4.嫌な噂
俺たちは人気のない廊下を歩いていた。
「あ、雪が降ってきた」
窓の外を覗く。
綿花のような雪が落ちてくるのが見えた。
あれは牡丹雪。水分が多い雪で積もりにくいんだっけ。
通りで今日は寒かったわけだ。
「あの、トイレは……?」
のんびりと外を眺める俺をミラが怪訝そうな目で見る。
「あ、嘘ですよ。ミモザには可哀想なことをしましたが、レグルス様の横は少々息が詰まって」
俺は苦笑した。
ミラにはすでにレグルスのことを好きでないことがバレている。
だから、俺は安心してそう答えた。
ミラは困ったような顔をしてから笑う。
「ちょっと酷いわね。まあ、貴女に聞きたいことがあったから、レグルス様がいないのはちょうどいいんだけど」
「あ、その言い方は不敬ですよ」
「貴女こそ」
俺たちはそう言ってくすくすと笑った。
いいことなのか、悪いことなのか、俺はすっかり女の子の会話ができるようになっていた。
俺はどこに向かっていくのだろう。
少々、未来が不安になる。
「で、聞きたいことというのはなんですか?」
「色々あるんだけどね、取り急ぎは一つだけ。王妃様の具合がよろしくないと噂があるんだけど、貴女は大丈夫なの?」
ミラの言葉に驚く。
嗚呼、迂闊だった。もしかして、テオと俺の話を誰かに聞かれたのか?
それとも、全く関係のないところから漏れたことなのだろうか?
いずれにしろ、相手はミラだが、下手なことは言えない。
「そう、そんな噂があるんですね。それで、大丈夫というのはどういう意味ですか?」
俺はミラの言葉に肯定も否定もしなかった。
そういう噂があるということを知らなかったという立場で話を進める。
王妃が具合が悪いとなれば喜ぶ奴らがたくさんいるだろう。
ここで肯定すれば、どんなトラブルになるか分からない。
もしもここで話してミラが巻き込まれたら、俺が後悔することになる。
俺のような直情型は考えが足りない。こういうときは黙っておいた方が良い。
「実は、王妃様のご意思もあって、貴女が王子の婚約者に選ばれたという噂があるの。早い話が、王妃様に何かあれば、貴女以外の者が王子の婚約者に選ばれる可能性があるって思っている人たちがいるみたい。貴女に嫌がらせする者が出ていると聞くし、心配になって……」
「そういうことでしたか。嫌なことを考える方もいるものですね」
俺はため息を吐いた。
まるで、デネボラの不幸を願っているような話だな。
確かにこんなことレグルスに聞かせるようなことじゃない。
レグルスを傷つけるような噂を立てやがって。
何で素直に他人の体を心配することができないのだろう。
謀略、奸計、籌略、悪巧み……言い換えることがいくらでもできる。
言い換えることができる言葉がたくさんあるってことは、それだけ人は誰かを陥れてきたってことなのだろうな。
皆、誰かの足を引っ張りたがっている。
平和な世界で平凡に生きてきた前世のある俺にとっては、それが少し悲しい。
勿論、前世でだって足の引っ張り合いはあったと思う。
それでも、俺には縁遠い話だった。
それは、妹以外に執着するものがなかったからかもしれないけど。
「ねえ、貴女の周りでは何もない?」
「今のところは心配していただいているようなことはないですね。レグルス様の誕生パーティーでは確かに嫌がらせに遭いましたが、ベガ様やミモザに助けていただいたので大丈夫でしたし、今日もレグルス様と一緒でしたので……」
そもそも、レグルスの誕生パーティが一か月ほど前のことだから、アダーラの件はその噂と関係があるのかどうかも分からない。
ただ、その噂を聞いて、嫌がらせが酷くなる可能性はあるかもしれない。
そうなってくると、当面、社交界ではミモザやミラといる時間を減らす必要があるかもしれない。
せっかくできた癒しなのにな。
俺は遠い目をした。
「そう。なら良かった」
「それから、ミラもご存じだと思いますが、わたくし、身体を鍛えているんです。不届き者は片手で捻って差し上げますわ」
俺は微笑みを作った。
「私の親友は本当に勇ましく頼もしいわ」
ミラは呆れたようにため息を吐いた。
「どういたしまして。ミラのことも守ってあげられるようにもなるつもりですから、安心してくださいね」
「それはありがたいことだわ。貴女は貴女のお母様のようになるつもりなのね」
「そんなことないわよ。確かに、在学中のお母様は剣の腕前がとても良く、数々の賞を取ったり、不埒な輩から女子生徒や男子生徒を守ったり、男女問わずファンがいたとか聞いたわ。でも、そんなのわたくしには到底無理な話です。精々、目の前の大切な人を守るくらいしかできません。自分の身の程を知っていますよ」
俺は頭を振った。
皆、俺のことを何だと思っているのだろう。
何度か言っている気がするが、俺は目の前にあったことを、それしかないからやってきただけだ。
困っている人間、全てを助けられるような大層な人間じゃない。
これからだって、自分のできることを精一杯やるだけだ。
「貴女は本当に自分のことがよく分かっていないのね。今の貴女がまさにそうじゃない」
ミラは呆れたように肩をすくめた。
「どういう意味です?」
剣の腕もいまいちで、思慮の浅く、守った気になって何の力にもなれない子どもの俺への嫌味だろうか。
いや、ミラがそんなことを言うはずがない。
じゃあ、どんな意味だっていうんだ。
「まあ、考え方次第では、リゲル様も、アルファルド様も、ミモザ様も、私もある意味、幸せよね。大切な人カウントされているわけだから。そう考えると、少しレグルス様が可哀想かしら……」
ミラは俺の言葉を無視して、自己完結したように勝手に頷いていた。
俺の言葉は無視ですか。そうですか。
まあ、そうですよね。俺なんてそんなもんですよ。
俺はため息を吐く。
「そろそろ、戻りましょう。ミモザを助けないと。レグルス様やリゲルに質問攻めにあって、きっと参っているに違いないですから」
「嗚呼、そうだったわね。それに、貴女は暫く、レグルス様の側にいた方がいいと思うの」
「でも、レグルス様といると……」
「分かってる。息が詰まるんでしょ? それでも一緒にいた方がいいの。レグルス様と仲がいいところを見せつければ、貴方とレグルス様の関係は円満で付け入る隙がないと思うでしょ? そっちの方が変なことを考える奴が減ると思うの」
なるほど。
ミラの言うことには一理ある。
レグルスの横にいればアダーラがいても変なことはされないだろうしな。
そう考えると、今の状況はちょっとまずいのか。
「急いで戻りますか」
「ええ」
俺とミラは急いでレグルスたちのいた場所まで戻った。