16.ベガ・カーネリアンは毒舌家
壁際に辿り着くと、ベガは立ち止まって俺のほうを振り向いた。
「大丈夫でしたか?」
ベガは柔らかく微笑む。
「ええ、ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
「あら、簡単に頭を下げてはいけないわ」
ベガはそう言うと、くすくすと笑った。
「そう……なんですか?」
「ええ、特にアダーラ・モルガナイトの前では頭を下げてはいけないの。だってあの子、性格が悪いから、頭なんて下げたら、すぐに攻撃してくるのよ。面倒に巻き込まれたくなかったらあの子が話しかけてきたら無視した方がいいの」
「はあ……無視ですか」
「そう。アダーラなんて、どうせ、耳が腐るようなことしか言わないんだから無視して大丈夫よ」
そう言ってからくすくすと笑う。
一見すると性格の悪いような発言だが、どうやらベガは思ったことをそのまま言う人間らしい。
悪意のない表情で、さらりと毒を吐く。
「お姉様、お姉様! 大丈夫でしたか?」
ミモザの声がした。
振り向くと、自分たちの来た方向から、ミントグリーンのドレスを軽く摘まんでミモザが走ってくるのが見えた。
「嗚呼、ミモザ様ちょうどいいところに」
ベガはミモザに手を振った。
ミモザは少し驚いたような顔をしてから微笑む。
「嗚呼、ベガ様、貴女がお姉様を助けてくれたのね」
そして、安堵のため息を吐いた。
「いえ、助けたというほどでは……」
ベガは首を振った。
「あの、ミモザ様はどうしてここに?」
「あの害虫……失礼。以前、お兄様に付きまとっていた女がお姉様に突っかかっているのが見えたの。慌てて止めようと人混みを掻き分けているうちに誰かがお姉様を助けて連れ去っていったから追いかけてきたのよ」
なるほど。
ミモザに心配をかけてしまったらしいな。
ドレスを破られそうになったぐらいで実際は何の被害にもあっていないのに、そこまで気にかけてくれるなんて何だか申し訳ない気持ちになる。
「リゲルに付きまとっていた女っていうのは先ほどの方のことですか?」
「ええ。名前は知らないけどしつこかったのよ。お兄様に付きまとうのをやめたと思ったら、レグルス様に片思い。本当に気の多い尻軽の阿婆擦れ女よ」
ミモザは忌々しげに眉を顰め、ため息を吐く。
「ジェード侯爵のご令息の前は、アメシトリン子爵に熱を上げていたわね。気が多いのは確かだわ」
ベガは同情するように頷いた。
つまり、アダーラは気の多いご令嬢で、今はレグルスが好きというわけか。
で、婚約者の俺が邪魔だから何かしようとしていたところをベガに助けられたというわけなんだな。
おお、漸く自分の状況が把握できたぞ。
となると、アダーラとレグルスをくっつけるか?
いや、アルキオーネが好みという時点で、レグルスの好みは俺と似ているはずだ。
アダーラとレグルスは絶対に合わないだろう。
レグルスだってやっぱり、もっと性格のいい子がいいよな。
俺はちらりとベガとミモザを見た。
「あの、因みにベガ様は婚約者はいらっしゃったりしますか?」
「いえ、私はまだですね。次女ですし、特には……」
おお! ベガならレグルスの婚約者として最適かもしれない。
心配なのはベガがレグルスのことを好きになってくれるかどうかだ。
ベガはアルファルドのことを好きになるんだよな。
アルファルドとレグルス、性格は全く違うし、顔の系統もアルファルドは中性的なクール系の顔立ちで、レグルスは太めの眉にきりりとした顔をしている。
何だかちょっと違うんだよな。
ベガはちょっと保留かな。
「そういえばミモザ様は婚約者がいらっしゃるのよね?」
ベガはミモザに話を振る。
「ええ、一応。八歳年上なのであまり他の人には言ってないけど……」
「え? あ、あの、差支えなければ誰だか聞いても?」
「アメシトリン子爵――ランブロス様ですが?」
まて、待て待て。
ミモザには婚約者がいたのか。
聞いてないぞ。
しかも、相手はランブロス?
ランブロスってあの、レグルスの護衛のランブロスだよな。
ランブロスはアメシトリン子爵?
