6.嫌な予感
俺は王宮に辿り着く。
門の兵士は急な訪問に驚きもせず、俺を乗せた馬車を通した。
王宮の中では、リゲルが待っていた。
レグルスはいない。
「レグルス様は?」
「もうすでにあちらに……」
リゲルはいつになく真剣な表情だった。
怖い。これから直面するであろう何かに不安が過ぎる。
「大丈夫。怯えた顔をしないで」
俺は余程深刻な顔をしていたのだろう。
リゲルはそっと俺に向かって笑みを作った。
作り笑いだということはすぐに分かった。
つまり、俺が、アルキオーネが怯えるであろう出来事が起きているに違いない。
俺もすぐに笑顔を作る。
「ありがとう」
内心、嘘だと分かっていてもリゲルの心遣いは嬉しかった。
俺はリゲルに案内されるままに廊下を歩く。
仄暗い廊下は明かりの不具合なのだろうか、奥まで見通すことができない。
足元の金の刺繍の入った赤い絨毯はまるで終わりがなく、延々と続いているようだ。
そんなはずはない。
ただ、俺が不安でそんな風に思ってしまうだけだ。
俺は首を振って前を見据えた。
俺たちは黙っていた。
いつものように談笑する雰囲気では到底なかった。
暗く淀んだ気持ちのまま、足を動かした。
暫くして目当ての部屋に辿り着く。
辿り着くまでにかかった時間は長かったような、短かったような、酷く曖昧な時間だった。
リゲルは部屋の前にいた兵に挨拶をし、二、三言、言葉を交わす。
どうやら入室の許可は下りたらしい。
「入って」
話が終わると、リゲルは短くそう言った。
「リゲルは?」
「俺は入れない。今、入れるのは王族と君だけだ」
嫌な予感が現実になったのだと分かる。
俺はノックをして、扉を開いた。
部屋の中はお香のような甘く高貴な薫りがした。
廊下以上に薄暗い。
俺は目を凝らしてじっと部屋の中を見つめた。
どうやら誰かの寝室らしく、中央には大きなベッドが置いてあった。
俺は蝋燭の明かりに照らされたレグルスの顔を見つけた。
レグルスは虚ろな目をして、ベッドの中を覗きこむ。
「レグルス様」
俺は小さく、レグルスに声を掛けた。
「あ……嗚呼」
少し間を置いてレグルスが声を上げ、こちらを見た。
泣きそうな、疲れたような酷い顔をしている。
俺はそちらに向かって歩き出した。
次第に匂いが変わっていく。
昔嗅いだことがある匂い。懐かしいというよりも厭わしい記憶がついて回る匂い。
死んだばあちゃんの病室で嗅いだことのある。
人の垢と死の香りとしかいいようのない匂いだった。
「王、妃……様?」
「あ、ひさしぶりね、おちびさんたち」
ベッドの中からは力ないデネボラの声がした。
その声を聞いて俺はほっとした。
良かった。
てっきりデネボラが死んだのかと思った。
「ちょっと前に、意識が戻ったところで、一先ず安心だって……」
レグルスはそう言った。
じわっとレグルスの目から涙が滲んだ。
「ばかね、私は死なないわよ」
デネボラが呟いて、レグルスに手を伸ばした。
枯れたような細い腕、節くれ立った手。
あんなに関節や骨が目立つ手をしていただろうか。
俺はぎょっとして歩みを止めた。
そこから見えたデネボラの顔が以前見たものとはあまりにも違っていたからだ。
落ち窪んだ眼、デネボラの肌は潤いがなくかさついており、土気色をしていた。
ふっくらとしていて薔薇色だった頬は肉が削げ、濃い影を落とす。
絹糸のように美しかった金の髪は白み、パサついてバサバサと顔の周りを覆う。
まるで老婆のようだ。
あんな美女がこんなになるなんて。
「嗚呼、どこか座って頂戴」
デネボラは俺を気遣うような声を掛ける。
「いえ、わたくしはレグルス様の横で……」
デネボラに声を掛けられて漸く金縛りが解けたように俺は動くことができた。
俺はベッドに縋るレグルスの横に立った。
デネボラはもう体を起こすことが出来ないらしい。
それでも、顔をこちらに向け、微かに顔を動かすと、微笑みを浮かべた。
「彼女と少し話がしたいわ。レグルス、離れてもらっても?」
