一章②
「あんた、何話してたの?」
受付の入り口を出るなり、アマミチの右耳はナナセイの不機嫌そうな声を捉えた。いや、不機嫌そうと言うより、明確に不機嫌だった。それは仕事から帰って来てまだ疲労が残っているのか、立て続けに続けて仕事が入ったことにイラついているのか、それとも何か他の理由があるのか、アマミチには見抜けなかった。彼女の眉根に皺を寄せている顔を見ても、それはわからない。
「いや、受付では静かにしろって怒られた。お前だけ逃げやがって」
とりわけ嘘を吐く必要もなかったが、アマミチはいい加減にナナセイの言葉に返事をすると、「さっさと執務棟へ行こうぜ」降り注ぐ雪を見て舌打ちをした。
ナナセイはその返事に納得したのか、アマミチの横に並ぶと、拠点の中心に居を構える執務室へと並んで歩いて行った。執務室はこの拠点に存在する建物の中で唯一、完全木造の建築である。また、唯一二階建ての建物であり、鋭角の三角の屋根を持っており、石造りの暖炉や窯まである。それはある程度の大きさの木材が貴重なエゾでは破格の存在と言えるだろう。逆説的に、拠点一つを任される者の責任の重さを、表しているとも言える。
そんなガードと言う存在の重要性を表現した執務棟の建物の前には、一人の少年が立っていた。まだまだ幼い少年のガード見習いのようだ。この拠点はサードガードよりも更に位の低い訓練生を指導する養成所としての一面も持っており、常に何十人かの人間を教育している。執務棟の門番をしている彼も、その内の一人だろう。少年は顔を寒さに赤く染め、歯を鳴らしながらその場で足踏みを繰り返していた。
「おい、少年。みっともないから足踏みは止めな」
唇を真っ青にしている少年に、アマミチがなるべく優しく聞こえるように注意をした。まだ幼い内は、空気中のフロギストンを操る術が苦手なため、周囲の気温をうまく調整することができない。足踏みを繰り返したり、身振るいをしたりするのは、そんな自身の未熟さを周囲に知らせることに代わりなく、アマミチはそれを注意したつもりだった。
しかし少年は『死色の十字』と恐れられる十文字槍の使い手に注意された事実に、顔を寒さ以外の理由で青くした。ナナセイがスターとして扱われる中、アマミチはその真逆、まるで戦闘狂の阿修羅のように噂をされている事が多い。クマと素手で殴り合いをして勝った、『当代最強』すら戦うのを避ける、単身で三十の山賊の首を取った、等々。人間離れした噂が……否、事実が存在する以上、それも仕方がないことなのかもしれない。
憧れられながらも、恐れられると言う、微妙な状況に、アマミチは少し傷ついたように帽子の上から頭を掻いた。
「あのね。見張りは地味で辛いけど、どんな場所でも仲間の命を預かっているの」
傷心しているアマミチを見かねて、ナナセイが少年の目線まで膝を曲げ、優しく囁いた。その口調は聴いたことがない程優しさに満ちていて、少年は怯えを表情から消して頷く。
君は決して意味なく、寒い雪の中立たされているわけではないとナナセイは言う。執務室と言う、拠点の心臓部とも言える場所の見張りを任されているのだ。勿論、昼間からガードと言う先頭のプロ集団の中に乗り込んで来る間抜けはいないだろから、その殆どは立ち尽くすだけで終わってしまう。
しかし破壊と再生を司るガードは、決して油断してはならない。負けてはならない。
このエゾの民全員の恐怖を砕き、希望を築く義務がある。
その為に、ガードは強くなることは元より、負けることが許されていない。
「報われないかもしれないけど、君はただ立っているんじゃあないことを覚えていて」
腰からナイフを鞘ごと外して、ナナセイは少年の手を取ってそれを握らせる。『ウーノ』に続く事実上最高ランクのフロギストン感応力を持つ『ドゥース』のナナセイにしてみれば、手放したナイフを使って少年の周囲にあるフロギストンを操って温度を操作するくらいのことは容易い。
「私はこれから執務棟に入るわ。武器の持ち込みは禁止だから、私の背中は君に預けるわ」
「はい!」
少年はナナセイの言葉に威勢よく言葉を返し、背筋を真っ直ぐに伸ばして敬礼した。
「ったく、その優しさを俺にもくれよ」
そのやり取りを見て、アマミチは肩を竦めて溜め息を吐く。
「嫌よ、アマミチは返してくれないでしょう?」
「さいですか」優しさとは、ナナセイの中で貸し借りする物らしい。「さっさと行こうぜ。ってか、アポとか良いのか? 坊主は何か聴いているのか?」
少年に視線を向けないようにアマミチが問うと、「お二人が来たら、お通しするように言われています」明朗な声が雪降る空に響いた。
「そうか、ありがとうな」
簡単に礼を言うと、アマミチは執務棟にずかずかと近寄って行き、木製の扉を力強く二度ノックする。
「どうも、アマミチっす。次の仕事の話を聴きに来ました」
