四章③
目を開けると、アマミチは見知らぬ廊下の真ん中に己の足で立っていた。
「何処だ? ここ」
視界に映る物は薄暗く狭い通路だけであり、大量のフロギストン石ではなく、指先程しかない小さな丸いフロギストン石が申し訳なさそうに灯っているだけだ。気温も明らかに零下を割っていて、暗い空間には白い息が浮かんでは消えてを繰り返している。
先ほどまでいたあの静謐さを持った空間とは全く違う状況に目を白黒させながら、アマミチは指輪のフロギストン石に念じ、周囲のフロギストンを集める。槍が届く範囲の明かりと、自分の回りの気温を調整した。
照らし出された通路の壁は、明らかに人為的に掘られ、加工された跡が見え、背後の通路を確認してもそれは同じだった。先程の聖域のような場所に繋がる道は一切とない。脈絡のない場面の転換に頭を抱えるしか術がなかった。
確かなことは、アマミチがまだ生きていると言うことと、右手にフルフロギストン石製のバスタードソードがあることから、先ほどまでいた場所が実在すると言うことの二つ。
それ以外のこと――例えばここが何処なのか、途中途中で記憶が跳んでいるのは何故なのか、手にした雑種剣は何なのか――は全くわからない。
深い溜め息を吐いた後、アマミチは呼吸を整え、一歩前へと足を踏み出した。どちらから来たか覚えていない以上、前も後ろもないのだが、便宜的に最初に向いていた方向を前とした。
ホルダーも鞘もない雑種剣を多少煩わしく思いながら進むこと数歩。不意にその足が止った。
「……っ! がぁ!」
同時、口から苦痛に満ちた悲鳴が吐き出される。その場に膝を付き、バスタードソードを手放して自分の頭を両手で押さえる。脳内を小人が暴れ回るような激しい痛みに、眼球が飛び出すのではないかと言う程目を剥く。込み上げてくる胃液を耐え切れずに吐きだし、内部から破裂しそうな頭を潰すように抑え込む。
鼻孔を薙がれた胃酸の匂いと痛みに、更なる嘔吐を重ね、全ての胃液を出し尽くしてもなお、脳味噌を投げ捨てたくなる痛みは引かない。痛みに合わせ、瞼の裏にはテントウの姿が現れ、暗闇に投げ出された無力な自分が脳裏に浮かぶ。
「これは……夢?」
頭痛に涙しながら、アマミチはバスタードソードに手を伸ばす。何故だかわからないが、この雑種剣を手にしなければならない気がした。テントウのような印象のあるその剣を。
震える指先でそれを握る。
テントウと同じ色をしたその柄を握ると、すっと頭の中の小人が消え去る。酷い倦怠感こそ残ったものの、吐き気も眩暈も収まり、アマミチはほっと息を吐く。頭痛が少し残る頭を上げ、すっかりと萎えてしまった足に力を籠める。雑種剣を杖代わりにすれば、なんとか立ち上がることができた。本来であれば、そんな使い方はしないのだろうが、背に腹は抱えられない。
よろよろと、老人が杖を付くように、バスタードソードに体重を預けながら、アマミチは息を切らしながら道を進んでいく。既にフロギストンを集める余裕はなく、道は先が見えない暗闇に包まれている。その暗闇の中、身体を引き摺るようにアマミチは前へと進んでいく。
全身を焼き尽くすような痛みこそ去ったが、その代償のような調子の悪化にアマミチは既に悪態すらつけない。朦朧とした意識が処理する瞳から送られてくる景色は、右半分が青い靄が掛かって上手く見ることができない。
片や冷たい暗黒が続き、片や見たこともない透き通ったアオイロ。左右の瞳の映し出す光景の差に、ただでさえ不確かな足取りが、更なる迷いを見せる。杖代わりのバスタードソードすらも怪しくなり、アマミチは壁に身体を預けてしまう。
次第に呼吸すら意識しないと正確に行うのが難しくなり、身体から遠ざかる意識が見せる右目の景色だけがリアルに映し出される。
「これは……」
植物の新芽よりも青々とした色が爽やかに広がり、そこには雪よりも白く柔らかそうな雲が浮いていた。もしかして、あのアオイロは雲のない空の色なのかとアマミチが驚くと同時に、瞳はアオイロの中に輝くテントウを見つける。その光はどこまでも真っ直ぐに伸び、暖かい風がそよぐのが見える。心洗われるその空の下には、新緑が文字通り山のように並んでいた。それらは見たことのない形の葉をしていて、風が吹く度に息を揃えて踊る。鳥の声と小川のせせらぎが何処からともなく聞こえて来て、それらがゆっくりとした時の流れを伝えていた。
