EPISODE.6「正気とは思えないな」
「変身を解除してくれ」
『あいよぉ』
浩が言うと、気の抜ける濁声と共に浩を覆っていた白い肉がほどかれ、左手の目玉の周りに収納されていく。
そして、僅かにむわっとした空気が溢れた。
「蒸れるなやっぱ」
こもった自分の汗の臭いが、浩の鼻についた。悪臭と言うまででもないが、三十近い男の体臭、しかも自分のものとあっては、嗅いでいていい気持ちもしなかった。
『ある程度通気性は確保してんだが、限界があるなぁ。臭いもシャットアウトしちまってるし』
「その辺はフィクションの不思議な力で何とかしろよ」
『残念、これが現実だぜぇ』
浩は自分の姿を確認する。シワが沢山ついたうえ、汗でじっとりと濡れた白衣とチノパンだ。
「……せめて白衣は脱いでおくべきだったか」
『結構無理矢理覆ったからなぁ。責めてくれるなよぉ?』
「そんな八つ当たりはせんよ」
幸い自宅近くであったため、人に見られないようにコソコソしながら自宅に入る。見られても問題ないはずであるが、浩の外見はボサボサの髪、少し残っている顎髭、そしてそこそこ彫りの深い顔と鋭い目つき。何故か子供に泣かれ、通報されることもあったのである。
「そういえば、眼鏡は割れてないんだな」
浩は汗で少し濡れた眼鏡を右手で弄りながら言う。
『細心の注意を払ったぜぇ』
「……まあ、ありがたいな」
変身時の能力の至れり尽くせり度合いと良い、粗野な口調をしている癖に、妙に気遣いが出来る奴だと浩は呆れた。
さっさとヨレヨレの白衣やらシャツやらズボンやらを脱ぎ、洗濯籠にぶち込んでおく。浩は独身一人暮らしであるから、後に自分で洗濯せねばならないのだが。
タンスとクローゼットから、先程まで着ていた服と大体ビジュアルが同じものを選び、着る。
鏡を見てみるに、よほど注視していない限り、朝から着替えているとは気づかれないように浩には見えた。
さっさと家から出て、高校へ急ぐ。
幸いにも浩の自宅は、高校まで徒歩圏内であった。
『戻るのかぁ?』
「生存者確認とかしている間に、俺だけ居なかったら問題だろ」
暫く居ないだけでも問題なのだが、そこは騒動で揉み消されてくれないかと、浩は淡い期待を抱く。
だが、現実はそう上手く行くはずもなく。
生徒や教師達の集合場所では、浩が現れた瞬間騒ぎ立てた。
彼の安否を気にしていた声も多かったが、教師として避難誘導もせずにどこに行っていたのか、と聞かれる事になる。
まさかモンスターと戦っていたなどと言う話を信じてもらえるはずもなく、結局、浩は「真っ先に校舎の塀を越えて逃げ出していた」と言った。
教師陣や避難を担当していた警官達から、渋い顔をされることとなったのである。
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『で、結局契約するのかしないのか、どっちなんだぁ?』
浩の自宅に再び戻ってきたとき、左手の濁声が聞いてきた。
「契約内容をはっきりさせるのが先だな」
『んー、はっきりさせるの難しいんだよなぁ』
浩は会話をしつつ、モンスターと戦っていたときにしわくちゃになったワイシャツなどを洗濯籠から取り出し、洗濯機に放り込んだ。
『まずオイラがヒロに力を貸す代わりに、すこーしだけ生命力をもらう』
「少しの生命力ってのは、どれくらいなんだ。致死のレベルではないだろうが」
洗剤を入れ、ボタンを押す。
ピッという電子音の後、洗濯機が動き出した。
『基本的には日常生活に問題ないレベルなんだが、変身した後に無理をすると、大分動きにくくなるだろうなぁ。だが死ぬまで搾り取りはしねぇよ』
「無理ってのは?」
『エネルギーがスッカラカンの時に、無理矢理身体強化するとかだなぁ』
なら今日は危なかったのか、と浩は冷や汗をかく。
『まあ、ヒロはエネルギーの使い方が格段にうめぇから、よっぽどの事がない限り大丈夫だぜぇ』
「そうか。……逆に言えば、生命力じゃなくてエネルギーでもいいのか」
『代用可能だぜぇ』
「それならまあ、大した条件じゃないな」
モンスターを倒せば、浩は常日頃生命力を奪われることは無くなると言うことである。
浩はベッドに倒れ込み、仰向けに寝転がった。
ギシッと木が軋む音がした。
『本題はこれからよぉ。オイラが力を貸す代わりに、やってもらうことがあるのさぁ』
「やってもらうこと? なんだそれは」
浩は左手の目玉を見ながら聞き返した。
『最初に言ったはずだぜぇ……世界の救世主になってもらうってなぁ』
その言葉を聞いた後、浩は僅かにため息を漏らした。
「救世主になるのが条件なのか?」
『まあ、端的に言っちまえばそうなるなぁ』
「具体性が無さ過ぎるだろう」
それに、と浩は続ける。
「俺はそもそも、ヒーローだったり正義だったり、あるいは命を大切になんて軽々しく言ってる奴らを信用しない」
『へぇ。だが、ヒロは今日生徒を助けるために、あの化け物と戦ったんだろぉ?』
「アレは別だ。俺は考えて行動している。俺が信用していないと言っているのは、そういう奴らが馬鹿だからだ」
『随分な決め付けだなぁ』
「そうでもない。例えば、命が大事だなんて言ってる奴は、何故大事なのかを考えていないだろう。命は金に換えられない?
