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EPISODE.9「お久し振りです」


 廊下を進むと、徐々に聞こえる低い声が大きくなっていく。喧噪のような、幾重に重なる低音は狭い廊下の壁で鈍く反響していた。

 鍛錬場の扉の前まで行くと、中から聞こえるその声ははっきりと認識できる。鍛錬を行っている男たちの雄叫びであった。


「失礼します」


 若木が一声かけてから扉に手をかける。ガラガラと音を立てながら引き戸が大きく開いた。

 鍛錬を行っていた男たちは一瞬扉の方を向き、若木の姿を見るとすぐに鍛錬に戻ろうとする。しかしその後に続く、手提げバックを持ったコート姿の男を見ると、鍛錬場に響いていた雄叫びが静まり返った。


「失礼」


 浩は短くかつ簡潔に言うと、礼をして鍛錬場に入る。その後に若木が同じように礼をして、鍛錬場の中に入り引き戸をぴったりと閉じた。

 暫くして、鍛錬に励んでいた男たちがざわめき出す。何人かは誰何を呟いていたが、有段者と見受けられる屈強な男達は、浩のことを知っている風であった。

 その中で、坊主頭に髭を蓄えた、修羅のような大柄な男が前に出ると、重低音で浩に話しかけた。


「助山か。久し振りだな」

「お久し振りです。形原さん」


 浩は久しい相手に挨拶をする。どちらも無表情で、素の顔が怖いため友好的な雰囲気こそ出ないが、その様子は二人が知人であることは容易に推察できる。

 見ていた群衆の内若手の一人が、隣の男に小声で話しかけた。


「だ、誰なんですか、あの人。形原さんと知り合いだなんて。ここの会の人なんですか?」

「ああ、お前新入りで知らないのか。いや、堅気ではあるが、若の幼なじみでな。前組長の頃からここに入り浸っていたのさ」

「はぁ」


 そんな会話が為されている間に、形原と呼ばれた大男と浩は会話を続ける。


「珍しいな。稽古でもしに来たのか」

「まあそれもありますね」

「着替えるか? 昔の奴は捨てたから、道着の予備から選ぶことになるが」

「いえ。ジャージ持ってきてますので、それで」


 言いながら、浩は持っていた手提げの鞄を掲げて見せた。

 形原は呆れたようにため息をつく。


「相変わらず何考えてんのか分からん奴だ。それで、どうする。途中から参加するか?」

「暫くは隅で体を温めて置きます」

「そうか。分かった。……よし、お前ら散れ散れ、さっさと再開すんぞ」

「「「押忍っ!!」」」


 男たちの野太い声を背に、浩は自身の言った通りに部屋の隅に行くと、アップを始める。

 運動前のアップは、各部の筋肉を伸ばす静的ストレッチではなく、体を動かす動的ストレッチが推奨される。浩もその程度の知識はあった。


『……なぁ』

「……中では喋るなと言ったはずだが」

『そう言われても暇なんだよ。どーせ聞こえねぇって』

「……」


 イーターの訴えに、浩は道場内を見渡す。あちこちで男の野太い怒号が飛び交っており、小声で話すには問題無いように思われた。


「わかった。小声でなら会話を許そう」

『ありがたいぜぇ』


 イーターは言われた通りに声を潜め、浩に聞く。


『ここって、空手とかじゃなくて、古武道とかの道場なのかぁ?』

「表向きはな」

『裏があんのかよ……』

「より実践的な格闘術を仕込み強くするための、暴力団の道場だ」

『……それって、大丈夫なのかぁ?』

「そう言われても、幼少期から関わりがあるからな」


 ストレッチを続けながら、浩はそれに、と付け加える。


「あくまで表向きは古武術の道場だ。上手いことやれば『知りませんでした』で通る」

『まぁそりゃそうかもしれねぇが……暴力団と懇意にしてる奴が教師ってのは、あれだなぁ』

「教師ってのは過去形だな。それに、教師をやってる間は連絡を取っていない」

『バレなきゃ犯罪じゃないってか……』


「おい、そろそろ良いんじゃないのか?」


 形原が遠くから呼びかけた。


「そうですね」


 と浩は頷き、ストレッチを止めて男達の近くに向かう。


「これから組み手だが、希望はあるか?」

「相手を指名して良いと?」

「ああ。だが、こいつらだと期待に添えんかも知れん。所詮黒帯だ」


 黒帯、つまり初段以上の面々がここに集まっているわけだが、この道場は級、段の基準が一般的な道場よりも高い。

 しかしそれをしても、浩が満足する相手にはなり得ないかも知れないと形原は考えていた。

 鈍っているという現状がどの程度かは把握していないが、以前の浩ならば黒帯程度軽々と相手できるレベルであったことを、形原は鮮明に覚えていた。

 当時の若──現組長と互角に渡り合えていたのは、形原を含めて、浩以外の門下生には居なかったのだから。


「じゃあ、若木を指名できますかね?」

「ほう」


 形原はニタリと笑みを浮かべる。


「この場で鍛錬していないということは、そう言うことでしょう?」

「まだ茶色って可能性はないのか?」

「あるわけ無いでしょう」

「……ブハハッ」


 今度は声を上げて笑う。

 そして形原は、さっさと玄関に戻っていた若木を呼び戻した。

 若木は慌てた様子で鍛錬場に入ってくると、妙な笑みを浮かべて腕を組み仁王立ちしている形原を見て、首を傾げた。


「何です? 何の用件で?」

「こいつがお前をご指名だ」

「……ひゃー……」


 一気に顔を青ざめる若木。彼の脳裏で数年前のトラウマが思い起こされる。


「おら、さっさと胴着に着替えろ」

「お断りしたいんですが……無理ですか? 無理ですね? ……わかりましたよ」


 諦念の表情で裏に下がり、若木は手慣れた様子で準備を始めた。

 その間、浩は黒帯の一人と腕慣らしに軽く組み手を行った。浩にとっては挨拶程度の物であったが、相手は激しく息切れをしている。


「……あの人ヤバいな」

「おう。マジモンの天才だ。良くみとけよ」


 傍らの男達がヒソヒソと話をする中、胴着を着た若木が姿を表した。


「……ふっ」


 その姿を見て、浩は軽く笑う。

 若木の腰に巻かれていたのは、紅白帯であった。

 柔道における紅白帯は、実力以外に年齢、業績云々の条件があり、現役選手が締めることはまずない。

 だがここ飯田道場では制度が異なる。紅白帯は実力で勝ち取ることができるのだ。

 だが黒帯までの水準が高いのはさることながら、紅白帯となると段違いに難しい。六段以上の基準は現組長によって定められる。例えば、云々の条件下で組長と戦い、云々する、という具合である。

 六段以上はその時の組長の強さによって難易度が変位する。そして現組長の強さは歴代最高とも言われ、必然的に六段以上の段位獲得難易度も上がるのだ。

 今や飯田道場に紅白帯は数人しかいない。その数人の内に、若木は名を連ねていた。

 穏やかな見た目とは裏腹の強さ。何より若いこともあり、今や黒帯達にとってのホープともいえる存在である。


「久しぶりだからな。お手柔らかに頼む」

「……それこっちの台詞なんですけど」


 その黒帯の憧れの的が、見知らぬジャージ男の前で、明らかに怖じ気付いている。

 浩を知らない者達は、眼前の事実に戸惑うばかりであった。



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