16.壊れた女は悪夢を連れてやってくる
廊下を駆けているとすぐに銀髪の女とリゲルを見つけた。
「リゲル!」
俺がリゲルに駆け寄る。
「あ、一応捕まえたんだけど、この人で間違いないかな?」
リゲルは女の腕を掴んでいた。
上から下まで見てみるが、どうやらアルファルドの母親に怪我はないようだ。
俺はほっとして頷く。
俺は女の様子を窺った。
女は糸の切れた操り人形みたいにただ下を向いているだけだった。
「プルーラ様ですよね?」
確かそんな感じの名前だった気がする。
俺の言葉に女はピクリと反応した。
正解のようだ。
女は顔を上げた。
「ギエーナ? お願いよ、あの子を返して!」
俺を鋭く睨み、叫ぶ。
リゲルがぐいっと女の腕を引いて制止する。
女の唾が顔に掛かった。
汚ねえっ!
俺は驚いてよろけるように後ろに下がる。
庇うように俺の前にランブロスが立った。
「わたくしは違います。ユークレース伯爵夫人ではありません」
興奮させないようにできるだけ冷静な声を作る。
俺はランブロスの後ろからそう言った。
「お願い! 早く逃げないといけないの。この国から逃げないと……あの子も連れて行かなきゃいけないのよ……!」
女は俺の言葉を無視して、狂ったように頭を振る。
そういえば、こいつ、他人の話を聞かない女だったな。
俺はため息を吐いた。
「早く、アルファルドに会わせてっ!」
そう言って、目玉をひん剥く。
女の顔は前回よりふっくらとしているものの、見開かれた目は血走り、ギラギラと輝く。
眉間には深い皺が刻まれ、眉は逆立つ。
そして、威嚇するように剥き出しになった口からは鈍い白と赤黒い歯茎が覗いている。
人の顔というよりは動物のような顔だった。
「逃げないと?」
リゲルは眉を顰めた。
「そうなの、逃げないと、ダメ。逃げないと、逃げないと、逃げないと、逃げないと、逃げないと、逃げないと、逃げないと……」
女は何度も何度も呟くと、また下を向いて黙り込んだ。
「なんの騒ぎです?」
廊下の奥からユークレース伯爵夫人が登場した。
女はまた顔を上げた。
「そう! ギエーナ、お兄さまと一緒に逃げよう! それがいい!」
女はそう言って、ぐるんと勢いよくユークレース伯爵夫人の方を向いた。
動きの緩急のつけ方がホラー映画の化け物みたいだ。怖い。
リゲルは握っていなかった方の腕も素早く掴む。
女は両腕を引っ張られ身動きが取れなくなる。
女は暴れようとするが、リゲルの力は強かった。
特別に力を入れている様子もなく、女の腕はピクリとも動かない。
しかし、ユークレース伯爵夫人を怯えさせるのにはそれで十分だった。
ユークレース伯爵夫人は手で口を隠すと、よろよろと後ろに数歩下がった。
「何故、プルーラがいるの? だって貴女はすぐには帰ってこられないところに!!」
ユークレース伯爵夫人の顔は真っ青だった。
「安全なところを教えてもらったの、皆で行こう?」
女は唇を歪め、にやにやと笑っている。
あのときはまだ人間らしく怒りと言う感情が剥き出しになっていたが、今は違う。
何か大切なものが壊れているような、以前とは違った恐ろしさがあった。
「誰に、何を、教えてもらったんですか?」
リゲルは冷静だった。
相手を刺激しないように穏やかな声で問う。
「知らない。でも、黒い髪の男の人が……」
虚ろな目がリゲルに向けられる。
リゲルは目を見開いた。
俺も同じ表情をしていたと思う。
「まさか、青い目の方ではありませんか?」
リゲルより先に、俺はそう言っていた。
「そう、青くて青くてあの子のことを思い出すような青い瞳の……ふふふっ、お祭りでもないのに仮面を被ってた。でも、きっと天使か何かに、違いない。そう、だって私を連れ出してくれた!!!」
女はガバッと天を仰ぐ。
あのときと一緒だ。
豊穣祭で化け物の振りをしていたスミソナイト領の元農民たち――彼らを唆した奴と同じ特徴だ。
ソイツが、この女を解放して、ここに連れてきたと言うのか。
でも、何の為に?
