13.アダーラは諦めない
アルファルドとの談笑が終わってレグルスと俺はまた二人きりになった。
レグルスが嫌がらせは大丈夫だと言うので、俺は試しに一人になってみたいとレグルスに言った。
最初、レグルスは俺が離れることを少し渋っていたが、最終的にはトイレの行き帰りだけでもせめてということで納得してもらった。
これで大丈夫なら、ミモザやミラたちに迷惑をかけることなく一緒にいられるということになる。
だから、本当に大丈夫なのか早く確認しておきたかった。
と、言うのは本当は全部建前だ。
レグルスから離れたかった一番の理由は俺がレグルスを傷つけたからだった。
さっきはアルファルドがいたから何となく話ができた。
でも、二人きりで話をして、また不用意に発言をしてレグルスを傷つけたらと思うと怖かった。
俺はトイレへの道のりをゆっくりと歩く。
レグルスとは少しでも長く離れていたいと思った。
レグルスと離れていてもレグルスのことばかり気になる。
なんで俺はもっと上手く立ち回れないんだろうか。
レグルスは「誰も不幸にしない」と言っていた。
その気持ちはありがたい。
俺だって、レグルスには幸せになってもらいたいと思う。
だからこそ、俺と一緒にいたらいけない。
俺といたら不幸になるのは見えている。
俺はどう頑張ってもレグルスを愛せない。
愛せないのに一緒にいるのは不幸だし、レグルスが俺が男だと気づいてしまったら深く傷つく。きっと取り返しがつかないことになる。
絶対にそんなこと言えない。言えるわけない。
身体と心が同じだったら良かったのに。
或いは俺が男も愛せたらよかったのかもしれないが、そういう訳にもいかない。
先延ばしすることで、レグルスを後々苦しめると分かっていながら、非情になれない。弱くて、ダメなクソ野郎だ。
もしも、俺が記憶を取り戻す前に戻れるのならそうしてやりたい。
いや、今からでも、この記憶を消してアルキオーネに戻れるなら戻ってやりたい。
俺の記憶さえなければ、きっと、アルキオーネはアルキオーネとして生きれたはずなんだから。
俺は深く深くため息を吐いた。
「寒いですね?」
急に降って湧いたように声がした。
俺は驚いて立ち止まった。
ぞわぞわと背中に虫が這うような嫌な感じがする。
この甘ったるい声は……
「ねえ、今日はとても寒いですよね」
ピンク色のふわふわとした髪の少女が目の前にいた。
少女の顔は青白く、生気がない。
瞳の深いマゼンタ色の瞳は暗い。井戸のように深く、ぽっかりと空いた穴のような虚ろな瞳だ。
それを細め、唇を歪めている。微笑みと言うにはあまりに色のない、虚ろな顔だった。
まるでホラー漫画に出てくる殺人鬼みたいな顔をしているなあと他人事のように思った。
なんで、アダーラがここにいるんだよ。
俺は一瞬たじろぐが、大丈夫だと自分に言い聞かせる。
ここで負けてはいけない。
レグルスだって大丈夫だと言っていたのだ。
「ええ、寒いですね」
俺はアダーラに向かって微笑みながらそう言った。
「ねえ、アルキオーネ様。バルコニーに行ってみません? もしかしたら雪が降っているかも……」
アダーラはあの虚ろな微笑を浮かべたままだった。
嘘だろ。完璧に何かやらかす気満々じゃねえか。
バルコニーとか怪しすぎるところ誰が行くかよ。
そう思い、俺は首を振った。
「結構です」
「あら、何で? いいじゃない。お話がしたいの。私、貴女のこと誤解していたみたいだから」
「誤解したままで結構です。わたくしはお話することなんてありません」
「あら、未来の王妃は下々の者とお話したくないと言いたげね」
「下々の者なんて!」
お前は貴族だろうがと突っ込んでやりたかったが、背後に気配を感じた。
後ろに人がいる。あんまりことを荒立てたくなかった。
俺のやったことでレグルスやアルキオーネの品位が落とされるようなことはしたくない。
俺は声を低くした。
「そんなことありません。お話ならここで」
「あら嫌だ。これだから田舎のお嬢様は……こんな廊下じゃ誰が聞いているか分からないでしょう? その点、バルコニーなら人が来たらすぐに分かるもの。お話するのにぴったりじゃない」
アダーラが挑発してくる。
やっすい挑発だ。こんなので怒ると思っているならコイツは思ったよりアホだ。
俺たちの横を数人のご令嬢が歩いていく。
ちらちらと俺たちを見ているような視線を感じたが、俺もアダーラもそれを無視した。
ご令嬢たちのおかげでほんの少し冷静になれたことを心の中で感謝した。
俺はご令嬢たちが通り過ぎてある程度距離ができたことを確認する。
「いえ、ここで充分だと思います。わたくしはここで伺いますわ」
本来なら話すことだってしたくないのだが、譲歩してやっているのだ。お前も少しは引け。引かないのなら俺は応じるつもりはない。
言外にそう匂わす。
アダーラの表情が僅かに曇る。会話し始めてから漸くちゃんとした表情を見たような気がした。
しかし、アダーラはすぐに取り繕うようにあの微笑を貼り付けた。
「そう、貴女の過去について気になったものだから……」
そう言って表情を窺うようにこちらを見る。
俺はさっと表情を失くす。
こいつ、アルキオーネの何を知っているというのだ。
まさか、デネボラの言っていた過去とやらをこいつも知っているというのか。
俺は無表情のままアダーラを見つめた。
アダーラは聞きたいでしょと言わんばかりに嬉しそうに微笑んでいた。
「何をご存じだというのですか?」
思わず言葉がきつくなる。
「あら、やっぱり何かあるのね」
「何……?」
俺ははっとする。
こいつ、はめようとしてるな。何の情報持っていないくせに、引っかけて俺の弱みを探し出そうとしているんだ。
一気に怒りが沸いてくる。
何も知らないくせに、ただ人を困らせて、罠にはめて、悪意を振りまいて、誰かを傷つけて喜ぶ。何でそんな性悪を相手にしなきゃいけないんだ。
俺はもっと悩まなきゃいけないことがたくさんあるのに、お前にみたいなのを相手にして時間を潰したくねえんだよ。
「そうですね」
俺はぽつりと呟く。
俺の言葉にアダーラの瞳に光が灯った。
そして、勝利を確信したかのように微笑む。
「認めたわね! 貴女みたいな女はレグルス様には似合わないのよ!」
そうだよ。俺だって分かってる。
俺はレグルスをずっと騙してる。レグルスと一緒にいる資格なんてないかもしれない。女ですらないしな。
でも、だからと言って、お前のようなやつにレグルスを任すわけにはいかないんだよ、この性悪。
「認める? なんのことでしょう。過去のない人間はいませんよ」
俺は挑発的に微笑み返してやる。
俺は確かに怒っていたが、人間、一定以上の怒りに達すると逆に冷静になってくるらしい。
アダーラは眉を顰めた。
「嗚呼、後ろ暗いことがあるという意味でしたら、身に覚えはありません」
「でも……っ!」
「嗚呼、何か良くない噂でも聞きましたか? お気遣いありがたいのですが、ご自分のことを心配されては? 最近、評判がよろしくないようですよ」
俺は目を細め、アダーラを射抜くような視線で見つめてやった。
アダーラは顔を真っ赤にしてわなわなと震え出した。
先ほどのホラーさながらの死んだ顔とは違う。生きた怒りの表情だった。
「うるさいわね! 何が分かるのよ! 貴女なんて権力も何もないくせに、みんなに愛されて目障りなのよ」
アダーラは叫ぶ。