婚約破棄された令嬢は元婚約者の夢を見る
自身の寝室のベッドの上でハッと目が覚める。少し息が荒いまま、長く息を吐き出す。じわりと額には汗が滲んでいた。窓の外はまだ暗い。丸く大きな月だけが彼女を見ていた。
夢を見た。3年前の運命の日の夢を。
◇ ◇ ◇
「ビアンカ・エチェベリア公爵令嬢、貴女との婚約を本日、この場をもって破棄する 」
目の前には冷たい眼をした婚約者。否、婚約破棄をされたのだから元婚約者かしら。私が何をしたと言うのでしょう。夜会で、皆様の前でこんなことをされる謂れはないはずですのに。
「理由をお伺いしても宜しいでしょうか? 」
どちらかと言えば私が文句を言う立場であるはずですのに。まあ、そのようなことをする程暇ではないので放置をしていた訳ですが。
「理由だと? そんなことも分からないのか……やはり貴女は無能だ 」
鼻で笑われるが私には元婚約者殿が何をしたいのか全く理解できずにいた。
そもそも私と元婚約者の婚約は政略であり、私が6歳、元婚約者殿が10歳の頃には決まっていた。元婚約者である彼、レオンシオ・コルティス・カンデラリア殿下。殿下の後ろ楯としてエチェベリア公爵家の縁を繋ぐ為の契約。
第一王子であるレオンシオの母君は侯爵家出身の側妃で、王家の長子ではあるものの次期王として立太子するには母親の身分が少し低い。母親の実家が後ろ楯になり得ない。
それでもレオンシオを王太子にしたいコルティス侯爵家は婚約者を同一派閥であるエチェベリア公爵家の令嬢とすることで母親の身分の低さをカバーしようとしている。その為の婚約だと彼は知らないのだろうか。
「申し訳ございません。 私には分からないので教えていただけませんか? 」
侯爵家の意向はレオンシオ殿下を王にしたいが本人は王になりたくない、とそう言う事だろうか。
「貴女がソフィアに悪辣で卑劣な嫌がらせをしたからに決まっているだろう 」
はあ、と大袈裟に溜め息を吐きながら言う殿下にビアンカは更に分からなくなる。
嫌がらせとは、一体何の事でしょう。
「無言か……。 肯定と見なして間違いなさそうだな 」
「殿下、恐れながら私には覚えがございません 」
黙考している間に全く覚えの無い嫌がらせの犯人にされそうになっている事に気が付き、平静を装いつつ慌てて否定する。やってもいない罪を背負わされるのはごめんである。
そもそもソフィア嬢に嫌がらせをして私に何の利があると言うのかしら。
「はっ、白を切るか。 往生際が悪い。 ソフィアの持ち物を隠したり、他の令嬢と一緒になってありもしないことで糾弾したり……挙げ句の果てには先日彼女を階段から突き落とそうとしただろう? 」
「私には身に覚えがございません。 そもそもその様なことをして私に何の得があると言うのでしょうか? 私にその様な事をする理由がございませんわ 」
今や野次馬と化した良家の子息、令嬢もザワザワと小声で噂話に興じていた。渦中のレオンシオと彼の腕に手を絡ませるソフィア、そして対面するビアンカはすっかりこの場にいる全ての視線を独占しているようだ。
ただし、どちらかと言えばビアンカに同情的な視線が多いように感じる。彼らは分かっているのだ、この婚約の意味を。そしてこの喜劇の意味を。
「理由が無いだと?! 婚約者である私が自分以外に恋をしている、これが理由だろう? 全く……嫉妬とは醜いな、ビアンカ 」
「……嫉妬とは好いている相手にするものではございませんか。 私が殿下に思慕の情をいだいているとでも仰るのですか? 」
レオンシオ殿下の言い分に呆れを隠しきれず溜め息と共に思わず言葉が溢れる。周りからも失笑が溢れていた。誰しもがこの婚約が政略であると知っている。
