさき公園を遊び倒した後は和歌山城に登って、それから県立博物館と近代美術館でしょ。」
湯煙立ち上る水面からザバッと突き出した右手で、つい指折り数えてしまうの。
子供っぽいなんて言わないでよ。
それだけ私が上機嫌って事なんだから。
「市内を存分に楽しんだら、加太線に揺られて漁村散策。淡島神社に奉納された人形達は、もう圧巻だったよ。」
「それに酒蔵見学での地酒の飲み比べに、鯛会席を肴にビールの一気飲み。締めは内風呂での冷や酒なんだね、美竜さん?」
溜め息をつく蒲生さんを尻目に、私は湯船に浮かべた木桶に手を延ばしたの。
中身は当然、お銚子セットなんだ。
「当然!日本で温泉入ったら絶対にやってみようって、ず~っと夢見ていたんだもの。」
午前中の酒蔵見学で貰った枡に、手酌で注いだ辛口の純米酒。
備え付けの冷蔵庫でキンキンに冷やしておいたから、温泉で温められた身体にグッと染み渡るよ。
「う~ん…効くぅっ!」
思わず変な声が漏れてしまうな。
「もう…美竜さんったら飲み過ぎだよ。1人でビールの大瓶2本も空けちゃってさ。」
「大丈夫だって、蒲生さん。さっきの仲居さんも感心してたじゃない、『台湾の娘さんは良い飲みっ振りですね。』って。」
2本目になると面倒だから、瓶から直接一気飲みしたっけ。
麦芽の苦味と炭酸の弾ける泡が喉を駆け抜けて、あれは最高だったよ。
「あれは呆れてたんだよ。美竜さんったら、本当にウワバミなんだから。」
そうは言われてもなぁ…
到着早々に露天風呂に入って、それからバスケット卓球っていう和歌山のローカルスポーツに興じて、軽く汗をかいちゃったんだもの。
ビールを一気飲みしたくなるのは自然の摂理じゃない。
「美竜さん…頼むから、大浴場と露天風呂では飲まないでよね?」
「大丈夫だよ、蒲生さん。そのために内風呂付きの部屋を頼んだんだから。」
正直言うと、露天風呂でも飲みたかったよ。
一糸纏わぬ裸身に外気がヒンヤリ当たる開放的な露天風呂で、大海原を眺めながら冷や酒を飲んだら最高じゃない。
だけど大浴場でお酒が飲める旅館は少ないから、泣く泣く諦めざるを得なかったんだよね。
「美竜さん、くれぐれも飲み過ぎないでね。」
「次の一杯分が最後だから大丈夫だって。」
この時の私にとっては、先に上がろうとする蒲生さんよりも、お銚子の残りの方が重要な問題だったの。
今から思い返すと、本当に申し訳ないけど。
手酌で入れた日本酒は、枡の半分も満たさずに尽きてしまったの。
これで宿へ持ち込んだお酒は、綺麗に品切れだ。
「一旦上がって、廊下の自販機で酎ハイでも買おうかな?だけど、あの自販機は割高だし…」
ブツブツとボヤきながら、空の枡を覗き込む私。
「あっ!やっ…」
変な姿勢で筋肉が釣ったのか、私は浴槽に頭から突っ込んじゃったの。
ところが驚いた事に、湯船に満たされていたのは、人肌に温められた日本酒だったんだ。
-やったね!これなら自販機で買わなくて済むよ。
飲んでも飲んでも、湯船を満たした日本酒は底をつかないの。
何なら湯船まで広くなっているようで、まるで海みたい。
正しく酒で一杯の海。
平泳ぎ位なら出来ちゃいそう。
外からも内からもお酒で熱せられて、まるで私の身体その物が熱々に燗されているみたい。
この感覚、まるで夢を見ているような…
ううん!
極楽浄土にいるみたいな、最高の気分だったの。
「うわあ!美竜さん、何やってんの!?」
蒲生さんの叫び声が、遠くから聞こえてくるまではね。
気付けば私は洗い場の床に寝かされていて、不安気な蒲生さんに顔を覗き込まれていたの。
「あっ…蒲生さん。どうしたの、その格好?」
さっきまでの爽やかな湯上がり姿から一変した蒲生さんの風体に、私は目を疑ったの。
浴衣がビショビショに濡れて肌に張り付いちゃって、身体のラインがクッキリと浮き出ているじゃないの。
同い年の女子大生である私が見ても、かなりセクシーで悩ましかったね。
タオルも巻いてない私が言う事じゃないけど。
「蒲生さんじゃないよ、美竜さん!このままじゃ溺死する所だったんだからね!」
そんな色っぽい出で立ちとは不釣り合いな程に、蒲生さんは怒り心頭だった。
形の良い柳眉は釣り上がっているし、頬はリンゴみたいに真っ赤だし。
「私が溺死?海でもないのに?」
「覚えてないの?湯船に顔を浸けて、ずっとお湯を飲んでたんだよ!」
この一言で、全てが腑に落ちたよ。
さっきまで私が飲んでいた湯船の日本酒は、酔っ払って見た夢の中の日本酒だったんだ。
蒲生さんが浴槽から引きずり出してくれなかったら、私は本当に極楽行きだったんだね。
「でも、何かの間違いって事も…」
未練がましく、升で掬って飲んでみたんだけど…
「ウェッ!やっぱりお湯だ!お酒じゃない…」
「もう~!止めようよ、美竜さん。水ならピッチャーのがあるからさぁ…」
すっかり呆れ声な蒲生さんに腕を取られ、私は湯船から引きはがされてしまったんだ。
そのままグッスリ眠った私は、二日酔いに悩まされない爽やかな気分で、蒲生さんと一緒に朝風呂と洒落込んでいたの。
青く波立つ加太の海から茜色の朝日が昇る様を間近でみるのは、それは美しい光景だったよ。
「ああ~、良い眺めだなぁ~!ビールでも焼酎でも何でも良いから、この景色を肴にキュッとやりたいよ…」
私ったら、気付いたら右手を御猪口の形にしちゃってたんだよね。
アルコールが抜けたらすぐに、こうなっちゃうんだよなぁ…
「美竜さんったら、また言ってる。あんな酔夢でやらかした後なのにさ。」
もっとも、右手で握った幻の御猪口は、呆れ顔の蒲生さんにピシャリと叩かれちゃったんだけどね。
「スイム?私、泳いだ覚えなんてないよ?」
聞けば「酔夢」というのは、酔っ払った時に見る夢を指す日本語なんだって。
英語の「泳ぐ」じゃないんだ。
だけど私としては、酔夢の中に出てきたお酒のお風呂で、思いっ切り泳いでみたかったんだよなぁ。
こんな事を蒲生さんに言ったら、また怒られちゃうんだろうけど…