四章①
アマミチは暗闇の中にいた。
目を開いても上か下かもわからない、耳を澄ませても何も聞こえない。
感じることができるのは、荒巻く海に呑まれたような、抗うことのできない奔流だけ。
脱出を図ろうと、逞しい両の腕に力を籠める。が、暗黒をどれだけかき分けようと光は見つからない。足をばたつかせても結果は変わらない。
重さも形もないその闇は、間もなく口や鼻からアマミチの身体の中に侵入し、内側から彼を構成する物を分解した。それは肉体的な物から始まり、末端である四肢や頭部をあっという間に溶かし尽くす。
闇はそれだけに止まらず、暗闇に浮かぶ姿すらない魂すらも犯し始めた。
既に肉体を失い不要となった五感が喪失したのを魂の奥底で感じ、これが死なのだとアマミチはようやく理解した。無慈悲で理不尽な絶対の根本原理が、雪のように冷たく静かにアマミチを呑み込んでいく。
次にアマミチが失ったのは記憶だった。
ケカバ車から見える雪の景色。アザラシの腸の血の味。酒場の裏の饐えた臭い。初めて握ったナイフの重さ。巨大なタテシカ。ガードの訓練場の血のシミ。
真っ先に零れ落ちて行ったのは、何気ない風景。覚えてもいなかった景色が一瞬浮かんでは、闇の中に輪郭から姿を失っていく。
続いて失われていったのは、幼少の記憶。乳飲み子の視線からみた母親の顔や、兎の解体を教わったこと。なんてことのない記憶達がどんどんとおぼろげになって行き、やがては漆黒に塗り潰されて消えた。
生傷が耐えなかった教習所時代の思い出に差し掛かると、闇の浸食は一層早くなった。只々血を吐いて己を鍛える為に消費した時間はどれも似たような光景だったからだろうか? 気が付けば忘れたことすら忘れたまま、アマミチは自分を失っていく。
風景や体験した記憶が殆ど闇に消え去り、残ったのは今まで出会った様々な人々の顔と名前。彼等や彼女達の顔を見る度に、何かしらの感情も思い出すのだが、それに伴う記憶が浮かび上がることはない。ただ、漠然と「ああ、こんな奴いたな」と感じる程度で、何の感慨も沸かない。
それは実父であるヤースや、十年来の友人であるナナセイも例外ではなかった。
ただ一人、仇であるアキラの姿には、父親を殺した時の状況と吐き気のする復讐心だけが思い出された。しかしそれも、雪が湯に溶ける一瞬の出来事に終わる。
嗚呼。その程度の感情で、半生をたった一つのことの費やして来たのか。
もはや自分と闇の明確な境界線すら失ったアマミチが最後に偉大とのは、自分の人生に対する冷笑だけだった。
そして、全てが無に還った。ミカミ・アマミチ=トライを形成していた全ては闇に返り、二度と白銀の舞台に上がることはない。
…………ハズだった。
まだ、たった一つだけ、闇に浮かぶ物があった。
それは二十二年の短い人生で唯一、アマミチが心の底から憧れた存在であり。誰のせいにするでもなく、彼自身が欲した小さな光だった。初めて目にした時から色褪せない思い出に輝くその球体は、古い伝承で『テントウ』と呼ばれる遍くを照らす希望の象徴だった。
(いつ見ても、綺麗だな)
最後まで魂に残った、美しいその姿に、アマミチが優しく微笑む。その瞳には涙が滲み、渇望から喉が渇いて行くのがわかる。暖かなその光は、冷え切った身体にゆっくりと浸透していき――――
『待ちかねていたぞ。小さき者よ、久しぶりの客人よ』
――――テントウの光が闇を切り裂き、深淵の底からアマミチの姿を拾い上げる。その生命そのものの暖かさは、完全に消失したと思われた記憶や感情すら再構築していく。
『我は太陽の化身ガウェインが右腕、ガラティーン。雪解けを待つ、太陽の剣なり』
周囲にあった死の気配は、炎を恐れる獣のように既に遠い。
『汝は我を受け止める器であるか?』
フロギストンとは比べようもない輝きを放つテントウは、アマミチが体験したどの灼熱や業火よりも熱く眩しく自身を燃やしながら近寄って来た。それだけで皮膚がジリジリと焼け、瞼を通過して眼球を焦がした。
『試させて貰おう。我が主に相応しい器であるか』
そしてテントウは、朦朧とするアマミチの口の中にその身を捻じ込む。粘度の高い液体のように、球体だったテントウは形を変え、僅かに開いた口に這い込むことに成功した。
そして、
「ぐぅああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
アマミチの姿以外何もない真っ白な空間に、絶叫が響く。
人間が到底到達しえない、想像すらし得ない熱量がアマミチの舌を焼き尽くし、頬を消し炭へと変え、下顎が崩れ落ち、肺が残すことなく燃えてしまっても、魂の叫びは耐えることがない。膨大なエネルギーを持ったテントウは、そんな声には興味がないと、身体の奥へ奥へと進んでいく。食道。胃。小腸。大腸。その他諸々の消化器官をなぞりながら、人体をただの消し炭へと変貌させる。
あまりの衝撃に、瞳からは涙が流れおりそうになった。人間的な、あまりに人間的なはずのその涙は、文字通りアマミチの間に蒸発してしまい零れ落ちることはない。ばかりか瞳すら蒸発し、窪んだ眼窩には代用品として焔が収まり、視神経を焼き切って行く。それは容易く脳に届き、全てを呑み込む。そして電気信号のように、テントウの膨大な熱量が体中に伝播する。全身を巡る血管を火焔が駆けずり回り、心臓が黒く焼き上げられた。
『汝はガウェインに至り、かの冬を終わらせる勇者で在りえるか?』
既に一塊に焔と化したアマミチに、テントウが静かに問いかける。
『小さき者よ。我が問いに答えよ』
テントウのその声を最後に、白い空間には静寂が訪れた。
それも当然だろう。既にアマミチの魂はここにはない。
死よりも恐ろしい希望の光が全てを焼き尽くし、アマミチと言う存在は灰一つ残っていないのだから。




