第四話
「あー! 弁当が、私のお弁当がない!」
樋口君と話していたら、遠くのほうで樋口さんが大声で喚いているのが聞こえた。そしてすごいダッシュでこっちに走ってきた。他のテニス部の人たちは笑って樋口さんを見ている。いつものことなのかもしれないな。
「な! なかっただろ。ほらわかったら礼を言うんだな」
ニヤニヤ笑いで意地悪く言う樋口君。フェンス越しなので樋口さんもどうしようもない様子だ。
「あ、ありがとねっ」
樋口さんは恥ずかしそうにお礼を言った。あれだけ言っておいて弁当を忘れてたという事実が恥ずかしいんだろうな。
思わず頬が緩みそうになるけど、そんなことをしたら樋口さんに嫌われてしまうかもしれないので、頬を引き締める。
一方樋口君はまだニヤニヤ笑いをしている。
「フェンスがあることだし、桜、こっちに取りに来いよ。渡しに行くの面倒くさいし」
フェンスの出口があるのは……左を見てみるけどない。そのまま左斜め前、前と見るけど、ない。右側を見てみようと右斜め前を見てみると、あった。でも右のフェンスはずっと続いていて出られない。こっちまで来ようとすると大回りしないと駄目みたい。樋口さんは試合で疲れてるから樋口君が行ってあげた方がいいと思うんだけどな。
言ってみようかな、でも嫌がられるかもしれないし……でも言ったら樋口さんは喜ぶかもしれない。でも樋口君は怒るかもしれないし……。どうしよう。
「あんた、体力バカのくせに何言ってんのよ! こっちまで持って来てくれたっていいでしょ」
威勢の良い樋口さんの声が響く。すかさず樋口君は答える。
「弁当持ってきてもらった上に自分は動かないの? ま、別に食べたくないんだったら俺が貰うからいいんだけど」
この言葉に樋口さんは反論できない。
「でも、お姉ちゃんと呼べってもう言わないんだったら持って行ってあげてもいいんだぜ?」
え、そんなことでいいの? そんなんだったら樋口さんもすぐに承諾するんだろうな。
「そんなの、できるわけないでしょ」
つーんとそっぽを向いて言う樋口さん。どうしてだろう。
「なんでできねえんだよ、呼び方なんて桜で十分だろ」
「駄目に決まってるでしょ! 考えてもみなさいよ、アンタが桜って呼び続けたら学校中みんな、それどころかこの辺りの人みんなが私のこと桜って呼ぶようになるでしょ! 知らない人にまでよ? アンタの影響力なめるんじゃないわよ!」
大声で言う樋口さん。まさかそこまで影響力ないでしょう。いくらなんでも大げさすぎるよ。
「みんなが知り合いになったみたいでいいじゃねーか! 何そんなにムキになるとこがあるんだよ!」
「私がそれでどれだけ苦労したかわかってるの? とにかく、お姉ちゃんって呼びなさい!」
「絶対イヤダ!」
「呼べ!」
「呼ばねえ!」
あ……いつの間にか姉弟喧嘩になてしまった。どうしよう、なんとかして止めないと。取り合えず今度こそ会話に割り込もう。もし怒られたら悲しいけど、目の前で喧嘩されては流石に見てられないよ。心がハラハラしてしまう。
「ちょっと、樋口さんも樋口君も落ち着いてください!」
力を込めて、目を閉じながら叫ぶ。なんとか二人の耳に届いたようで、ほっと一安心だよ。
ん? でも言い争いは止まったけど、なんか様子がおかしい気がする。おそるおそる目を開いてみると、樋口君と樋口さんが戸惑った顔してこっちを見てた。なんでだろう?
「あの、さ、樋口君と樋口さんって呼びにくくないの?」
「予想外の呼び方に思わずビックリしたんだけど、その呼び方がいいの?」
樋口君と樋口さんがきいてくる。なんでそんなにビックリするの? 二人とも樋口さんじゃない。
「でも、どちらも樋口さんでしょ? 言い分けるにはこの方法しかないと思って……迷惑、でしたか?」
どうしよう、出会って早々嫌われちゃったら悲しいよ。
「いやいや、迷惑とかじゃないよ、気にするな。ただ、同級生なんだから俺のことは春樹でいいよ!」
「そうよそうよ、気にすることなんて全くないんだからね! 私のことは桜でいいからね! ほら顔上げて、元気出して、ね!」
俯いてしまったからか、二人とも慌てて励ましてくれた。いい人たちだな。
「ありがとう春樹君、ありがとうございます、桜さん」
なんとなく春樹君は敬語が嫌そうだから、別々にお礼を言った。桜さんはやっぱり先輩だから敬語で。
ん? なぜか二人ともゾワッとしてるような……なんで?
「わ、悪い、頼むから俺のことは春樹って呼んでくれ。君なんてつけられたら気持ち悪くて……いや、アンタが気持ち悪いわけじゃないから気にしないでくれよ」
「私も、悪いんだけどさん付けなんてされたらちょっと気持ち悪いかな。お願いだから桜って呼んでね。も、もちろんあなたが気持ち悪いんじゃないのよ? 気に病まないでね」
またもや私のことを気遣いながら話してくれた。なんだか二人とも似てるな。やっぱり姉弟
だもんね。
「じゃぁ、春樹と桜、でいいの? でも先輩だし……」
確認のため言ってみるけど、やっぱり先輩に向かって呼び捨ては言いづらい。
「俺はもちろんいいぜ」
爽やかな笑顔で返してくれる春樹。名前によく合ってるなと思う。
「うーん、確かに一応先輩だしね。じゃ、桜先輩でいいよ」
やさしい笑顔で答えてくれた桜先輩。笑顔がやわらかくて安心する。やっぱり名前によく合ってるなと思う。
私は人生でこんなに明るい人に会ったことはなかったと言えば嘘になるけど、少なくともこんなに明るい人はそんなにいなかったな。