「ハルの景色?」
見たこともない景色に、アマミチの口が興奮気味に動く。この暖かいと言う言葉の意味を視覚的に表現したような風景を表すのに相応しい単語はそれ以外にないと、断言するように、再び同じ台詞を口にする。
「ハルの景色?」
自分の知識にない風景を、何故この右目は知っているのだろうかと、アマミチは高鳴る心臓の音に囃し立てられるように手を伸ばす。生命の美しさと力強さの具現の景色を掴もうと広げられた右手は、寒さ以外の理由で震えながら空を切った。
不用意に右手を伸ばした為、平衡感覚を失った身体は前方に引っ張られるように倒れた。受身すら取れず、アマミチは舌を噛んでしまった。
夢には手が届かないと言わんばかりに、ハルと思わしき景色は徐々に闇に溶けて行き、数秒後には初めから何もなかったかのように掻き消えた。目の前に残されたのは物言わぬ暗闇だけだ。
しかしそれと同時に身体の倦怠感はすっかりとなくなり、急に意識も吹雪が収まったようにクリアになる。
「なんなんだよ一体」
自らの身に降り注ぐ不幸の連続にぼやく。この理不尽で統合性のない事態に、流石のアマミチも困惑しているようだ。
バスタードソードが手の中にあることを感触で確かめ、周囲に灯りを灯す。空間そのものが輝きだし、剣の間合いにそれを調整する。
照らし出されたのは、机や椅子が置かれた倉庫とも休憩室とも付かぬ小さな部屋。
その部屋の中心には、一人の少女が凍り漬けにされ、彫刻のように飾られていた。
つい先ほどまで生きていたと言われれば信じてしまう、生々しい生命を感じさせる少女の姿に、アマミチは何もかもを忘れて口を阿呆のように丸く開く。凍り漬けにされて運ばれる魚や野菜は何度も見たことがあるが、人間丸ごととなると寡聞としてない。
いや、それよりも驚愕に値するのは少女の存在そのものだった。
「……何の冗談なんだ、これは」
アマミチの声が震える。良く見れば握りしめた拳も同様に震えていた。
少女の年齢は、一五・六と言った所だろうか。少なくとも二十歳を超えているようには見えず、何処となく幼さが残った顔をしている。それに反するように、身体は女子らしいラインに恵まれていた。それを飾るのは、白い薄い生地のシャツで、広い紺色の襟には赤いリボン。短い腰布の下からは、艶めかし色気を放つ細い足がすらりと伸びていて、膝上まである靴下はとてつもなく薄く、寒さと言う概念を知らないのかと錯覚させる。
それだけで十分異様な格好と言えるのだが、真の異質さは彼女の容姿その物にある。
白く細い首の上に乗る顔は、握りつぶせそうなほど小さく、精巧に作られた工芸品のように整っていた。何処を見ているかもわからない瞳は、幻が見せたハルの空と同じ色を輝かせている。ナナセイと同じ腰まであるロングヘアは、輝きを閉じ込め輝いており、忘れもしないテントウを彷彿とさせる。
他にも、見たこともない形のカバンや、小物が閉じ込められてはいたが、既にアマミチの眼中にはない。
「異邦人……?」
ハルを擬人化したような姿形をした美女に、アマミチは夢遊病患者のように近寄って行く。一歩彼女に近づく度に、血流が痛くなるほど心臓が飛び跳ね、頭の中で小人が悪意を持って踊り出す。眩暈と吐き気が何度も繰り返されるが、その足は確かに氷柱に封印された少女の元に近づいて行く。
「なるほど。こんな人間がいるなら、信じちまっても仕方がないよな」
ここまで常世離れした存在が、確かに存在すると言うのなら、ハルをムキになって否定すると言うのは、理屈ではなく心で納得がいかないと言う物だろう。少なくとも、少女の姿形は、エゾではない何処かを示しているのに違いなかった。
『小さき友よ。太陽の騎士よ。我が主よ。ガウェインよ。我が名を呼ぶがいい』
何処か遠くで、誰かの声が聞こえる。夢で聴いたような、夢で感じたような、暖かくも厳かな声。
『雪解けを求めるもののふよ。白銀を破る日輪の使者よ』
その声に応えるように、手の中のバスタードソードが無限に輝きを増し、少女を閉じ込める氷の表面が滴となった。
『我が名を呼ぶがいい。我が主よ。太陽の騎士よ。我は汝の従僕であり刃である』
アマミチは全てを理解して、痛みも悩みも全てを忘れて、ただただ無心で短く囁くように答えた。
「来い……ガラティーン」




