EPISODE.1「断固拒否する」
数多の試験管、スタンドやあらゆる試薬が所狭しと立ち並ぶ。
一見乱雑に置かれているが、試薬のラベルは丁寧に、ビンは規則的に整頓されている。
換気扇が五月蝿いが、それでも部屋の空気は若干試薬臭い。昨日の硫化水素の腐った卵のような臭いが僅かに残っている。
とある私立高校の理科実験準備室で、一人の男が今日の実験の準備をしていた。
生徒全員に行き渡るよう、水酸化ナトリウムをビーカーに分配しているのである。
二限以降の実験は臨時講師の助手に準備してもらうことになるのだが、一限の為の準備は教師である彼も行っていた。ちなみに助手は現在、実験室に器具を並べているところである。
いま準備室で作業をしているのは、この高校の化学を担当する教師、名を助山 浩と言った。
浩は慣れた手つきで準備を行う。
高校でも大学でも、教師になってからも扱い続けた器具達だ。使い慣れているのは当然である。
何より、あまり厳密に濃度を定める必要がなかった。
水酸化ナトリウムは空気中にあるだけでモル濃度が僅かに変わる。厳密性を求める実験──例えば滴定なら、本命よりもまず先に水酸化ナトリウムを滴定して記録してから、というのが定石である。
故に、正直多少の誤差があっても、気にしなくても良いものだった。
スピーカーから間延びした鐘の音が鳴った。これは朝礼の時間を告げるチャイムであり、一限の五分前であることを表す。
どこかのクラスを担任に持った場合は、担任する教室で朝礼を行わなければならない。浩は非常勤の講師であるため、どのクラスも担任していなかった。ゆえにこの時間は自由である。まあ、五分程度の物であるが。
二限以降の授業の準備に取りかかり始めていた手を止め、一限のための設置を助手と共に行おうかと考える。そのためにまず眼鏡の位置を右手で直してから、背中を反らして大きく伸びをした。
その時である。彼の目の前に、真っ黒な裂け目のような物が現れたのは。
「…………なんだ?」
彼は思わずそう呟いた。
裂け目があったのが机や壁ならば、備品の劣化と結論づけていただろう。
しかし浩の目の前にある裂け目は、まるで空間が、世界が割れたように、空中に存在していたのだ。
裂け目の周りはひびが入っていて、黒紫色の粒子が漏れ出ている。裂け目の先も黒紫一色である。
浩は一度眼鏡を外した後、かけ直してもう一度見てみたが、やはりそこには裂け目が確かにあった。
そしてその中でチラッと、奇怪な動く物が見えた気がした。
(……まさか、モンスター?)
モンスターとは、ここ十年で地球上の至る所で現れ始めた怪物のことである。その存在は未だに研究途中で、確固たる対策も出来ていない。
曰わく、モンスターはいつでも、どこでも現れうる。
曰わく、モンスターには武器銃弾が効かない。
曰わく、モンスターは人を殺すのが目的である。
その他にもありとあらゆる情報、噂が玉石混淆の状態であるが、政府が公開している情報は要約すると以上である。
浩はモンスターは見たことがあっても、モンスターが現れる瞬間は見たことがなかった。
だが、状況からいち早く察したのである。
まず浩は火災報知器に走っていった。モンスターが本当に現れるならば、ここは実験準備室。あらゆる危険薬品が勢揃いしている部屋だ。
こんな所でモンスターが現れたならば、火災となるのは目に見えている。二次被害を防ぐためにも、モンスターが現れたらすぐに報知器を鳴らす必要があったのである。
浩は報知器のボタンの前のカバーを外し、何時でもボタンを押せるように指を置いた。
そしてそのまま、黒い裂け目を観察する。
裂け目は人一人分──ニメートルほどのサイズであった。
浩はモンスターの強さは大きさに比例すると聞いたことがあった。中では建物よりも大きいモンスターが現れることもあると言うならば、これから現れようとしているモンスターはそれほど強くはないのかも知れない。
そもそもモンスターが本当に現れるかの確証もなかった。前述のように、浩はモンスターの現れるところを見たことがない。
ただの思い過ごしであった場合、無駄に騒ぎを起こしただけになる。確証を得る段階になるまで、実験室の助手に知らせるのははばかられた。
「っ!?」
浩は思わず息をのむ。
裂け目の中から、デップリとした茶色の腕が現れた。
表面はテラテラと光っていて、湿っているようである。
所々にイボのような物があり、一見するとサンショウウオの脚にも見える。
モンスターの形状は様々だ。人型、巨人型、動物型、鳥型、虫型、あるいはそのどれにも分類されない、奇怪な姿の物もある。
浩は裂け目から現れるのがモンスターだと確信した。
これからまず報知器を鳴らし、準備室から避難しつつ助手に知らせる。距離を取ったら携帯を取り出し、モンスター討伐隊に連絡。その後まっすぐ走って職員室に駆け込み、教師に知らせつつ放送を流す。
他愛もない。戦わなくてもいいのだ。まずは生徒の命が最優先。
浩は初手に、報知器のボタンを押そうとした。
