シスターコンプレックス
お立ち寄り頂きありがとうございます。
僅かながら一部に残酷な描写が含まれておりますので、苦手な方は閲覧をご遠慮ください。
拙い文章ではありますが、よろしくお願い致します。
浅い呼吸を整えることもできず、手近なシートに身を投げ出す。終電も近いのだろう、車内は静寂に包まれていた。自身の鼓動に混じる僅かな物音に気付き少し離れたシートを見遣ると、頭の薄い乗客が鼾をかいていた。
幼い頃から、こういう閑散とした電車が好きだった。
退屈な足をぶらぶらと宙で遊ばせると、「だめよ」と姉が嗜める。私がピシッと両足を揃えると「よしよし」と姉は微笑み頭を撫でた。それから「えらい子にはごほーびね」と言ってスカートのポケットからダイヤの指輪(を模した玩具)を取り出し、私の指にそっと通す。
「それね、あたしの大切な物。なっちゃんはえらい子だからね、電車おりるまでかしてあげるね」
思えばあのときの私は確信犯だった。悪いことをして、叱られて、そのあと行いを正す。そうすると姉は私に大切な物を貸してくれる。幼いながらもこのカラクリを理解していたのだった。そしてこの作戦が最も成功しやすいのは、姉が私だけを見てくれる、ガラガラの電車の中だった。
当然、そんな子供騙しのようなことは徐々に通用しなくなっていった。良いことをしても姉は大切な物を貸してくれない。大人に近づくに連れ、大切な物は本当に大切になり、容易くは手放せなくなる。
「おねーちゃん、昨日つけてたアレ。あの花のネックレス貸して」
「だぁめ。あれは大切な物なの」
「お願い、今日だけ。絶対返すから」
こんな攻防は日常茶飯事だった。
だからこそ、だろう。「姉の大切な物」を私が「最も価値のある物」と見なすようになるのに、そう時間を要さなかった。それを確信付けたのが14歳の誕生日。
「なつ子、もうすぐ誕生日じゃない。何がほしいの?おねーちゃん、今年は奮発するわよ」
浮かんだのはピンクのコインケース。頼みに頼みこんだ末、結局借りられなかった姉の大切な物。言えば姉は呆れたように笑った。
「あれ、そんなに気に入ったの?」
気に入ったかと問われると、そういう訳ではなかった。あのコインケースは確かに可愛かったけれど、修飾が派手すぎるし、口が小さく使い勝手は悪そうだ。それでもあのコインケースを愛しげに見つめる姉を思いだし、何度も首を縦に振った。
誕生日、約束通り姉はピンクのコインケースをくれた。ただし新品の、だ。パッケージに入った、爪痕1つないそれを目にしたときの失望感といったらなかった。
「姉の大切なものと同じ物」にはなんの価値も感じない。それは、「姉の大切な物」への底知れない渇望を実感した瞬間だった。
私が私の欲望を満たす新たな手段を得たきっかけは、皮肉にもこのコインケースだった。
貰って数ヵ月経つコインケースは未だ新品特有の輝きを放っており、それがまた使う意欲を削いだ。
「せめて見た目だけでも似せらんないかな」
こう考えたのが発端だった。姉の引き出しから姉のコインケースを取り出し、新品の隣に並べる。ビニール地だったのが幸いしてか、色褪せなどはほとんどない。これはもしかしてどうにかなるんじゃないか、期待に胸が踊った。
新品のものに手を加え、少しずつ姉のものと似せていく。同じ場所に、同じ長さの傷をつけた。爪だったり、シャーペンの先だったり、傷の太さに合わせて使うものも変えた。ビニールが剥がれかけたところを見つけると、同じように剥いだ。カッターで少し切れ込みをいれて、慎重にビニールを引っ張った。
角の黒ずみには少し頭を悩ませた。長年の使い込みによる産物。投げやりな気持ちで黒ペンを手に取り、新品の角を少し塗ってみた。だめだ、濃すぎる。慌てて擦ると大分薄くなり、そこでハッとする。手に取り少し目から離して見てみると、それはいい塩梅で姉の物と同じような黒ずみを作っていた。
「ただいまあ」
上機嫌な姉の声にどきりとした。やばい、どうしよう。咄嗟に私は手にしていた「私のコインケース」を姉の引き出しに閉まって、机上のコインケースに適当なタオルを被せる。またタイミングをみて入れ替えればいい、そのときはそう考えていた。しかしそのまま何日か、何週間かが過ぎて、それでも姉が追求してくることはなにもなくて。姉が「私のコインケース」を持って遊びに出掛けたとき、「姉の大切な物」は晴れて私のものになった。
意図せず生まれた奇策があまりに上首尾で、私は味を占めた。姉の大切なものと同じものを手にいれては、姉のものとすり替える。キーホルダーなどはそのままで十分瓜二つであったし、ハンカチのほつれ具合を似せるのも訳なかった。少し昔のものも、ネットを介せば簡単に手に入った。
