無意識世界にて
何もなく誰もいない真っ暗な道を、一人、ずっと歩いていた。
いつからここにいるのか、なぜここにいるのか、思い出せない。
何か大切なものを落としてしまったような気もした。でも、これでいいような気もした。
それでもやはり欠落感が我慢ならなくて、何もない道を彷徨い続けた。
外に出られれば、それはそれは強い幸せが待っているような気がする。
どうしようもないほどの高揚感がわき上がる。あぁ、早く外に出たい。出口はどこだ。教えてくれ。
『流石はあなたです。そんなに外に出たいのですか』
声が聞こえた。
『あなたにその覚悟があるならば。知る覚悟、手に入れる覚悟があるならば』
鈴を転がしたような綺麗な声。どこから聞こえるのか、誰の姿も見えぬこの無のどこにいるというのか。
『あなたに私の姿は見えません』
それはなんと残念な。きっとあなたは美しいだろうに。
『いいえ、それでいいのです。見えない方が良い、ということも多いものです。あなたならば、特にそうでしょう』
何を言いたいのだろうか。自分が幻滅しやすい人間だということだろうか。
あぁ、それはそうかもしれない。いまいち覚えはないが、なんだかしっくりきてしまったから。
『あなたはここから出たいのですね』
当然だろう。というかなぜこんなところにいるんだ、ここはどこなんだ。
『ここは心の闇、無意識の領域。あなた自身、あなたの本体が、見なくていい、あるいは見たくないと思い押しやった感情や記憶の行き場。つまり、心のゴミ箱です』
よくわからん。無意識というが、今こうして意識できているではないか。
『あなたの本体は、あなたがこうしてもがいていることなど知りません。無意識下に押しやるとはそういうことです。押しやったところでなくなるわけではないのです』
つまり、自分は本体にとって、消したいが消すことはできない存在なのか。
『そうですね』
そう言われれば、なんだかここから出てはいけないような気がしてくるのだから全く不思議だ。
わけもわからない奴にそう言われただけなのに、漠然とした不安に蝕まれそうで途端に恐ろしくなる。
それでもなお諦めたくないと思った。まだ前を見ていたいと。
『そう、その感情こそが、あなたがここへ押しやられた理由です』
この感情こそが? 本体とやらは、この不安に耐えられなくて押しやったというのか。それならば、本体は外の世界でさぞ幸せに暮らしているに違いない。
あぁ自分も本体であればよかった。何を押しやって何を留めるか決定できるような立場であれば、こんな思いをせず、明るい外の世界で笑えたのに。こんな気持ちを抱き続ければ、いつの日か自分も本体になれたりしないだろうか。
『いいえ。なれませんし、まず前提が間違っています。あなたの本体は生気のない目で日々を過ごしています。笑うどころか、楽しいとか嬉しいだなんて殆ど感じていません。
生活に必要な最低限のことだけ淡々とこなし、無感動で、娯楽もなく、夢も希望も目標もない。
まるでこの世界のように、意識上もまた、何もありません。ただどんよりとした闇があるだけです』
なぜだ、なぜそうなる、それでは出口を見つけても見つけなくても同じということか。
誰だか知らないが、答えてくれ、この世界のどこにも希望なんてないのか。
『あなたがそれを望んだからですよ』
そんなはずはない、こんな暗い世界を望む物好きなものか。
『あなたは――あなたの本体は、感受性の強い人間でした。しかし自身の感情の落差に耐えられなかったのです。
いいことがあったと喜べば、次の日にはそれを超える強い苦しみを感じ。良き仲間に恵まれたと喜んでいたのに、裏切られ。目標達成を夢見て必死で努力していたのに、実らず。
そういったことが重なり、思ってしまったのですね。
どうせ裏切られ続けるならば、期待なんて捨て去ってしまおうと。
――その捨て去られた期待、それがあなたです』
あぁ、だからこんなにも外に出たいと思ったのか。
『あなたの本体は、全てに絶望しました。無論期待というのは強すぎると害になるものです。しかしあなたの本体が期待を捨てたのは、絶望し、諦めたからこそです。
あなたの本体は、期待、つまりあなたを原動力に行動しておりましたから、絶望しながらエネルギー源を捨てようとしている状態です。あなたが作り出す高揚感は時に有害ですが、それでもそう簡単に切り捨てていいものではありません』
期待――期待、か。自分が外の世界に出たとして、どうなるのだろう。
自分が期待そのものであるというならば、自分が外の世界に抱いてしまう感情は全て、未知の存在を自動的にプラスに捉えた結果でしかない。
しかも外の世界に戻ったとして、自分の居場所はあるのだろうか。ある、と思っていた、それも自分が期待である故で、あぁ、ならば、自分は何を信じればいい。
帰る場所も、待っている未来も、自分の感情すらも、信じることはできない。
『実は何度かあなたにこの話をしています。無論覚えていないでしょうが。最初は外の世界に出てやるなどと強気だったあなたでしたが、この話をするといつも現状維持を選択するのです。その理由はおそらくあなたならばもうおわかりでしょうが。
私は前回のあなたとの対話を終えてから、また無意識へ通ずる道が開いたならばあなたに伝えようと思っていたことがあります』
何だ。君が、こんな自分を必要としてくれるというのか。
『おそらくですが、あなたの本体があなたを必要としています。まあ、これは私の考えですが。期待がなければ、何を目指して歩いていくのですか。辿りつけると思えないゴールに向かって歩いていけるほど、人間は強くありません。無論裏切られることもあるでしょう。実を結ばない努力もあるでしょう。
しかし、それでも、人が人として、己を軸として、自らの力で生きるには、己にある程度期待をかけてやることが必要なのです。期待を失った人間は、どう生きればいいのか、どう生きたいのかがわからなくなってしまいます。些細な希望さえ持てないのですから当然のことです。
あなたはエネルギーであり、道しるべです。どうかあなたが本体に、歩むべき道を示してやってほしい。
私はあなたにそう『期待』しています』
その強い声が、自分としての感情を高ぶらせた。
外に出たい、まだやれる気がする。たとえ本体がどんなに絶望していても。
その闇を照らすことこそ、自分の存在意義ではないのか。
『その意気です。無意識の力が特に強まっている今、あなたにこの話ができてよかったです』
無意識の力が強まっている?
『そうです。あなたの本体もまた、自分を変えなければと、暗い闇の中を彷徨っているためです。
本体が自分としっかり向き合おうとしたことで、無意識の力が強くなったのです』
そうか、本体もまた。
自分をここに押しやった本体もまた、期待を失ってもなお必死にもがいていたのか。
『そうです。不器用なりに、本体も必死です。――腹はさだまりましたか』
覚悟はきまった。わき上がるこの感情が正しいかはわからないが、これも必要なものなのだとわかったから。そして、自分が進むべき道も、見えてきたから。
すると、突如光が差し込んだ。ここに行けば、この光に飛び込めばいいのだろうか。
『そうです。この先は、外の世界。しばらくこの闇の中にいたあなたには少々刺激が強いかもしれませんが、きっと良いものが得られるでしょう。それでは、良い旅を』
言葉を返そうとしたが、気配は消えてしまった。まだお礼も言えていないのに。
名前も、目的も、何者なのかも、聞けていないのに。
まぁきっといつかわかるだろう。根拠はないが、そんな気がしたのだ。
眩しい光に一瞬身震いしたが、小さく微笑み、勢いよく飛び込んだ。
「ただいま」