上司に対する挨拶とは思えない態度の口上に、「開いているよ」と落ち着いた初老の男の声が対応した。その落ち着き具合は、間違いなくシメイ拠点長の物であろう。建築家のセンスが悪かったのか、かまくらと同じ要領で立てたのか、この建物の入口は、拠点長が座する執務室へと直接繋がっているので、声はかなり通りやすくなっている。
その言葉に従い、アマミチが間髪を入れずに扉に手をかける。その様子に、ナナセイと見張りの少年が慌てて声を上げた。
「ちょっと、アマミチ。あんた、槍を置いて行きなさいよ」
そう、アマミチは自慢の得物である十文字槍を右手に持ったままであった。武器としては勿論、導術の触媒に成りうるサイズのフロギストン鉱は、ナナセイがしたように見張りの少年に預ける必要があった。『死色の十字』とまで評される武士であれば尚更だ。
「うん? そりゃあ無理だ」
しかしアマミチは首を横に振る。その瞳は臨戦時のように鋭くなっており、唇は皮肉気に吊り上がっていた。
「少年。見張りは重要だし、規則を破ってはならない。それは絶対だ」
喋りながら、アマミチが開いている左手で扉を開ける。建て付けが悪いのか、木が擦れる音が低く唸るように鳴った。
瞬間。開け放たれた扉の隙間から、眩しく光る刃がアマミチの首を狙って飛び出した。
予知せぬその強襲に、ナナセイと少年の口からは声にならない悲鳴が上がり、
「でもよ!」
アマミチはそれを事前に知って言ったかのように、手にした槍でそれを払いのける。フロギストン鉱同士が激しくぶつかり、互いの闘争心によって火花が散り、周囲の気温が一気に数度上昇した。
「ただ『死なない』ってことの前にはそんな物はクソだ」
一言喋る間にも、幾つもの刃を複合したような複雑な形をした刃が空き放たれた扉から突き出して来る。アマミチはその場で後ろに跳んでそれを回避し、腰を落として重心を低くすると槍を上段に構える。
「何の真似だ? ノブナリ!」
状況について行きないナナセイと見張りの少年を置いて、アマミチが扉の奥の襲撃者の名を叫ぶ。
「くっくっく。懐かしい声だ」
ゆっくりと軋む扉が開いて行き、その奥から一人の男が歩み出てくる。室内に居たためかコートも帽子も身に付けていないその男は、ボリュームのある髪を後ろで纏め、顎には無精髭を生やしている。ガードと言うよりは山賊の頭と言った方が信じる人間も多いだろう。そんな男が自分の背を越えるハルバートを握っているのだから、まだ幼い見張りの少年は涙目になっていた。
「俺に泣き付いていた小僧が、随分と逞しくなったものだな。私は嬉しいぞ、ミカミ・アキラの子、アマミチよ」
鷹揚に手を広げる男の右手には、ハルバートが握られている。槍と斧と鎌と、あらゆる長柄の武器の刃先を複合させた刃が取り付けられたその武器は、ポールウエポンの完成系とすら言われている。
それを自在に操る彼こそ、アマミチの師の一人であり、今回の任務の総責任者――
「そう言うあんたは、随分と白髪が増えたなノブナリ」
――カット・ノブナリ=トライファーストガードであった。
「ああ。お前に勝てたが、歳には勝てないようでね」
「はっ。じゃあ、あんたの皺だらけの顔を拝める日も近そうだ」
武器も導術も使っていないのに、互いの視線の交差上に火花が散る。二人の間にある因縁が如何なる物かはわからなかったが、確執は深そうだ。無言の圧力がじわじわと周囲に広がって行き、一触即発の緊張感が場を支配する。互いにじりじりと間合いを詰めて行き、冗談でなく戦闘行為を始めようとしている二人を止めたのは、
「高名なあなたに出会えて嬉しい限りです。ノブナリ様」
ようやく事態に追いついたナナセイだった。気を取り戻した彼女は凛とした態度で頭を下げると、落ち着き払った声で堂々とノブナリに寄って行く。
「私の名前はツクヨ・ナナセイ=ドゥース。セカンドガードを任されています」
淑女然としたその態度に、ノブナリは自慢のハルバートを雪の上に投げ捨てて大袈裟に両の手を広げる。若い女性はいつの時代も強い。
「これは美しいお嬢さんだ。私はカット・ノブナリ=トライ。年の功でファーストバスターなんて押し付けられている」
二人は流石に抱き合いこそしなかったが、互いに手を取り合って握手を交わす。一気に薄くなってしまった闘争の気配にアマミチは舌打ちをすると槍を気絶しかけていた少年に押し付けた。
「おっさん。ナナセイ。さっさと入ろうぜ、寒くなってきた」
背を丸めて覇気を失った声で、アマミチがぼやく。二人は素直に頷くと、開けっ放しになっている木製の扉に歩んでいく。
「あ。でもさ、アマミチ。どうしてノブナリ様の攻撃がわかったの?」
小走りにアマミチの横に並んだナナセイが、小声で訊ねた。
アマミチはその質問に、退屈を隠さず答える。
「ん? そんな事かよ。おっさん、ちょっと自分の名前を言って見な?」
「カット・ノブナリ様だが?」
「それだけで、俺には十分さ」