白き牡鹿
――鳥の鳴き声。緑生い茂る森の中。苔に侵食された大木がところ狭しと生え列び、その遥か上では葉が風に吹かれてさざめいている。
――此処は″帰らずの森″の中腹付近、だと思う。
恐ろしげな名前ではあるが、なぁに、3日も寝泊まりする準備さえあれば、誰でも生きて帰ってこれる。
何処にでもある森の中さ――
鳥も、風のざわめきも、羽虫も、ちょっと皆黙っててくれ。
手が震えちまう。
森に入って二日目。
約三ヶ月振りに、俺は鹿の肉が食えるのだから。
あ、そうそう。思い出した。ヒヒヒ……。
西方のルートから″醤油″とかいう液状のスパイスをね、王国の近衛騎士団にいる兄貴が街で手に入れてきたのだー!
これぞ職権濫用!
まだちょっと味の予想がつかず怖くて使えていないんだけど、アレを試す絶好の機会だな。
楽しみー!
それに、皮を剥いで剥製にして売れば何ヵ月か生活に困らない。
兄貴、喜ぶだろうな……
フッフッフ……
いや、邪念は捨てなきゃ。手元が狂っちまえば、今と変わらない質素な生活が待ってるだけ。いや、下手すりゃ野垂れ死ぬ。
これがこの世界の掟ってやつだ。
しかし、あぁもう、今日に限ってショートボウしか持ってきていない事に腹が立つ。
こんな至近距離まで気配を殺して近付かないといけなかったからね。
こんな大物、滅多に遇えないんだ。逃したくない。
よぉし、そのまま、大人しくしてろよぉ……
しかしすげぇな、真っ白い牡鹿だ。角がでっかいなぁ……
神々しいってのはまさにこいつの事を言うんだな。
あれ? 何だ?
鹿が……こっちを、見て、る?
ヤバい、逃げられる! ……あ、良かった向こうを向いた。まだ気付かれてない。
よし、そのまま、そのまま……
ゆっくりと、弓を引き絞った。
『お前は、満足か』
え……
『こんな場所にまで来て、私を殺して、それで満足かと訊いている』
なにこれ、頭に直接……魔法か?
あの牡鹿が、話し掛けてるのか……
白い牡鹿は、再び振り返った。
眼が、白く、光っている……
なん、だよ…ば、化け物!?
『殺してみせろ。代わりに、背負ってもらおう……』
牡鹿が、こっちに向かって走って来た!
「うぁ……うわぁ!」
ビシュン!!!
――――「う…ううん……はっ!?」
気が付くと、俺は、森の中で大の字になっていた。いや、もとから森にはいたんだけれど……風景が、微妙にさっきと違っている。
違う……此処は……
此処は、何処だ?
そうだ、牡鹿は……恐怖心から思わず手が滑って……
いや、狙って撃ったのか……
いや、″撃たされ″たのか……
わからない。今となっては、よくわからない。
目の前で倒れている牡鹿を確認すると、目を疑った。
茫然と、立ち尽くしてしまっていた。
普通。白くない。
普通の、茶色い毛並みの鹿が、頭を貫かれて倒れていたんだ。
『――これで、契約成立だ。お前…中々″面白い物″を持っているな……ククク』
「なっ、何だよこれ……」
再び、あの声が聞こえた。
でも今度は直接、″奴″は頭の中に居るような気がしたんだ――