プロローグ
「なあ、ナナセイ。お前は“ハル”を信じているか?」
雪が降っている。こんこんと、しんしんと、白い雪が降っている。
薄暗い雲から千切れ落ちた雪が、冷たく乾いた空気に揺れながら降りて来る。
白銀と暗天に支配された絶氷の地『エゾ』を構成する天から舞い降りる悪魔が、休むことを知らずに世界を白く白く上書きして行く。
世界には、曇天と雪しか存在しないのではないか? そう思わせる味気ない景色が続く大氷沼雪原の一角に、フロギストンの暖かな光が見えた。その中心には、毛皮をなめした揃いのコートと帽子を身に付ける、一組の男女が肩を並べて立っている。胸元には二つの槌が交差するデザインのエンブレムが付けられていて、フロギストン鉱製のそれは『破壊と再生』を意味し、彼等がエゾを守護する“ガード”だと教えてくれた。
“ガード”。
それは名の通りエゾの民を守る組織の名であり、その志を持った人間達の総称である。彼らは十年に近い戦闘、救助、建築等の訓練を終えた氷雪の地に抗うプロフェッショナルであり、人知を寄せ付けない薄氷の開拓者だ。
雪原に立つこの二人も、歳の頃は二十歳そこそこではあるが、その例外ではない。
「ほら、伝承や唄にあるだろ? 木々が茂って、小川が流れ、雲がない場所のことさ」
寒さを感じさせない、はっきりとした言葉を弾ませるのは青年。まだ少し口元に幼さが残りはするが、上背のある身体は厚いコートの上からでもわかるほど逞しく、朱色の柄をしたフロギストン鉱の刃が付いた十文字槍を持つ彼の姿に隙はない。
「ええ。知っているわよ、アマミチ」
その隣に立つ彼女――ナナセイもまた同じだった。
「子供の頃、糞親父が家に招いた吟遊詩人が美しい声に思いを乗せて唄ってくれたわ」
アマミチと呼ばれた彼とは比べるまでもない小さな身体ではあるが、意志の強そうな鋭い眼には力があり、腰に下げられたフロギストン鉱製のナイフの柄に手を置く格好は、彼女自身をナイフのように鋭くさせている。
若き二人のガードは、上司から言われた仕事が始まるまでの寒く退屈な時間を雑談で潰している最中であった。
「何だよ。信じてはないのか」
苛立ちを含んだナナセイの答えに、アマミチは残念そうに肩を落とす。
「当然よ。今時、子供だってハルなんて信じてないわよ」
「まあ、それもそうか。俺が生まれて二十と二年。雪が止んだことなんて一時もないしな」
「一時も? 一度もの間違いでしょう?」
アマミチの問いにナナセイが噛みつくように言葉を返す。アマミチはそんなナナセイを見て笑うと、足元の雪を無造作に蹴飛ばした。
「そうだな。雪は止まねー。雲は薄暗い色をしていて俺達の気分を台無しにして、風は身を切るほど冷たい。緑は白銀の下に隠れちまってる」
「……私の家に来た吟遊詩人はもっと素晴らしい詩を唄ってくれたわよ?」
この氷雪の世界に伝わる有名な伽『ハル』。それは誰も見たことがない氷雪のない世界の話だ。一説では死者の魂が向かう所とも、雲の上にあるとも言われている。しかし根拠など何処にもなく、他愛のない御伽噺でしかないハルは、誰もが十を超える頃には自然と口にしなくなる、儚いエゾの常識だった。
そんな可愛らしい冗談を、『死色の十字』とまで恐れられるアマミチが語ることにナナセイは苛立っているようだ。強者は強者である様に振舞うべきだと、彼女は常々思っており、統治者達を除けばバスターでも十指に入るだろうアマミチにあまり幼稚な事は言って欲しくなかった。
「別に詩人として生きるつもりはねーよ。死と槍で食ってるようなもんだけど」
