灰色の空に融解する
──────三日前、部下が殉職した。
張り込んでいた犯人グループの根城に単身で乗り込んで、後ろから三発。
検死の結果だと、一発目は左足の太股を貫通。次は脇腹をかすって、最後の一発が心臓を貫き、それが致命傷になったと言う。
覚悟はしていた。この仕事に就いたからには、いつだって死が付きまとうことくらい。そうでなくても自分達が所属している部署は特に殉職者が多い。部下や上司を亡くしたのだって一度や二度じゃない。
長くやればやるほど、自分の背中に殉職した奴等の思念が縛りつく。若い頃はそれがただ重荷でしかなかった。上司が部下が、無念の死を遂げるたび涙を流し、遺された家族や恋人を思っては自分の生を憎んで自傷行為に走ることもあった。
なのに“慣れ”と言うものは恐ろしいもので、いつからかそんな負荷さえ感じず、涙は枯れて心の痛みも何もかも煙草の煙のように空に融解してしまっていた。
今もそうだ。
殆ど自爆に近いとは言えど直属の部下を殉職させておきながら、俺は涙も流さず平然と奴の葬儀所に居る。
「榊真一郎警部、ですよね」
香典をあげ終え、会場を出ようとした所で誰かに呼び止められた。
振り返ると、そこに居たのは女の子だった。
身につけている紺色の制服は、確か隣町の私立高校のものだ。後ろに束ねた淡い栗色に見覚えがある。
ああそうだ。この子は。
「前島夏希です」
利発そうな大きな瞳を向けて、俺に一礼した。
「生前は、兄が大変お世話になりました」
大人の対応というものは実に虚しいものだと思う。さっきまで兄の遺影の前で目を真っ赤にしていた子に、心にもないことを言わせてしまう。
俺も礼に習って頭を下げる。
「この度は私の不徳でこのようなことになってしまい、申し訳ありません」
そして俺もその虚しい大人の一人に成り下がっている。
前島大翔と言う男は、絵にかいたように青臭い奴だった。
犯罪を憎む反面、犯人の人間くさい一面に同情してしまう変に優しい所は、はっきり言って強行犯担当の刑事には向いていなかった。
異動せずに交番で街のお巡りさんをやっていた方がよっぽど彼の適正に合っていただろう。
『俺、年の離れた妹がいるんですよ』
別に聞いたわけでもないのに、前島はよく自分の身の上話を聞かせてくれた。
十歳離れた妹がいること。母は病気で妹を産んですぐ他界し、二十歳のときに刑事だった父親が殉職して、それ以来妹を一人で育ててきたこと。
とにかく話題の大半が、現在俺の目の前でコーヒーを飲んでいる前島夏希のことだった。
あれからややあって、葬儀場近くの喫茶店に入った。彼女は俺から兄の仕事について色々聞きたいらしい。
署に戻って溜まったデスクワークを片付けるのは、また明日に持ち込しになりそうだった。
「兄から警部のお話はよく聞いていました」
夏希が落ち着いた声で言った後、再びコーヒーを口に含んだ。気丈な態度だが、泣きたいのを我慢している様子だ。カップが小刻みに震えている。
「自分も警部補のような人になりたいと、いつも。だからずっと会いたかったんです、私」
遂に落ちた涙を必死に拭って、「すみません」と彼女が小さく謝った。
「俺は、君のお兄さんに尊敬してもらえるほど素晴らしい人間じゃないさ」
俺は鞄からポケットティッシュを出して彼女に差し出す。夏希はそれをおずおずと受け取ると、一枚だけ取って残りを俺に返そうとした。
「いいよ。さっき駅前でもらったものだから」
「すみません…」
夏希は心底申し訳なさそうにティッシュを自分の鞄に入れた。
幼い頃から両親のいない環境で、他の子の何十倍も苦労してきたからだろうか。今時の女子高生にしてはかなり律儀なところがある。