何かが引っ掛かる。
大事なことを忘れているような、ざらつくような違和感。
リゲルも同じようで女に目を落としながら、何か考えている様子だった。
「ねえ、アルキオーネ。あのときと同じ人物だとしたら、このタイミングでアルファルドの母親がいるのって絶対意味があるよね……」
リゲルの呟きは俺に向けられたものだと直ぐに分かった。
俺はリゲルの翡翠の瞳を見つめる。
頭の中で何かが弾けるような感覚がした。
「あっ、嗚呼、一緒だ!」
俺は自分の髪をぐしゃりと握りしめて、思わず叫んだ。
なんですぐに気付かないんだよ。
分かりそうなものじゃないか。
「一緒?」
ランブロスが首を傾げる。
そう、ランブロスはあのときの豊穣祭にはいなかったから知らないはずだ。
「そうです。オブシディアン領の豊穣祭のときに化け物騒ぎがあったのをご存じですか?」
「一応、報告書では見ました。確か、犯行グループは化け物が出たと騒ぎを起こす陽動側と広場を襲撃する側に分かれていたんですよね。騒ぎが起きている間に警備が手薄になった広場が襲われたのをアルキオーネ様たちがおさめたとか……」
俺の言葉にランブロスは頷く。
どうやら、事件のことを把握はしているらしい。
それなら話は早い。
「アルファルドの母親が化け物騒ぎの化け物と同じ役目なんです」
「この家にアルファルドの母親を入れたら、当然、騒ぎになる。警備の目もそちらに向く。じゃあ、この場合、警備しなきゃいけないところは何処?」
「「答えはパーティの会場!」」
俺とリゲルの声が重なった。
「つまり、パーティ会場が狙われるということですか……」
ランブロスは自分で呟いた言葉で真っ青になる。
「王子は?」
「パーティ会場に……」
ランブロスは俺の言葉を聞いて一目散に駆けだした。
パーティ会場の中にはまだレグルスがいる。
こんなことを聞いては気が気じゃないだろう。
護衛はランブロス以外にもいるはずだが、彼は責任者でもあるのだ。
「アルキオーネ、先に行って! ここはとりあえず、俺に任せて。暴れられないのは残念だけど、アルファルドの母親を抑えておかないと……」
リゲルが叫ぶ。
「分かりました!」
「私も!」
ユークレース伯爵夫人が叫ぶ。
「いえ、ユークレース伯爵夫人はここにいてください」
「でも……」
「何があるのか分からないので、状況を見ていていただけませんか? 何かあればすぐに外に助けを呼びに動ける人がいないと……」
向こうでは危険なことがあるかもしれないし、無いかもしれない。
それでも、可能性があるなら、ユークレース伯爵夫人を連れていくわけにはいかない。
安全なのが確認できれば、また呼びに来ればいいのだから。
俺はユークレース伯爵夫人を説得する。
ユークレース伯爵夫人が険しい顔をして考えごとをしている。
「お願いします! どうか!」
ユークレース伯爵夫人だって何が起きているのか確認したいはずだ。
それに、加害者と被害者を一緒にしておくのは少し気が引ける。
でも、ここにいてもらわなきゃいけない。
リゲルがいれば大概の危険は排除できるはずだから、こちらの方がきっと安全だ。
デネボラのことが頭を過ぎる。
母親は子どもを庇う。
デネボラのときのようにアルファルドに何かあったら絶対にユークレース伯爵夫人はアルファルドを庇うに違いない。
もしも、ユークレース伯爵夫人もデネボラと同じ道を辿ることになったら?
想像するだけで身体が震える。
これは物語じゃない。悲劇なんてもう要らない。
「あのう、流石に俺も一人だと不安なので大人がいてくださるとありがたいんです。お願いできませんか?」
リゲルはしおらしくそう言った。
コイツが不安なはずはない。演技だ。
リゲルもきっとデネボラのことを思い出しているに違いない。
俺たちの詰めの甘さで、デネボラは怪我を負った。怪我を負ったからデネボラは寿命を縮めたのだ。俺はそう思っていた。
きっとリゲルも俺に似た思いを持っているのだろう。
あのときアクアオーラを追い詰めたのはリゲルだった。
容易に想像がついた。
「分かりました」
ユークレース伯爵夫人は頷く。
「アルキオーネ……早く!」
リゲルの声に俺は頷いた。
そして、パーティ会場に向かって走った。