「笑えない冗談ね。本当に詩人の才能はなさそうね」
「俺の転職の話は置いておいてだな、『テントウ』って知ってるか?」
遂にナナセイは喋るのも面倒になったのか、首を横に振るだけでその問いに答える。その答えに、アマミチは嬉しそうに破顔する。頭一つ以上小さなナナセイの顔を覗き込んで、勿体付けることもなく早口でテントウを説明した。
「テントウって言うのは、雲の上にある巨大なフロギストン鉱の塊りのことさ。エゾを天から温める存在なんだよ」
意気揚々と語るアマミチの説明を聞いて、ナナセイは短く「あっそ」と呟き、溜め息を吐きながら肩を竦める。エゾでは珍しい綺麗な長髪が、帽子の中から一房だけ飛び出した。
「おい。反応薄くね?」
「馬鹿な話ばっかして、飽き飽きとして来たのよ。雲の上に何かがあるなんてあるわけないじゃあない」
雲の上に何かがある。そんな類の話は、それこそ雪の数ほど存在する。『前時代の人間が逃げた場所』『死者がハルを過す空間』『別の世界への境界線』そんな確認の取りようのない稚拙な話ばかりが。
そしてアマミチの語った『テントウ』もそれらと同じ位にバカバカしい話だとナナセイは判断したようだ。燃素と呼ばれるフロギストンの結晶体であるフロギストン鉱が空中に浮かぶとは思えない。そもそも、息よりも重い物が空中に浮かぶわけがない。
「雲の上なんてないわ。あったとしても、何も変わらない、見えるのは雪だけよ」
ないない尽くしのナナセイの言葉に、アマミチは不満そうな表情を作る。
「夢のない奴」
「現実を見ることのできないあんたよりはマシよ」
一言喋る度に罵倒を返されることに疲れたアマミチは、「へいへい」とだけ言葉を返した。
すると、アマミチが喋るナナセイが茶化すと言うサイクルが崩壊し、会話が途切れる。世界は静寂に包まれ、雪は止むことなく振り続けた。
暫く雪原は棺桶のように静寂に包まれていたが、
「……ちょっと、何か喋りなさいよ」
頬を寒さに赤く染めたナナセイガそれを破った。退屈そうに腰に差したナイフの柄を撫でながら、アマミチを見上げている様子は、遊び相手の欲しい子猫のようだ。
アマミチは最初、嫌そうな顔をしたものの、「何かって何だよ」ぶっきらぼうに答えた。
「何でも良いわよ。いつもべらべらと喋ってるじゃあない。受付の女の子の間じゃあ有名よ? 『ミカミ・アマミチ=トライは人と話していないと死んでしまう』って」
「じゃあ、おれはどうやって寝るんだよ」初めて知った自分の評価に、アマミチは困ったように笑い、右手に持った槍の柄で自分の肩を二回叩いた。「まあいいか。『ハル』の話を続けていいか?」
「どうぞ。退屈な時間に退屈な話。歓迎するわ」
皮肉なナナセイの相槌を無視して、アマミチは帽子の上に乗った雪を払った後に口をゆっくりと開いた。
「人に話すのは初めてなんだが、俺は昔ハルを信じていた時期があったんだ。まだ親父が師匠に殺される前で、師匠の地獄のシゴキを受けていない頃の、人生で一番幸せだった時の話さ」
「私は隣に並んでいる今は幸せじゃあないと?」
「得物を置いて、暖かい部屋で肉の入ったスープを飲んでれば、お前と二人きりと言うのも悪くはないだろうな」
溜め息を吐き、厭味ったらしくアマミチが言葉を返す。するとその返事は凍った笑顔と、腰の入ったローキックだった。
しかしその渾身とも思えた一撃を、アマミチは「おっと」その場で足を上げることで回避してしまう。こと体術に置いて、アマミチは他の誰をも圧倒する。線の細いナナセイの蹴りなど、児戯にも等しい。