いつしか私の机の引き出しは、姉の大切な物でいっぱいになった。
しかし幸福な時間はそう長く続かなかった。私の心に疑念が宿ったのだ。引き出しの中をぼんやりと眺めて溜め息を吐く。これは本当に、「姉の大切な物」だろうか。思い出していたのは朝のやりとり。
「お姉ちゃん、さっきからなに見てるの?」
先ほどからずっと机に頬杖をついて動かない姉。私が背後から覗き込むと、姉の左手首にピンクゴールドの時計が光っている。
「どうしたの?」
平静を装って訊く。
「ふふっ。結構前に見せたでしょ、ユウ君からもらったやつ。やっぱ素敵だなって」
姉の愛情の眼差しを受けてキラキラと輝く時計は紛れもなく、3日前私が購入した代物だった。
そのときの姉の恍惚とした表情を思い出して、それから私の引き出しの中の、瓜二つのはずの時計をつまみ上げた。カーテンの隙間から漏れる日差しを受け、確かに時計は光を放っている。しかしそれはチカチカと自己主張が激しいだけで、不愉快以外のなにものでもなくて。
「自惚れないでよ、アンタは単なる中古品よ」
独り言ちり、もう一度引き出しの中のガラクタを見やる。身体中の熱が急激に引いてゆくの感じた。衝動的な決断ではあったが、今でも後悔していない。その日の内に、私は「姉の大切だった物」をひとつ残らず葬ったのだった。
空っぽになった引き出し。代替の利かない、唯一無二の、姉の大切な物で満たしたい。私の心を満たしたい。それからの私は、胃の方からせり上がってくる熱情に咽ぶ日々を送っていた。欲望などという生易しいものではない、渇望すらも越えたこの欲求の名前を知らないが、ひどい熱だったと今でも鮮明に思い出すことができる。そして朦朧とする意識のなかで、自分でも気づかぬ間に私は、越えてはいけないはずの一線を越えていたのだった。
「ない、ないない!どこにもない!」
今でも脳裏に甦る、姉の金切り声。
「大切だったのに!」
どうしたの、と訊く間もなく肩を揺すられ、問い質された。
「ねえ、ネックレス見なかった?知ってるでしょ、あの花のついたやつ!」
蒼白な顔に充血した眼、悲痛な叫びに気圧され、私は首を何度も横に振った。
「見てない。鞄の中は、洗濯機の上は。ドレッサーの下は見たの?」
肩をひっつかんでいた両手から力が抜け、姉はその場にへたり込んだ。返事はなかったが、鼻を啜る音が非情な現実を語っている。
「大丈夫、きっと見付かるって」
それから私たちは家中を探した。机の裏、洗濯機の下。掃除機のフィルターに手をつけるのは流石に躊躇したが、背中に突き刺さる切望の眼差しは手を止めることを許さなかった。
それでも。それでも私は自身のスカートの、そのポケットの中をひっくり返すことはなかった。この茶番を終わらせたい。しかしそれ以上に、姉のこの、ものに対する愛着を超えた執着心が風化することを恐れた。もっと探して、もっと求めて。ポケットの中の花を握り締めて、祈願する。4枚の花びらはまるで十字架。これが、姉にとって永続的に大切な物でありますように。
それでもそんなこと、あるはずはなく。1週間も経つと水を得た魚よろしく姉は元気を取り戻した。私がネックレスについて口にしても、「吹っ切れたわ」とカラカラ笑ってみせた。私は案の定、自身の引き出しにし舞い込んだネックレスに魅力を感じなくなった。もうこれは「姉の大切な物」ではなくなってしまった。
翌日、私は姉の鍵についたキャラクターのストラップに手を出した。私とお揃いの、大切なうさぎさん。私のストラップを見る度に失った悲劇を思いだし、乞いてほしい。よく覚えていないけど、確かそんな心境だった気がする。兎に角私はその頃から、姉の大切な物を奪っては一緒に探しまくる、その繰り返しの奇妙な日々を送り始めたのだった。
終止符を打ったのは、私にとっては思いがけない出来事だった。姉が家を出て、独り暮らしを始めたのだ。無論、私の行為が露見したのではない。ごく普通に大学を卒業した姉が、ごく普通に職場近くに引っ越した。それだけの話だ。止まるところを知らず欲望のままに伸ばし続けた手は遂に空を切り、成す術もなく下ろされたのだった。
姉の引っ越しから1ヶ月が経った今夜、私は初めて姉の家に招かれた。
「いらっしゃい」
インターホンを鳴らした途端ドアから覗いたのは屈託のない笑顔、疑うことを知らない人間のするものだ。相変わらず無防備な姉に、「物盗りだったらどうすんの」などと野暮な忠告はしてやらない。もう手遅れだよ、お姉ちゃん。