「あなたに憧れて、兄が刑事課に異動願を出したとき、反対したんです。父と同じ運命になりそうな気がして。でも、聞き入れて貰えませんでした。それが原因で大喧嘩して…。以来、ずっと口を利かなかったんです。それどころか私、家にもほとんど帰らなくて、いつか謝らなきゃって思っていたのに」
夏希が両手で顔を覆って、大きなため息をついた。
「私が一方的に拒絶していたせいで、最後に兄と話した内容すら思い出せないんです。ただ一人の家族だったのに。兄がいつ笑ったとか、いつ泣いたとか、私に拒絶された時どんな気持ちだったのかとか、何一つ知ろうとしなかったんです。兄が居るのがあまりに当たり前になっていて──馬鹿ですね、私」
自嘲気味に夏希が笑った。
笑ったと言っても、表面だけだ。面の皮を剥がせば俺への言い知れぬ憎悪と皮肉がそこにある。
「鞄の中」
俺の唐突な言葉に、夏希が驚いて顔をあげた。見開かれた大きな瞳に、俺が逆さまに映る。
「俺の鞄の中に、拳銃が一丁入っている。警官が所持を許されている型だ。元は威嚇射撃用だから、小さくて殺傷能力は極めて低いが、打ち所が悪ければ確実に殺せる」
俺は自分のこめかみに人差し指を当てた。
「こめかみは人体で一番骨が薄く、衝撃に弱い場所だ。ここに真っ直ぐ弾丸を撃ち込めば、脳幹を貫通して痛みを感じる暇すらない」
夏希の大きな目がいっそう大きく見開かれている。俺がなぜこんな話を始めたのか、理解できずに混乱しているようだった。
「君には未来があるし、人殺しはさせない。でも君さえ望むのなら、俺は何時だって自分でここに風穴をあけてやる」
「何を、言って」
ようやく吐き出した声は弱々しく、見開かれた瞳から一筋また涙が流れる。
何度目だろうか、彼女の涙は。
「部下が煙突から真っ直ぐに青空に伸びて、次第に融解していく様を眺めたのは、三度目だ。もう見たくない」
青に融解する灰を眺めるたびに俺は、自分が生きることがどれだけ無意味なものかを、まざまざと実感してしまう。
志半ばで死んだ部下の呪いがヤニで肺を汚すかのように、心を少しずつ黒く染めていく。
それは彼女も同じなのだと、改めて会話をして気がついた。
「君は純粋な子だ。純粋すぎて、きっと気づいていないだろう。君は俺を憎んでる」
もうこれ以上、この世界に絶望したくない。
これはただのエゴだ。
だからこそ俺はそのエゴのために俺は純粋な彼女を利用しようとする。
────なんてひどい大人だ。
「さあ、どうする。夏希」
夏希が目を伏せ、何か確信したようにこくんと頷いた。そして思い立ったように突然立ち上がると、俺の鞄を掴んで中に入っていた銃を取り出し、俺の眉間に銃口を推し当てた。
俺達のすぐ隣に座っていた女性客が、夏希の異様な態度に気づいて悲鳴を上げた。騒ぎを聞きつけた店員が夏希の腕を押さえつけようと手を伸ばす。
「邪魔しないで!」
鋭い瞳はさっきまで泣いていたいかにもか弱い女子高生とは違う。きっとこれが彼女の本性なのだろう。
目の前で安全装置が外れる音が聞こえた。
「普通じゃないな。兄さんに教わったのか」
彼女と目が合った。
「インターネット。今は便利な時代なんだよ。オジサン」
瞳を三日月型にして、復讐に憑りつかれた夏希は俺をあざ笑った。
しかし、銃口が微かに震えている。そんなおびえなくとも俺は逃げやしないってのに。
「君はこれから人を殺す。どんな事情があろうと犯罪だ。君の兄さんが守りたかった君の未来は閉ざされる。だから俺は自分で死んでやると言ったのに」
「信用できない。逃げないで」
「憎いか、俺が」
「とても」
「そうか」
それは良かった。
「ありがとう」
俺は目を閉じる。
そして、やがてやってくる最後の衝撃を待った。