「とにかく、アマミチ少年は自分が大人になる頃には、ハルが見つかって、皆で笑って生きていけると思っていたんだよ」
「ちょっと、避けないでよ。ロマンチスト」
「うっせーな。ロマンじゃあねーよ、その頃は自分の想像が最高にリアルだと疑ってなかったんだ」
「あらあら。無知って可愛いわ」
「なるほど。お前に可愛げがないのはそう言うことか」
主導権を握って調子に乗ったアマミチがナナセイから得たのは、突くような鋭い蹴り。器用なことに一度膝と見せかけた後、爪先への強襲だ。勿論、アマミチは回避することも容易かったが、これ以上機嫌を損ねるのも面倒なので、大人しく喰らうこととした。凍傷防止のために厚く作られているブーツの上からの蹴りは、少しも痛くなかった。
「ふふ。話を続けて」
しかし満足そうに唇を釣り上げるナナセイの表情は妙に艶やか。
「わかりました、レディ」
それを見たアマミチの背筋には気温と関係のない悪寒が走る。綺麗な花には棘があると言うが、ナナセイに限っては鋭い棘を隠すために美しい花弁が付いているのかもしれない。
「その幸せな時間を深くし、そして終わらせたのがテントウだったのさ。親父が調べた話しによれば、テントウは全てを遍く照らし、世界に光と熱をもたらす存在だそうだ」
「…………話を頼んどいてあれだけど。妄想も行き過ぎるとその内に捕まるわよ?」
真剣な眼差しで雲を見つめるアマミチの台詞に、ナナセイがストップをかける。
エゾでは、ハルやそれに関係する存在のことを調べ発表することが、この地を納める十二人の統治者達によって厳しく禁じられ、その禁を破ることは最も重い国家反逆罪とされている為だ。
この二百年ほどの間だけでも三度ほど、エゾには『ハル』が存在すると言う噂が流れたことがある。それはどれも信憑性に欠ける噂ではあったが、雪も氷もない世界に憧れるエゾの多くの人間がそれを信じてしまった。
例えば三十年程昔の事件。その時は、大勢の人間が名もない雪原で死に果てることになり、様々な物品の流通が停止してしまった。それはたった数週間の熱狂であったが、激しい傷跡をエゾに残し、当時を知る人間は思いだそうともしない悲惨な事件が起きたと言う。
そのような経緯から、伽としての物語以外でハルを語ることは深く禁じられ、その探求を行った者は例外なくガードによって処刑されて、雪原の一部となることだろう。
例えばアマミチの父親、ヤース・ナツ=カットロのように。
「そっか、いいね。俺を捕まえる時はお前か師匠に頼むよ。楽に逃げられそうだ」
「……私もミカミ様も、私情を挟むほど甘くないわよ?」
「そりゃあご立派で」
へいへい。と、アマミチは退屈そうに槍の石突で三回足元の雪を叩いた。槍は拳一つ分ほどの新雪を貫いたが、それよりも下にある固くなった雪の塊に弾かれた。その下には名前の由来となった沼があり、更に下には何があるのだろうか? 少なくとも、極寒の世界が続いている事に疑いはない。
「話を戻すぜ? 俺の親父が殺された原因がテントウなんだ」凍った足元から目線を上げ、天を鋭く睨みつけたまま発せられたその言葉には、怒りも悲しみも感じられず、ただただ息を吐き出すついでと言った風だった。「俺と親父はテントウを見ちまったんだ」
二人の間に再び沈黙が流れ、それを助長するように冷たく重たい風が二人の間を通り過ぎる。地面の表層の新雪が空を舞い、ナナセイの黒髪に踊り落ちた。
「へー。それで? そいつはどんな形なの?」
