1.混乱と記憶
俺は混乱しっぱなしだった。
ユークレース家が襲撃されてから数日経っているが、色々なことが起こっていて頭の中が上手く整理できそうにない。
あまり考えたくないのだが、自然と頭が俺の弟のことについて考え始める。
俺に弟? そんな覚えはなかった。
もしかしたら夢だったんじゃないかとさえ思う。
だって、俺は月島昴。妹はいるけど、弟なんていなかった。
いや、待て。弟がいるのはアルキオーネなんだ。俺のことじゃない。
記憶が混乱し過ぎだ。
俺はアルキオーネの記憶を探る。
ダメだ。きれいさっぱり忘れているというわけではないのに思い出せない。記憶が飛び飛びになったり霞がかったり、酷く曖昧だ。
でも、記憶なんてそんなもんだろう。自分が大切だと思うエピソード以外はなかったことのように忘れ去られる。普通のことだ。
でも、弟がいたのなら覚えていないとおかしいだろう。だって、自分の家族だぞ。
前世の妹のことは覚えているのに、今世の弟のことを忘れているなんて間違っている。
まるで、俺は今世をどうでもいいと思っているみたいじゃないか。
いや、そんなはずはない。
お母様だって、お父様だって、メリーナだって大好きだし、レグルスも、リゲルも、ミモザも、アルファルドも、ミラも、皆大切だ。
それなのに何故、自分の弟だけ。
考えれば考えるほど頭がおかしくなりそうだ。
俺はコルセットを脱ぎ捨てた。
「お嬢様、お嬢様! 入れていただけませんか?」
メリーナの声が聞こえた。
何だかひどく焦っているような声だった。
俺は慌ててネグリジェを着る。
本来であれば、もう寝る時間だ。
急にどうしたのだろう。
「どうぞ、入ってください」
「失礼します」
「急にどうしたんですか、メリーナ?」
俺が問うと、メリーナの瞳は揺れた。
動揺しているのだとすぐに分かる。
「あの、そのっ……申し訳ありませんでした」
メリーナは部屋に入るなり、頭を下げた。
「な、にを……?」
何を謝られているのか分からない。
メリーナが粗相をした? いや、そんなことはない。
「あの、私、最近お嬢様が悩まれているご様子だったので、奥様に相談したんです」
「え?」
「そうしたら、奥様が弟君のことを言ってしまったと聞いて、それで、私、私……」
「メリーナ、落ち着いてください」
「あの、私、お嬢様に、お嬢様に謝らなきゃって……でも、そんなことしたら、私、どうしたら……」
「だから落ち着いてくださいって!」
メリーナは今にも泣きそうな顔で俺に縋りつく。
俺もなんだか泣きたい気分になってくる。
「実は私、お嬢様のお手紙を隠していて……本当に申し訳ございません!」
「メリーナ? 何を言っているんですか?」
手紙? 何のことだろう。
これ以上混乱させてほしくないのに何故そんなことを言うんだ。
「覚えていらっしゃらないかもしれません。これです」
メリーナは慌ててポケットから何かを取り出す。
メリーナの手は震え、とても冷たかった。
俺は差し出された封筒を受け取る。
それは以前失くしたと思っていたミモザからの手紙だった。
「申し訳ありません。置きっぱなしだったので中身を見てしまいました。もしも、お嬢様が中を見ていないなら、隠さなければと思って……実際、お嬢様は中身を見ていないようでしたし」
俺は中身を取り出す。
手紙の中にはアルキオーネの弟のことを気遣う一文が書かれていた。
なるほど、メリーナにはこれが不都合だったわけだ。
「メリーナ、そんなに怯えないでください。わたくしは怒っていません。顔を上げて」
冷静を装ってそう言うものの、自分の声も微かに震えていた。
いや、待て。この手紙が本当なら、ミモザもアルキオーネの弟のことを知っているということか。
ミモザが知っているのなら、兄であるリゲルだって知っているだろう。いや、アルキオーネの婚約者であるレグルスだって知っている可能性がある。じゃあ、レグルスのはとこであるアルファルドも? 噂が大好きなミラも?
皆、知っているのかもしれない。
なんで黙っていたんだよ!
いや、そもそもお母様も、お父様も、メリーナも何で黙っていたんだ。
俺に何か不都合なことがあるのか?
煩い。
心臓の拍動のせいで考えがまとまらない。
こんな心臓、止まってしまえばいい。
「ミモザ様には私が口止めをしていました。お嬢様がおかしくなってしまうのが怖くて……」
じわりとメリーナの瞳に涙が滲んだ。
「おかしく? わたくしがですか?」
「そうです。弟君が怪我をされてから、お嬢様はすっかり変わられてしまったんです。覚えていませんか?」
「いえ、全く覚えが……」
記憶にはなかったが、皆が黙っていたことは俺の為だったらしい。
おかしくってどんな風におかしくなったのだろう。
少し気になったが、知るのが怖くて聞けなくなる。
「そうですか」
メリーナはそう言って下を向いた。
ん? さっきメリーナは変なことを言わなかったか?
確か、「弟君が怪我をされてから」って言ったよな。
死んだりしていたらそんな言い方するか?
「メリーナ、もしかして、わたくしの弟は生きているのですか?」
「ええ、病院に」
俺ははっとした。
メリーナの一言でいくつかのことが繋がった。
いつもお母様が病院に行っていること、長子のはずなのに嫁に行くアルキオーネのこと、ミモザの手紙に書かれていた弟を気遣う一文、テオが言っていた「貴女も……」という言葉の本当の意味。
全ては、アルキオーネの弟が生きていて病院にいることを示していたのだ。
「すぐに会うことはできますか?」
「会うことはできますけど……」
メリーナは言葉に詰まる。
「会わせてください!」
怖いけど、会って全てのことを思い出したい。
お母様は詳しいことは言葉を濁して教えてくれなかった。
俺は本当に手を伸ばしていたのか、ただ見ていただけなのか。何処までが妄想で、何処までが真実なのか。
俺は何が起きたのか知りたい。
メリーナは困ったような顔をして言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「会うことはおそらく簡単です。奥様と一緒であれば」
「では、すぐに!」
「しかし、お嬢様への負担が……」
「負担なんてありません!」
「奥様も旦那様もお嬢様が精神的に不安定になることを恐れています。私も同意見です。それに、会ってもお坊ちゃまとはお話はできません」
「え?」
「あの方はずっと、眠ったままでいるのですから」
メリーナの綺麗な黄みがかったグレーの瞳に怯えた顔の少女が映る。俺だ。
俺は瞳の中の俺をじっと見つめた。