入ってすぐ、1Kの部屋を品定めをするように見渡す。おおざっぱでガサツな割に、存外部屋は片付いていた。私を疑って全て仕舞いこんだのか、と一抹の不安もよぎったが恐らく思い過ごしだ。耳を澄ませば、シャワーに交じった姉の鼻歌が聞こえてくる。好都合ではあるのだが、もう少し警戒心を持つべきだと思う。本格的に歌い始めた姉の声をBGMに、私は下調べを始めた。
目に着いた赤い引き出しに手を着ける。見覚えのある物やそうでない物がごっちゃになってひしめき合う光景が目に映る。姉の胸中を覗き見る様な、このゾクゾクする背徳感と緊張感とが懐かしい。と同時に、この中に姉の大切な物があるかもしれない、いや、必ずある。そんな期待感が頂点に達し身体中の血が沸いているのを感じた。
「お先。次入んなさい」
3つ目の引き出しに手をかけたとき、姉の軽快な声が宝探しの終わりを告げる。少し残念だが、下調べとしては上々だった。見境なく姉の私物を持ち出す気などは更々なかった。
風呂に夕食、片付けなんかを済ませてから焼酎の飲み比べを始めると、あっという間に夜は更けていった。
「今夜は眠らせないよ。オールしよ」
「やだよ、明日バイトって言ったでしょ」
それには答えず、姉はお気に入りのコーラ割りを一気に飲み干して空のグラスを私の手元に押し付けてきた。爛々と光る熱の籠った眼を無視して水を注いでやれば、不満げに歪ませた口元に、それでもグラスを運んでいた。
バラエティ番組も終盤を迎えた頃には、姉はもう夢路へと船首を向けているように見えた。だめ、まだ寝かせないよ。引き留めるように肩を掴み、姉の意識を無理やり引き戻す。
「お姉ちゃん、」
酒で湿った唇は、恐ろしく滑りが良いことを私は知っていた。酒で開いた瞳孔は、恐ろしく何も見ていないことも知っていた。だから私は下手に回りくどいことはしないと決めていた。
「ねえ、「お姉ちゃんの一番大切な物」ってなに」
たいせつなもの、と鸚鵡返しをする姉に、こちらもまた繰り返してあげる。暗示をかけるように、言葉を区切りながらゆっくり。姉は数回ほど眼をしばたいて、勿体振るように徐に身体を起こした。
「そうねぇ」
重たげな頭を頬杖で支え、視線を宙に彷徨わせている。
「ゆうくん」
漸く私に向いた視線。しかし、その唇が紡いだのは予想だにしなかった男の名前だった。
「違うよ、なつ子だよ」
咄嗟に口から飛び出したのは気を利かせた冗談、というよりは本心から出た言葉だったと思う。
姉のこの表情、いや、この眼に既視感があった。しかも一度や二度ではない。姉のこの、溢れんばかりの愛情を孕んだ眼差しを、私はずっと見続けてきた。そして今私を襲うこの激情も、その度に経験したものだ。姉の視線の先のネックレス、コインケース、腕時計を見たときと同じ、欲しくてたまらない、カツボウ――。渇望?いや、違う、渇望ではない。姉の眼差しを自分が受けて、漸く気付いた。シットだ。この激情はシット、しっと、嫉妬。そうだ、これは嫉妬だった。私は、「姉の大切な物」を渇望していると錯覚していた。私が本当に欲したのは、それらが浴びていたこの「眼差し」。
「ゆう君がすき」
やめて。
「ゆう君」
姉のまっすぐな視線は間違いなく私の目を射抜いていた。まっすぐな、執着の混じる愛情の眼差し。ずっとほしかった、私が一番欲しかったもの。
「愛してる、わ」
全身が粟立つ程の甘美な囁きに思わず姉の眼を見つめ返したそのとき、私は悲鳴が堪え切れなかった。この世で最も憎むべき、葬るべきものが姉の開かれた瞳孔に映っていた。フルネームも顔も知らない若い男が1人、姉の双眸から此方を見据えていたのだ。
「次は〇△駅、〇△駅――」
乗り換えるために、降車すべき駅。私は立ち上がりもせず、開くドアに視線をやっていた。停車時間がとてつもなく長い。2分、3分、いや、もっとだったかもしれない。やがてスローモーションのように重たいドアが閉まり、再び電車は走り出した。
真っ暗な車窓からはなにも見えないが、見たことのない町が広がっているに違いない。お姉ちゃんが毎日見ている、私の知らない景色を思い浮かべる。
「ね、お姉ちゃん、どんな町なの?」
なんだか楽しくなってきて、思いがけず大きな声になって車内に響いた。年甲斐もなく、無性にはしゃぎたい気分だ。じっとしていられず宙へと脚を蹴りあげると、
『だめよ』
窘められた。慌ててピシッと両足を揃えると、
『えらい子にはごほーびね』
今度は甘い声がする。
握りしめていた両の手をそっと開く。汗と涙と血に濡れた双眸が、それでも確かに、私の最も欲しかった眼差しを向けていた。
閲覧ありがとうございました。
こんな妹はどうでしょう。