かぶりを振って雪を払うナナセイは、アマミチの言葉の重い部分をできるだけ無視する。
「ああ。美しかった」淡く微笑むアマミチに、
「どう美しかったのよ」ナナセイは呆れたように言葉を返した。
「あれは、黒々とした雲の裂け目から本当に一瞬だけ俺達を照らしてくれたんだ。何処までも続くような透き通る色をした天井にくっついた、目を焼くほどに燃え輝く輪が。その光を浴びるだけで、心の底から暗い部分が消えて行って、まだ七つの俺は自然と泣いていたよ」
天に向かってアマミチは手を伸ばし、何かを掴むようにゆっくりと握る。
「信じるか? ナナセイ」
現実に焦点を合わせていない、存在感のない言葉が雪よりも軽く何処か遠くに消える。ナナセイは目を閉じ、自分の体を優しく抱いた。「覚えておくわ」
「そっか、信じてはくれないんだな」
少年のように無邪気に歯を見せて笑いながら、アマミチは十文字槍を右手の上で一回転させると、腰を低く落として槍を正面に構えた。獲物を狩る肉食獣のような格好に伴って、彼の口元には捕食者特有の牙を見せる笑みが現れていた。
それに応えるように、ナナセイが腰から白銀に輝くフロギストンのナイフを芝居がかった仕草で抜く。導術師である彼女のナイフは、刃と言うよりは指揮棒に近い。ガードの使命と、二時間も寒い雪原で待たされた怒りで燃え立つ彼女の心は、どのような調を奏でるのだろうか。
臨戦の態勢を取った二人は、目配せで互いの動きを最終確認すると静かに頷き合う。
「WAOOOOOOOON!!」
そして、緊迫した空気を切り裂く、甲高い獣の咆哮が舞い落ちる雪を震わせた。
「GAWOOOOOOON!!」「WAOOOOOOOON!!」
追随して四つの獣声が白銀の世界を砕くような暴力を伴って周囲に響き渡る。
「やっとお客さんが来たわよ」
薄く冷たく、氷のようにナナセイが笑い、アマミチが熱く焔のように頷く。
「ああ。ひいふうみーの……全部で五体だ。商売繁盛だな」
互いに口にする言葉は先までの雑談と変わりはない軽口ではあったが、二人の纏う雰囲気が氷点下の空気よりも凍てつく。
いつの間にか、五つの影が二人の正面に表れていた。
遠目には、アマミチ達と同じように毛皮のコートを着た、逆三角形の屈強な肉体を持つ鉱夫に見える。しかし影は毛皮を着ているわけではない。あまり毛並みの良くない獣毛を、影は身体から直接生やしていた。そしてその特徴は頭部にまで続いており、深く裂けた口と血に飢えた瞳以外は全て硬く短い毛に覆われている。三角形に尖った耳は頭頂部の辺りに二つ、鼻は高いと言うよりは正面に向かって突き出しており、見間違う余地なく影の首はオオカミの物であった。
クリーチャー・コボルト=トライ。
人間の生き血を啜り、乏しいながらも知恵を得た『人狼』が五体。腹を空かせ、テリトリーで騒々しく喋る馬鹿な人間を喰らおうと、群れを組み、音もなく集って来たのだ。
獣の強かさと、人の柔軟さを併せ持ったクリーチャーの凶悪な表情に、ガードである二人は怯えることもなく、嗜虐的な余裕を口元に浮かび上がらせた。
「どうやら、お客さんは空腹のようね」ナナセイが歌うように言い、
「だったら、すぐに料理に取りかかろうぜ? 活きの良い食材が目の前にあるんだ」アマミチがそれに応えるように凍りついた大地を蹴った。
刹那。白銀の世界に朱色が走る。
燃え上がる朱色をした柄の槍を自在に操り、雪原を走るアマミチの姿は、通り名である『死色の十字』に相応しく、瞬きの間に槍の間合いにコボルトを捉える。