貴方に恋をしているわけがないと言外に匂わせているのは流石に分かったようで怒りからかレオンシオの顔が赤く染まる。
「……お前が嫉妬に狂い彼女に手を出したのは分かっている。 お前がこの国に留まることは許さない。 今すぐに出て行け! 」
「……畏まりました。 皆様お騒がせして申し訳ございません。 失礼いたします 」
もう何を言っても無駄だと諦めたビアンカは溜め息を呑み込むと騒がせたことを謝罪して踵を返し会場を後にしようと足を進める。
「待て、ソフィアに謝罪をしてから出て行け 」
この期に及んで謝罪とは……。本当に愚かな人……。
踏み出していた足を止め、くるりとビアンカはレオンシオに向き直る。彼女が謝罪をすると思ったらしいレオンシオは満足そうに嫌な笑みを浮かべた。
「何故謝罪をする必要が? 私はしてもいない事を認めるほど愚かではございません。 それでは失礼いたします、ごきげんよう 」
隙の無い笑顔を浮かべ、自らの主張をハッキリ述べ、綺麗にカーテシーをするとビアンカは再び歩き出す。
「何だと?! 待て、ビアンカ! ビアンカ!! 」
今度は歩みを止めることも、振り向くこともせず会場を後にする。
この日の婚約破棄はすぐに貴族社会に広まり、同時に第一王子の愚かさも広めることになる。
◇ ◇ ◇
特にレオンシオとの婚約破棄に後ろ髪引かれる想いがあるわけでも無いビアンカだったが、今でも時々当時の夢を見る。
婚約破棄の茶番劇から家に帰ると既に家族の耳にも入っていたらしく王家、そしてコルティス侯爵家への怒りに燃えていた。貴族にしては仲が良いエチェベリア公爵家はビアンカを蔑ろにした彼らをすぐに見限った。
中央で宰相として存分に手腕を振るっていた父はその職を自ら辞して、社交界の華と称される母と文官として働いていた兄と共に領地へと戻り領地経営へ力を注いだ。第一王子が勝手に言い出したとは言え王家からの命だった為、流石にビアンカも共に領地で過ごすことは出来なかった。
それでも両親も兄も出来うる限りのコネを使い隣国の知人の元へとビアンカを送り出した。最低限の荷物を持ち、旅立つビアンカに必ず会いに行くと約束をして。
ビアンカが身を寄せたのは隣国の侯爵家で、以前エチェベリア公爵家と縁を結んだことのある貴族であった。婚約破棄をされて疵のあるビアンカであったが、経緯を知っている彼の家は快くビアンカを受け入れた。
彼女は勤勉で他国で勝手が違う暮らしにもすぐに慣れた。ビアンカを受け入れた侯爵家当主は最近代替わりをしたばかりの年若い当主で、先代がいるとは言え未だ手探りの状態であった。そんな彼をビアンカはでしゃばり過ぎず良く支えた。いつしか2人は恋仲になり、そして婚約、結婚に至った。
「ビアンカ、大丈夫かい? 」
「ええ、大丈夫です。 起こしてしまい申し訳ございません 」
10歳年上の夫が優しい声でさらさらと指で髪を梳きながら問いかける。ビアンカは微笑みながら頷き、まだ夜が明けきらない時間に起こしてしまったことを詫びる。
「気にしなくて良い。 あの時の夢を見たのかい? 」
「はい…… 」
はあ、と疲れたように溜め息と共に肯定の意を示す。婚約破棄の茶番については既に夫も細かい経緯含めて話してある。3年も経ったのにこんな夢を見る原因として思い当たるのはあの忌々しい手紙が原因だろう。
ビアンカの祖国である隣国の王家の封蝋が押された手紙が届いたのは数日前の事だ。彼女がビアンカ・エチェベリア公爵令嬢からビアンカ・アンデルス侯爵夫人になって数ヵ月が過ぎていた。
「ビアンカ、君があの男に煩わされる事はない。 心配することはない、大丈夫だ 」
「クリス……お手を煩わせてしまいごめんなさい 」