『あーー、ちょっと待ってくれねぇか?』
浩は手を止めた。止めてしまった。
直感で分かった。今彼の耳に聞こえた濁声は、裂け目から現れようとしているモンスターから出されたのだと。
『オイラは人を襲うつもりはないぜ。ちょっとばかしあんたに、個人的な話をしようと思っただけさ』
モンスターが喋ったなど、噂でも聞いたことがない。吠える、叫ぶなどということはよく聞くが、それは大抵意味不明な発音であり、日本語を、それをここまで流暢に話すなど、耳にしたことは無かった。
「……お前は、モンスターなのか?」
口に出してから、浩は自分が思いの外冷静であることを知った。
緊張こそしているものの、それはあくまで危険を前にした集中であり、精神は安定して落ち着いていた。
『ギャハハッ、あんたらはオイラ達のことをそう呼んでいるらしいな』
『達』と言った。すなわち、目の前のコイツはモンスターと同類。
そう判断しつつも、浩は対話を続けようと考えた。こちらを害するような素振りが見えなかった為である。
モンスターが裂け目から歩み出て、のそりと姿を現した。
「……キモっ!」
浩の口から思わずそんな感想が飛び出た。
浩の人生三十年弱の中で、これほど率直な生理的嫌悪感を体験したのは初めてであった。
でっぷりとした体は、まるで大サンショウウオのようではある。
しかし、顔があるはずのそこにはニョロンとした触覚のような物があり、その先に一つ目が埋まっていた。瞳はキョロキョロと辺りを見回している。
尻尾は太く、それも体から離れるに従って徐々に肥大し、その先に寄生虫の口のような物がある。顎のない、円形に歯が並んでいるような口だ。
体長は、人間の背丈ほどである。
『……傷つくぜぇ』
「あ、すまん」
とっさに謝ったが、しかし浩はやはり嫌悪感を拭えなかった。そもそも目の前にあるのは、人に嫌悪感を与えるのが目的とばかりのビジュアルである。嫌悪感を抱かない方がおかしい。
どこからどうみても、人間の敵であるモンスターである。もう報知器のボタンを押してしまおうかと、浩が思った程である。
「個人的な話、というのは?」
『ギャハハ。単刀直入に言っちまうぜ』
モンスターは、そのサンショウウオのような体を浩に向け、触手の先の目で浩をのぞきこんだ。
そのとき浩が思わず身を引いてしまったのは、仕方がないことである。
モンスターはどこで喋っているのか分からない濁声で、言った。
『オイラと契約して、世界の救世主になってみねえか?』
「断固拒否する」
答えに迷いはなかった。即決である。
『お、おい! もう少し考えてくれても良いんじゃねぇか?』
そう言うが、浩には賛同する理由が浮かばなかった。
一つ。目の前の奴は敵である可能性が非常に高い。
一つ。契約内容が抽象的に過ぎる。
一つ。姿が醜悪の限りを尽くした化け物である。
一つ。そもそも世界の救世主になどなりたくない。
よって契約する理由はない。Q.E.D.
『別に怪しい契約じゃねえよ、ちょーっと契約してもらって、ちょーっとヒーローになってもらって、ちょーっと正義の味方になってもらうだけだからよぉ』
「断る理由が増えていくな」
そもそも浩は正義の味方なんて口にする奴を絶対に信用しない。
「大体、契約とはなんだ」
『たいしたことじゃねえよ。あんたの体のどこかに俺が寄生するだけだからよ』
「もうこれ以上断る理由は要らないのだが」
こんな姿の奴が、自分の体に寄生するなど、浩にとっては想像するのもおぞましかった。
『……あんた、先生なんだろ?』
突然モンスターはそう切り出した。
「まあ、そうだな」
『なら、生徒の命は大事かい?』
「……いったい何を言っ」
浩は言葉を止めた。
発言を躊躇したのでも、噛んだのでもない。
身の毛もよだつ寒気と圧迫感が、背後から浩の体を駆け巡ったのである。
「なんだ?」
浩は疑問に思いながら実験室のドアを開け、驚いている助手に眼もくれず、窓から外を見た。
準備室の隣接している実験室の窓からは、この高校の校庭が見渡せた。本来ならば、一限の体育の準備をするため、何人かの体操着に着替えた生徒がちらほらと見える光景が広がっている筈である。
「な!?」
浩は目の前の光景に目を見張った。
校庭のド真ん中に、先程もみた黒紫色の裂け目が広がっているのである。
しかし驚いたのはそれが理由ではなかった。
「なんだこれは! デカい!」
実験室で見た裂け目とは大違いであった。
縦に広がっている裂け目は、地面から大きく伸びている。そのてっぺんは、浩の目線よりも高い。
化学実験室は三階だ。それを考慮すれば、裂け目の大きさは約十五メートルと言った所である。
黒紫色の煙のような何かを噴出する巨大な裂け目。
その中から、大きな腕とその巨体が、鈍重な足音を響かせながら姿を現す。
一つ目の巨人。校舎と比べると、その巨大さが伺える。
『さあどうする? 生徒の命が大事だろ?』
浩は実験室まで出てきた、醜悪なモンスターを振り返った。
表情の無いはずのそれが、不思議と下品な笑みを浮かべているように、浩には思えた。