そして、「まずは一匹」宣言通りに、中央府の工房で打たれたフロギストン鉱の刀身と、アマミチの妙技がコボルトの針金のような毛皮に覆われた喉を易々と貫く。
「ッ……ガ!」
アマミチが槍を捻ると、十文字槍の穂先がコボルトの喉を抉り抜き、断末魔の叫びの代わりに喉笛が上がり、そのままコボルトは背中から雪原に崩れ落ちてしまう。
「相変わらず、見事ね……」
アマミチが神速の一撃で一匹目を仕留めたのに対し、ナナセイは未だに動かずにいた。そればかりか、敵を目前にしているにも関わらず悠長に相棒を褒め、反りの大きなナイフを祈るように両手で握りしめている。
「グゥルルル!」
そんな隙だらけのナナセイを見逃すほど、コボルト達は愚かではなかった。残る四体のコボルトは一斉にナナセイに狙いを定めると、雄叫びを上げながら走り出す。その前傾姿勢は二足歩行であるにも関わらず、人と言うよりも下品な肉食獣の印象が強い。
唾液と耳障りな声を周囲に振りまきながら近寄って来る四体の獣を前にして、ナナセイは固く瞼を落とす。それは人間らしい油断と余裕ともとれ、いっそのこと優雅だった。
「さて、始めましょうか」
瞼を下ろしたまま、ナナセイの薄い唇から楽しそうな声が漏れる。同時、手に持つフロギストン鉱のナイフが紅く煌めき、爆炎と轟音が彼女を中心に巻き起こった。
暗鈍としたこのエゾの地で、光と熱の象徴ともいえる物質“フロギストン”。
人間の意志に反応し燃焼し発熱するフロギストンの性質を利用し、自らの意志で爆発と火炎を操る技術『導術』。
炎を操る――つまりは寒さに抗い、氷雪こそ全てと言うエゾの根底を否定する導術こそ、ナナセイが最も得意とする戦闘方法だった。
爆発によって起こった熱気が、降り注ぐ雪も、深く積もった雪も、炎の暖かさと恐ろしさを知らぬ四体のコボルトも、全てまとめて吹き飛ばす。獣人の大きく裂けた口からは、悲痛を知らせる叫びが上がり、熱で溶けた雪が再び凍り付き狼の表情は苦痛に固まる。
そんな隙だらけのコボルトを見逃す程、ナナセイは甘くはない。導術の発動媒体であるナイフを逆手に持ち直すと、既に霙上に固まり始めた地面を蹴飛ばし、手近なコボルトに襲い掛かる。あまり肉を裂くのには向かない『指揮棒』と比喩的に表現されるそれではあるが、ナナセイは遠慮な大きく間抜けに開いた口の中に突き付ける。獣の喉を潰す不気味な音は、他のコボルトの呻き声で掻き消された。
数秒前までの白く残酷な世界は、血と悲鳴に彩られる。惨劇を造り出した二人の若きガードは、そんな些事を気にすることもなく静かに追撃に移る。
いつの間にかナナセイの傍にまで近寄っていたアマミチが振り下ろす槍は、銀と朱の軌跡を残したまま、コボルトの首を易々と断ち切り、ナナセイの祈りによって出現した紅の鬼火が獣人の口に入り込み、その肺を焼き尽くす。
残る一体となったコボルトは、瞬く間に惨殺された仲間を見て小さく悲鳴を漏らすと、火傷で上手く動かない身体を不器用に動かしながら二人から背を背けた。クリーチャーと言えど、逃走を選ぶ程度の知能はあるようだ。
「おいおい。逃げるのかよ、だらしないな」
「そう? 私はああ言う必死さは好きよ?」
何度も倒れそうになりながらも懸命に足を動かすコボルトの背中を眺めながら、アマミチは不満げに、ナナセイは嗜虐的に笑いながら言葉を交わす。
「と言うより、アマミチ? あんた、私が倒したコボルトに止めを刺さないでよ。卑怯よ」
「ああ? お前の導術は俺の槍があってこそだろ? お前の方にコボルトは逃げたんだよ、俺を恐れて。おこぼれに預かったのはお前の方だろうが」
