EPISODE.8「現時点で俺に足りない物がある」
『なぁ、浩ぉ』
「なんだ」
イーターの不満げな濁声に、浩は無愛想に答える。
『そのよぉ、この手袋、とってくれねぇか?』
「目玉が埋まった左手を外に晒せと?」
『でもこれじゃあオイラ何も見えねぇよ』
「知った事か」
小声で言うと、浩は話を切った。
彼は今、駅前の通りを歩いて居る。店が幾つか並んでいるため、例え平日の昼間でもそこそこの人が道を往来している。
何かの拍子に左手のイーターを見られれば、怪訝な顔をされるのは目に見えていた。もっとも、モンスターとは思われずにボディペイントの類だと思われる可能性が高いのだが。
「これから暖かくなるから、また対策を考えねば」
今は三月上旬。しかも今日は一段と寒いため手袋をしている人間は少なくないが、春以降、特に夏の日照りの中で、三十手前の強面の男性が手袋をしていると怪しまれるだろう。
『そういや、今日は仕事はねぇのか?』
「昨日校舎が破壊されたというのと、幾らか生徒にも被害が出たから、暫くは休校だと」
モンスターが現れ始めた二十年前から、今の事態に類似する状況は珍しくない。
卒業式、終業式が近いこともあり、入学式まで休校になると高校から伝達されたのである。
体育館に大きな損害が出たが、その修復はそう時間はかからないと浩は予想していた。モンスターには武器銃弾が効かないのと同様に、どのような壁も基本的に意味をなさないという。正確には、どれほど強固であっても意味がないという事である。モンスターにとって、タングステン製の厚さ10センチの壁を破壊することと、コンクリート製の同じ厚さの壁を破壊することは大差ないのだ。
モンスター対策が国家主導で行われ、出来た対策というのが、修復速度の最大化であった。幾ら技術を詰め込んでもモンスター対策とはなり得ないため、逆に建物の文明レベルは全く変えず、修復速度の技術を上げることに力を注いだのだ。
故に建物は二十年前と余り変化無い。防水防寒耐震性など、自然災害に対応できるレベルで留め、モンスターに壊されてもすぐに修復できるようにする。また再生可能な素材が数多く開発され、新築の建造物は殆どがそれを使用しており、味気ない建物が多くなっていた。木造の建物など、余程歴史ある物でなければ残ってはいない。
破壊された校舎の体育館も例外ではなく、瓦礫撤去、修復、整備にはそれほど時間がかからない。一ヶ月もあれば十分に元通りになる。そのため、休校期間は一ヶ月余りで済んでいるのだ。
「俺が始業式に参加することは無いだろうが」
『なんでだぁ?』
「非常勤講師の契約が今年までだからだ。来年から別の高校の非常勤講師を勤める予定……なんだがなぁ」
浩は空を仰いで溜め息をつく。天球は灰色の雲で覆われていた。
浩が昨日まで勤めていた高校の校長は、浩が次に勤めるつもりであった高校の校長と交流がある。浩がモンスターを前にして、生徒の避難誘導を放棄して我先にと逃げ出した件は、教員間でも話題になっているようで、恐らく伝わるだろうと予想できる。
生徒を見捨て、勝手に単独で逃亡した講師。例え教員試験を通っていても、講師として高校は雇うだろうか。答えは否だろう。
そのため、これから浩は無職と言っても過言では無いのだ。
「だが、これからモンスター退治(?)をしなければならないのであれば、好都合ととらえるべきか」
『あ、そうだぜぇ。契約は守ってもらうぜ? なのになんで悠長にほっつき歩いているんだ?』
手袋をされて視界が塞がれているイーターでも、浩が走らずに散歩をするかの如く歩いているのは理解できた。モンスターを探そうともしない浩の行動に、イーターは疑問を抱いていた。
そんなイーターに、浩は周りを見渡して人が近くにいないことを確認すると、言った。
「モンスター退治とやらをするために、現時点で俺に足りない物がある。まずはそれを補う」
『足りないものってのが、この先にあるって言うのかぁ?』
「あぁ」
浩は既に駅前の通りを抜けて、少々閑散とした住宅地を歩いていた。微かに聞こえる遠くのバイクのエンジン音の他に、音はほとんどしない。どこかの家の昼飯の匂いが窓から漏れていた。
それからまた暫く歩き、浩は足を止める。
「ここだ」
『って言われても分からないんだがなぁ。どこなんだここは』
「知り合いがやっている道場だ」
『どーじょぉ?』
和風の屋敷であった。『飯田道場』と筆で書かれている古びた看板が掲げられている。
時代錯誤な風貌であるが、よく見れば建材は新しく、木目調の壁紙が使われているだけで木製の柱もない。木製なのは看板のみだ。
モンスターが現れてから、木造の屋敷などは姿を消した。この屋敷が建て替えられてからそう時が経っていないのを考慮すれば、再生可能な現代の新素材で出来ていると容易に推察できる。
浩はその玄関に立つと、慣れた様子で呼び鈴を鳴らした。
暫くして、呼び鈴に備え付けられたスピーカーから、若い男の声が聞こえた。
『飯田道場です。どちら様でしょうか』
「助山 浩だ」
『おぉ! ヒロさんですか! 久し振りです。珍しいですね、何用で?』
「そうだな、マイク越しで話すのも宜しくない。上がって良いか」
『どうぞどうぞ』
そこでスピーカーの音が切れる。
浩が門に手をかけて開けた時、丁度屋敷の玄関の引き戸もガラガラと音を立てて開いた。
外の冷気に体を振るわせながら、一人の若い男が屋敷から出てきた。
「ひゃー、さぶ!」
男の声は、マイク越しに浩と話していた物であった。
「いや、ヒロさん。改めてお久しぶりです。堅気らしくない強面も相変わらずですね」
「それは誉めているのか? ……まあいい。久し振りだな若木。あいつから一本取ることは出来たか?」
「出来ませんよ! 出来たら洒落になりませんて。出来るのはヒロさんくらいなものです」
「今は大分鈍って居るがな」
「あー、まあそれはそうですかね……ひぇっ」
風が吹き、冬の冷気が二人を叩く。厚着をしていた浩はともかく、目の前の若木と呼ばれた男は再度体を震わせた。
「さ、立ち話も何ですから、中へ入りましょう」
「そうだな」
肩を抱きながら屋敷の中に戻っていく若木に、浩は素直に頷いて追従した。
その途中で、左手の濁声が浩に問う。
『足りねぇってのは、戦い方とかそう言うものかぁ?』
「それもあるが、それだけじゃない。……屋敷の中では喋るなよ」
前の若木に聞こえないように、浩は小声でイーターに言った。
『絶対に喋ってはいけない道場24時ってとこだなぁ』
「そんなに長居するつもりはない」
イーターの軽口を受け流しながら、浩は暖房の効いた屋敷の中に入っていった。