そうだな……」
浩はベッドから上半身を起こして、置いてあったティッシュを一枚抜き取る。そして俄かにそれを両手でつかむと、真っ二つに引き裂いた。
「これを元に戻せと言われて、どうにかなるか? 金があれば何とかなると? ならないだろう。命が金で換えられないのと、何も変わらん」
『そりゃ、まあな』
「命が大事だ? 悪は見逃せない? 人のために貢献する? 自分の感情がどこから来たのかも考えず、盲信して行動する奴ら……正気とは思えないな」
そこまで言うと、浩はまたベッドに体を預ける。
『今日命を賭して、利益も無いのに人を助けた人間の言葉とは思えないぜぇ』
「俺は損得で動く人間じゃない」
で? と浩は左手の目玉を見つつ、再び聞いた。
「世界の救世主になるつもりは無い、ということは理解したか?」
『まぁな……ただ、ヒロは人を助けたいとは思っているのかぁ?』
浩はその言葉に、フンと鼻を鳴らす。
「当然だ……いや、どちらかというと、モンスターから人を守りたい、か」
『……だんだんヒロの事が分からなくなってきたんだがぁ、まあいいや。とにかく、それならヒロにとっても、契約は悪い話時や無いはずだぜぇ?』
「どういうことだ?」
『救世主つっても、大したことはさせようとしてねぇよ。ただ、力を使って人を助けりゃいいだけだ』
「……それだけなのか?」
『そうだぜぇ? 別に人類を率いろとか、巨大な敵から地球を守れなんていわねぇよ。ただ、モンスターに襲われる人間を助けりゃいい話だ』
眉をひそめて、浩は聞く。
「お前、モンスターじゃないのか」
『ヒロ達の言うところの、モンスターではあるなぁ』
「じゃあなぜ、そんな契約をする。目的がわからん」
ある程度敵対関係が確立している人間とモンスターの間で、モンスターが人間を助けようとする理由は? しかもそれが大規模なものではなく、実に小規模な条件なのは?
浩には到底、その解を導き出すことは出来なかった。
そんな浩に、左手の目玉はギャハハと下品に笑いながら、言った。
『企業秘密って奴だぜぇ』
「…………」
『いてっ! ちょっ、待て!』
浩は無言で、左手の目玉を己の右腕で殴りつけた。
『何故だぁ!』
「端的に言えば、ムカついたからだな」
軽く流す浩に、濁声がギャアギャアと騒ぎ立てる。
心底鬱陶しくなってきた浩は、それはおいといて、と話を続けることにする。
「とにかく、契約ってのは、俺が力を得る代わりに、少しの生命力をやるのと人助けをすること、なんだな?」
『釈然としないが、まぁそうだぜぇ。もちろん、誰も死なすな何ていわねぇよ』
「最悪、見捨てても?」
『状況によっちゃ契約違反だが、基本はヒロの意志で自由に動いて良いんだぜぇ?』
随分と浩側に有利な条件ではある。しかしそれが、どうも怪しさを醸し出していた。
「胡散臭いな」
『契約内容は、神に誓って本当だぜぇ』
「そこまでいうなら……」
やはり、優柔不断はよろしくない、と浩は自分に言い聞かせる。
何より、モンスターから人を救うこの変身の力は、浩にとっても魅力的であった。
「わかった。契約続行だ」
『男らしいぜぇ』
濁声の感想に苦笑しつつ、浩は左手を見て思い出す。
「そういえば、名前はあるのか? お前」
『左手に寄生したからヒダリー』
「やめい」
浩は即座に否定する。手のひらに目玉があるのは、確かにあの漫画を彷彿させるのだが。
『冗談だぜぇ』
「……前から思っていたんだが、何故そんなにサブカルな知識があるんだ?」
『企業秘密ってやつだぜぇ』
浩は左手を殴りたい衝動に駆られ、思いとどまる。
「で? 結局名前はあるのか?」
『あるぜぇ』
浩にとって、その答えは意外だった。全く今まで自己紹介すらしようとしなかったため、無いものだと思っていたのである。
「へえ。なんて名前なんだ」
『俺の名前はなぁ』
一拍置いて、濁声は言った。
『《イーター》。そう呼んでくれ』