どこか楽しそうに二人は唇の片方だけを上げて笑う。
「じゃあ、残る一体でどちらの意見が正しいか決めましょうか」
「……負けた奴にだって、正しさはあるんじゃね? 勝者の傲慢だぜ? それは」
「それなら、負けた方は今日の宿で相手にご飯を奢るってのは?」
「まあ、妥当だな」
「妥当よね?」
「ああ、御馳走様」
「じゃあ、御馳走様」
互いに得物を握り直すと、アマミチは血で汚れた雪を毛皮のブーツで踏み抜き、ナナセイは万軍を指揮するように鋭く前方をナイフの切っ先で指す。二人がその命を狙うコボルトは、背後からのプレッシャーによる恐怖からか、昔を思い出したように四足歩行での逃走を図る。
「百年遅い!」
しかしコボルトのプライドを捨てたその逃走劇も、無為であった。雪原中に響き渡る大声に合わせ、アマミチが手にした十文字槍をコボルトの煤けた背中に向けて投げ飛ばす。決して投擲に向くとは言えない長槍は、風切音を伴って宙を駆け抜けた後、敗走するコボルトの首に見事に突き刺さった。背後からの衝撃に、コボルトはその場でバランスを崩し、首を有り得ない方向にまげて絶命した。
「そうだろ? ナナセイ? お前じゃあ俺には敵わない」
どうやら、『百年遅い』とはナナセイの事を指していたらしい。
肩を竦め背中でナナセイの未熟さを笑うアマミチに、ナナセイは少しだけ安心したように不満を漏らす。
「ハルとかテントウとか言い始めたから、どうかしちゃったかと思ったけど、普段通りね」
「心配している振りしても、お前の奢りは消えないぞ?」
「うっさいわね。祈りよりも早いってどういうことよ」
対照的な表所を顔に作る二人は、互いに背を向けるとそれぞれ目標を持った足取りで歩き始める。アマミチは槍を回収すると同時にコボルトの死体の足を掴み、引き摺って他の死体の傍に持って行き、ナナセイは先程まで談笑していた場所に戻り、雪の下に隠れていた人の頭ほどの巾着袋を取り出す。彼等が持ち込んだ仕事道具であり、暴れるに際しては邪魔なので、足元に置いておいたのだが、話している内に雪に埋もれてしまったようだ。
二人がこれから行うのは、火葬……所謂、後始末である。
エゾには宗教と呼ばれる物は存在せず、限られた資源を有効に管理する“統治者”に対する尊敬と、そのシステムの遵守がそれに似ているかもしれない。もっとも、強大な力を持つウノ=クリーチャーに対する信仰や、自然に対するシャーマニズム信仰が多少なりとも入り混じっているので、完全なる無宗教と言い切ることも難しいのだが。
どちらにせよ、彼等が行うのはガードとしての仕事の一環であり、決して失われた命に対する同情染みた儀式ではない。
「クリーチャー退治は楽しいが、この時間だけは憂鬱だ」
「こればかりは、これしかないんだから諦めなさいよ」
愚痴を言い合いながら、アマミチはコボルトの死体を無造作に積んでいき、ナナセイは袋から白と赤が入り混じった塊を取り出して死体の山に投げつけるように置く。それは獣の脂と血が混ざったガード特性の獣忌避剤だった。
忌避剤とクリーチャーの死体を焼くことにより生じる灰、臭い、煙によって、周辺にクリーチャーを寄せ付けなくするのである。ガードのクリーチャー討伐任務は、この行為をすることによって正式に終わりを迎える。
そして、獣を遠ざける程の臭いは当然のように人間の五感も鋭く刺激する。
「あー、サードの下っ端連中を連れて来ればよかった」