優しい夫の声に緊張を解き、普段の言葉遣いで苦笑の混じる微笑みを返すと少し怒りを滲ませた瞳で彼は諭すようにビアンカを慰める。
「君は何も悪くないのだから謝る必要など全く無い。 悪いのは愚かで幼稚なあの男なのだから 」
クリストハルト・アンデルス侯爵が怒るのも無理はない。レオンシオから届いたその手紙には婚約破棄を無かったことにして側妃として迎え入れるから戻ってこいと言った旨が貴族特有の遠回しな表現で書き連ねてあった。
婚約破棄をした上で国外追放をした張本人が、既に他国で結婚しているビアンカに対して送りつけてくる内容としては誰が見ても彼女を、そして彼女の夫であるクリストハルトを馬鹿にしているとしか言いようがない。
あの男、レオンシオがビアンカを望んだ理由にはいくつか心当たりがある。1つはやっとビアンカが婚約者であった理由を正確に理解したのだろう。あの男は基本的に甘やかされて育っていた。ビアンカと結婚しなくとも王太子にゆくゆくは王に成れると当然のように思っていた筈だ。どうにもならないかもしれない、そう思って慌てた。
2つ目は年が離れた弟を侮っていたこと。彼の国の第二王子はレオンシオにとっては8つ下の異母兄弟に当たる正妃の子。彼の優秀さは隣国にいるビアンカの元へも聞こえてきていた。正妃は公爵家の出で後ろ楯もある。次代の王は彼こそが相応しいのではと囁かれているのは公然の秘密だろう。
最後にビアンカの持つ力があの男の耳に入ったのだろう。
「しかし、君はあの男の夢を見た、そうだろう? 」
「ええ、そうね 」
夢。ビアンカは夢を見る。特別な夢を。
「君があの男のもとへ連れ戻されることはない、決して 」
「はい 」
ビアンカは夢で未来を見る。大きな事から小さな事まで、内容は様々。その日の夕飯を夢に見ることもあれば、とある村で疫病が流行るのを見ることもある。いつどんな夢を見るかは選べないが彼女自身に関わりのあるものの未来をいつからか夢で見るようになっていた。
ビアンカは何度か見た夢で元婚約者の行く末を知った。元婚約者であるレオンシオが仕事を部下に押し付けソフィアと共に王家の予算を使い込んだことが判明し廃嫡。既に結婚していたソフィアと共に王家から放逐され一代限りの男爵に。しかし、王族から男爵に落ちた事でビアンカを呪わんばかりに恨んでいた。その後、ビアンカの実家であるエチェベリア公爵家へ逆怨みから復讐しようとして、失敗。一代限りの男爵が高位貴族、それも公爵家を謀略にかけようとしたとして、処刑される。
ビアンカの見る夢は決して変えられない未来ではない。あくまで今のままではこうなる可能性が高いと示しているだけのようだ。つまり、その結果を避けようと行動を起こせば結果が覆ることもままある。未来を変えようとしなければ大体が夢で見た通りの結果になる。
ビアンカの力は知る人ぞ知る力であった。開けっ広げにしているわけではないが、隠していても何処からか漏れることもある。その漏れた情報をレオンシオも聞いたのだろう。
「起きるにはまだ早い。 もう少し寝よう、今度はきっと良い夢を見れるさ 」
「ええ……クリス、有難う 」
クリストハルトは優しくビアンカを抱き締める。クリストハルトの優しい温もりを感じながらビアンカは微睡む。もう夢を見るのは怖くない。こんなにも優しく愛おしい人の腕の中にいる。
「おやすみ、ビアンカ。 良い夢を 」
「…… 」
ビアンカの額に優しいキスを1つ。彼女は既に夢の中。あどけない表情で眠る彼女に安心してクリストハルトも再び眠りにつく。
その日もビアンカは夢を見た。愛しい夫と可愛い我が子と幸せいっぱいの家庭の夢をーー……。
ーFinー