「いや……」
レグルスは涙目のまま首を横に振る。
離れたくないとは言わなかった。
しかし、俺はその一言にレグルスの強い意志を感じた。
「あの、レグルス様が嫌であれば、わたくしは……」
「お願い、レグルス」
デネボラは俺の言葉を遮り、懇願するように言った。
「いや……だ」
レグルスは顔を歪め、デネボラを見つめた。
ぽつりとシーツに小さな染みができた。
レグルスは泣いていた。
「大丈夫。まだ、死なないって言っているでしょう?」
レグルスは聞き分けのない幼い子どものように首を何度も振った。
「いやだ、いやだ!」
悲鳴のような声を上げる。
少し尊大で笑顔の絶えないレグルスからは考えられない姿だった。
俺は婚約者として何をすればいいのだろう。
抱きしめることも、手を重ねることもできず、ただ立ち尽くしてレグルスを見つめた。
無力だ。何もできない。俺はレグルスの何も癒せない。
だって、俺は男だから。
演技をしようと思えばすることもできたかもしれない。
でも、それはレグルスを傷つけてしまうような気がしてできなかった。
「まだ、死なないで……側にいてよ、かあさん」
シーツを縋るように握り締め、呟く。
言葉遣いまで子どもみたい。
「甘えん坊ね」
デネボラは笑う。
レグルスは頭を振る。
「ぼくはまだ許してない。かあさんのこと許してないから、死なないで」
そう言って嗚咽を漏らす。
レグルスが自分のことを「ぼく」と呼んでいるのを初めて聞いた。
「そう」
「いやだ。かあさんが許されないまま死んでしまうなんていやだ。なんで!」
デネボラを許せないのは自分の感情なのに、まるでデネボラを責めるようにレグルスは叫ぶ。
「もう憎みたくないのに、なんで! なんで! 許せないんだよ!」
レグルスはベッドに突っ伏した。
拳を握り、何度も何度もベッドに振り下ろす。
レグルスの言っていることはぐちゃぐちゃだった。
でも、言いたいことは分かる気がした。
許したいけど、許せない。
憎いけど、憎めない。
もう少し時間を掛ければ解決した問題なのかもしれない。でも、時間もない。
もっと側にいてほしい。許せるまで側にいて許されて欲しい。
以前、レグルスは「いつか許したい」と言っていた。
でも、いつかの未来なんて一生来ないかもしれない。
簡単に許せたらいいのに。
そうしたら、レグルスだって苦しまずに済むのに。
そう思うのは、きっと俺が他人だからだ。
「差し出がましいですが、お二人で少しお話をされてはいかがですか?」
気づけば俺は口を開いていた。
これまで一年以上の時間を掛けて許せなかったことが急に許せるとは思えなかった。
でも、せめて少しでも何かが変わればいいと思った。
いや、何かなんてなくていい。
何かなんてなくていいから、話をしてほしいと思う。
死んだら話なんてできなくなるんだ。
もう二度と会えなくなるんだ。
俺だってもっと話したかった。
もっと一緒にいたかった。
伸ばした手はもうどこにも届かない。
祈りすら届かない。
「アルキオーネ?」
レグルスは顔を上げた。
整った顔は涙でぐちゃぐちゃでとても不細工だ。
でも、何だかとても愛しいもののような気がした。
「わたくしは一度お部屋から出ますから、お話してください。わたくしとのお話は後に。勿論、デネボラ様には負担が掛りますので、無理にとは言いません。でも、わたくしは二人に後悔して欲しくないのです」
俺は微笑みを作った。
「そうさせて」
デネボラはそう言った。
俺は頷き、二人に頭を下げた。
そして、くるりと扉の方を向く。
二人のことを見ている余裕なんてなかった。
部屋を出る。
扉が閉まる音を確認すると同時に涙が溢れた。
胸が痛い。痛くて、痛くて逃げ出したいくらいだ。
妹のことを思い出してつい感傷的になってしまっている。
俺は慌てふためく兵士の横で人目を気にせず泣いた。
誰かが頭を撫でた。
リゲルだ。
「ごめん」
俺は小さく呟いた。