あれ、さっきアダーラがリゲルの前に熱を上げていた人がアメシトリン子爵だって言ってたよな。
ということはもしかして、ミモザは二重の意味でアダーラに害虫の尻軽阿婆擦れ女と怒っているわけか。
分かったような分からないような。
「あの、頭が追いついていきません」
俺は片手で頭を抱えながら床を見つめた。
「そうよね。本当に小さいときに婚約したから恋人とか婚約者というよりは親戚のお兄さんという感じで私も全く実感がないの」
ミモザは笑いながら頷く。
だめだ。次にランブロスを見たときにロリコンだとしか思えなくなる。
ランブロスならぬロリブロスだ。
リゲルはそれでいいのだろうか。
大切な妹の婚約者が八つも年上だなんて。
いや、いいのだろう。
ランブロスとリゲルが仲が良く話しているのを見たことがあるぞ。
リゲルはもう受け入れているのか。
十四歳にして自分の妹の婚約者を受けれているなんて俺には出来そうもない。
リゲルは兄として俺よりもさらに上のステージにいたんだ。
この場合、リゲルはランブロスの義兄ということでいいのか?
いいな、義兄。
俺も死ぬ前に妹の夫に「お義兄さん」とか呼ばれてみたかったわ。
俺は混乱し続けて、ついに両手で頭を抱えた。
「あ、あ、あのオブシディアン伯爵令嬢ですよね?」
急に降って湧いたように少女の声がした。
「え?」
顔を上げると、真っ赤な液体の入ったタンブラーを持ったご令嬢が目の前で震えていた。
なんだ、急に。
そして、その赤い液体は何なんだ。
嫌な予感しかしないんですけど。
「アラゴナイト男爵令嬢!」
ベガが大きな声を上げた。
「やめて!」
ミモザはご令嬢の腕に掴みかかろうとする。
「ご、ごめんなさい!」
ご令嬢は涙で潤んだ瞳をぐっと瞑る。
あ、これ、まずいやつだ。
そう思った瞬間、バシャっと勢いよく俺の胸に赤い液体がぶちまけられる。
青臭い。トマトジュースの匂いがした。
「あの、あの、ごめんなさい」
ご令嬢は真っ青な顔をして震えていた。
「なんてことをするの!」
ミモザはご令嬢の手を握って声を荒げた。
ご令嬢はうわ言のように「あの、あの」と繰り返す。
その手に握られていたタンブラーが床に落ちる。
タンブラーは割れ、床でキラキラと輝いた。
割れるとき音がしたが、周囲の話し声にかき消された。
どうやら、周囲は俺たちの揉め事にまだ気づいていないらしい。
ここで騒ぎになれば、レグルスに迷惑がかかるし、目の前の震えているご令嬢やミモザにも悪い影響が出てくるだろう。
この状況だと、まるでミモザが虐めているみたいに見えるしな。
気づいていないのは好都合だ。
「ミモザ様、手を離してあげてください」
「でも!」
ミモザは目の前のご令嬢の腕をさらにきつく握りしめる。
ミモザの指先は白くなっている。
ものすごい力が込められているに違いない。
「大丈夫。わたくしは怪我をしてませんし、ジュースがちょっとかかっただけです」
俺はできるだけ優しい声色でミモザを宥めた。
「それでも許せない!」
「ミモザ様、どうどう」
「私は馬じゃないわ!」
ミモザはこちらを向いてムッとした顔をする。
拗ねた顔も可愛いな。
俺はくすりと笑う。
「それは分かっております。冗談です」
「こんなときに呑気に冗談を言わないの!」
「じゃあ、もう冗談は言わないので手を離してあげてください。悪い人は他にいるはずなので」
俺はちらりと横目でピンク色の綿菓子みたいな髪の毛のご令嬢を見る。
人混みに隠れるようにアダーラと腰巾着のご令嬢数名がこちらを見てニヤニヤと笑っていた。
ミモザもその目線に気づいたようで鋭い目付きでそちらを睨んだ。
「アダーラ……!」
ミモザの声にアダーラたちはさっと人混みに逃げ込む。
ミモザはご令嬢からぱっと手を離すと、アダーラを追いかけようとしてドレスの裾を軽く摘んだ。
「ミモザ様、追うのはやめてください。せっかくのレグルス様の誕生日なので」
俺は慌ててミモザにそう言った。
追いかけてとっ捕まえたい気持ちは分かるが、残念ながら今のところ、捕まえたとしてもアダーラが黒幕だという証拠はない。
周囲からすれば、ミモザがアダーラに言いがかりをつけているようにもとられかねない。
だから、ここは我慢するしかないのだ。
アダーラは全て分かってやらせているに違いない。
全く、あの女、いい性格してるよ。
俺の言葉にミモザは首を横に振った。
「でも、あんまりだわ! 捕まえてもう二度とそう言うことをできないようにやり込めてやるわ!」
鼻息荒くミモザは言い放つ。
「いえ、アルキオーネ様の言う通りにしましょう。バカは死んでも治らないもの。構ってやるとつけ上がるわ。それよりも床のグラスの片付けと、ドレスの染み抜きが必要そうね」
ベガはそう言うと、給仕を呼び止めた。
「ね、お願いします、ミモザ様」
俺はミモザの腕を掴む。
ミモザはぐっと拳を握ると下を向いた。