想像を絶する悪臭でも思い出したのか、アマミチが帽子の上から頭を激しくかく。普通であれば、クリーチャーの討伐はアマミチやナナセイのような『セカンドガード』と呼ばれる実戦部隊の人間が、雑務を担当する『サードガード』を数人引連れるのが通例であったが、
「アマミチが『経費削減で行こう』って言い出したんでしょ?」
「お前だってロングホーンビッグフットのコートが欲しいとか言って賛成しただろうが」
二人はそれぞれの目的の為に経費をケチって彼等を連れては来なかった。その為に、雑務も自分でこなす必要があった。必要な経費は請求すれば戻っては来るのだが、部下に見栄が張るのが上司の暗黙の仕事でもある。食事代や宿代は言うに及ばず、何か手土産を買わせなくてはいけないと言う謎の伝統も存在し、見栄から出るそれら過剰分の出費は経費としては認められない。若くしてセカンドの地位に昇進した二人の財布事情はそこまで豊かな物でなく、二人で折半したとしても出費は手痛い物だ。毎日のように入る仕事の度にそんなことをしていては、首が回らなくなってしまう。他にも、大抵の部下が年上と言うのも互いに気不味いし、そもそも奢ってもらった経験が少ないから奢る事に抵抗があるなどの理由から、二人はあまり部下を連れて行くことを良しとしていなかった。
結局二人は無益な責任の擦り付けを続け、互いの欠点を攻め合うと言う不毛な時間を過ごした後、疲れた表情のナナセイが導術で死体に火を放った。火は見る見るとコボルトの短い毛皮を焦がしていき、溶け始めた忌避剤が橙色の眩しい炎を呼び起こした。おぞましい悪臭が鼻を突き、黒々とした煙が涙を滲ませる。
「俺さ、本当はガードになんかなりたくなかったんだよな」鼻を抓んで燃え盛るコボルトの死体を眺めるアマミチが唐突に呟いた。それは今思い出したような語調を含んでいて、アマミチ自身が驚いているようだ。「師匠に拾って貰ったのは複雑だが感謝しているし、強くなるのも中々に面白かった。お前に会えたのも良かったことに追加してもいい」
雪とは何もかも対照的な灰が舞い上がり、溶けだした雪の上に落ちて行く。白と黒と混ざった霙上の地面が凍り付くと、長い期間忌避剤の効果を持続させる。
「平和を守る使命感だって多少はある。でも、俺は自分からここにいるわけじゃあないんだ。諦めて、流されて、その結果だ」
「突然どうしたの?」
形の良い鼻を同じように抓んだナナセイが、首を疑問符の形にする。
「ハルとテントウもそうだけど、なんか、アマミチらしくない」
「なんとなくさ、俺はこのままで良いのかなって考えるんだ」死体の山からずり落ちそうなコボルトの位置を十文字槍で押し戻し、ゆっくりとアマミチは一言一言を絞り出す。「昔の俺が今の俺を見て、今の俺になりたいと思える俺に、俺はなれているのかな?」
「知らないわよ」
「俺さ、昔は親父と一緒にエゾ中を回って学者になりたかったんが」冷たい相棒の相槌を、アマミチは無視をする。「テントウを見たあの日、俺はもう一度アレを見たいと思ったんだ」
「そんなこと? じゃあ、もうできたじゃん」
暗い表情をするアマミチの肩をナナセイが三度優しく叩く。そして、顎で目の前で燃え盛る巨大な焚火を指す。
「浮いてはないけど、涙が出る炎の塊。私が創ったんだから、感謝してなさいよ」
「お前には、俺の素敵な詩的感覚が伝わらないみたいだ」
珍しく皮肉気なしに笑ったナナセイの頭に手を置いて、苦笑いをするアマミチ。
何となく煙を追って見上げた空は、いつもと同じ鈍い色をしていて、雪はやはり止みそうにない。