天使の恋
――いつになく、というより私は、完全に空高く心が舞い上がってしまっていた。
片翼のくせに。
だから嫌だったんだ。距離を置いていたかったんだ。
――二十歳くらいだろうか。美しい亜麻色の髪は、風になびく程の長さ。
強き意思を感じさせる、太く長い眉。
すっと通った鼻筋に、サファイアのような瞳。
そんな青年が、目の前で微笑んでいる。
見た目の美しさに惹かれるなんていう、愚かしい感覚は私には無い。
人間のような感性は持ち合わせてはいないものと思っているし、目の前の青年よりも美しい男ならば、天界で何人も知っている。
ならば、何なのだろう。この胸の高鳴りは。
この青年に感じるもの。それは、人間という生き物の儚さ、脆さ、危うさ……そう。これが人間の魅力なのだ。
百年も生きられないのに、壮大な未来を語る、こんな切ない生き物は世界中どこを探しても人間をおいて他に存在しない。
愛しい。人間が愛しいのだ、私は。
この青年はその存在全てで、その切なさを美しく放っている。
カノンが連れてきた友達は、そんな人間だった。
――「紹介するね。こちらがカリンだよ」
「初めましてカリンさん。
私の名はエドワード・バルディウス。麓の集落で、南の集落を取り仕切っている者です」
ずいぶんと若い族長なのね。
――この男は、今まで私に助力を求めてきた者達とは、一線を画していた。
媚びる事も無ければ、かといって力を誇示する事もない。
魚の釣り方や罠の仕掛けかた、そんな話をカノンと楽しそうに話をしている。
「――カリン、僕ちょっと魚釣ってくる! エドはカリンとお話してて!」
「え、お、ああ。気をつけろよ」
「はーい!」
カノンは脱兎の如く消えた。
気まずいじゃない。どうしたらいいのよ。
エドワードは咳をしてその場を取り繕った。彼も気まずいのだろう。
「あの……あの子は、カノンは集落では、人とうまくやれているのですか」
あの子が迷惑をかけていなければいいけど。
「それはとても。
誰とも仲良くやっていますよ。
実をいうと初めは、カノン君はうちの集落の連中に、ずいぶんと苛められていたんです。その事も謝罪したくて、どうしても……あなたに会いたかった」
「そんな、私に謝る必要なんて……
カノン! 出て来なさい!」
木陰に隠れているのは気付いていたけど、苛められていたなんて聞いたら、ちょっと彼のお遊びに付き合ってはいられなかった。
カノンは姿を現して、頭を掻いて笑う。
「お前、釣りとか……ませガキめ」
エドワードは耳まで真っ赤にしていた。
私の顔はどうなっているのか、気になってしまった。
「えへへー。でも僕は全然気にしてなかったよー! みんな、よそ者にはあんな感じなのかなと」
「髪まで青い奴なんて珍しいからな。
でもカノンは一生懸命、集落の者と仲良くなろうと色んな仕事を手伝ってくれました。そしていつの間にか、集落の人気者に、ね」
「そうでしたか……」
カノンは相変わらず晴天のようだ。
一瞬、このエドワードという青年の目から、戸惑いを感じた。他に何か言いたい事があるのだろう。
その為に、カノンに接触してきたに違いない。
でも、その謎はすぐに氷解することになる。
――「カリンさん。あなたは翼人で、この世界では天使と呼ばれる存在だと聞きました」
「はい。でも今は、ただの隠居した翼人だと、私は思っています」
するとエドワードは、切り株で作った簡易な椅子から立ち上がると、ひざまずいた。
やはり、この男も他の民と同じか……
「カリン。私はあなたに宣言します。
私、エドワード・バルディウスは、王になります」
人間の最大の魅力。それは、未来を切り開く力に満ち溢れている事。
かの大天使様が仰られていた言葉が、今頃になって胸を焦がした。
「――あなたが、王に?」
「カノンから聞きました。いずれ来る魔族との争いの事を。
そんなものに心折られ、ただ黙って付き従う事が人間の運命なのであれば、私はそんな運命は、到底受け入れるなど……魔族を許すことなど出来ません」
「バルディウスさん……では、あなたの今後の展望を聞かせて頂けませんか」
「はい。ノーヴァ山脈の麓には私達南の民と、東の民と西の民が領土を争っています。
私はまず、その集落との和平を結ぼうと考えています」
私に助力を求めてきた族長達が、誰も口にしなかった言葉をいとも簡単に言いのけてみせたこの青年。相手を滅ぼそうとなど考えてはいない。
気負う訳でもなく、嘘をついている様子もなく、ただ淡々と私の答えでもあるそれを口にした。
「――お気持ちは解ります。けれど、私はずっと……気が遠くなる程ずっと、人間を見てきたわ。和平などと、下手に出たならば付け上がるのが人間です。そう簡単にはいかないと思うけれど」
「いえ、いかせます。そう簡単にはいかない事も理解しています。まだまだ多くの血が流れる事になるでしょう。しかしです。それでも、私はこの地に国を造りたいのです。
私にはそのアイデアと夢があります。その夢を成し遂げる為なら、命など惜しくはないのです」
「それは、あなたの夢の為に、ですか」
もし彼の欲望の為なら、私は首を横に振ろう。目的は違えど、他人を巻き込んでも構わないアザーゼルと同じ思想の持ち主だ。
――しかし、私の予想は覆された。
「――いいえ。これから何千年も先も、この地に暮らす人々の為に、です」
この青年……そんな未来まで……
私は、この瞬間に、彼に惹かれてしまったのだろう。胸が苦しい。
「――今日は、その宣言をしに来たんです。世界の語り部として、是非私の行いを後世に正しく伝えて頂くために。
さて、今日は言葉だけでなく食材も持ってきましたので、私の料理を振る舞いたいと思います」
「うおーっ! エド! 僕は肉だよ! お肉!」
「わかってるよ……お前の肉も使ってやろうか」
カノンは大騒ぎ。私はカノンの頭を押さえつけた。
――三人での昼食は、とても楽しかった。
天界にいたら、きっとこんな時を過ごすことなんて無かったのかもしれない。
日が落ちる前にエドワードは里へ戻ってしまったが、私は明け方近くまで、眠れなかった。
心が、体が、熱くて。
――エドワード・バルディウス一世。
後のこの大地に大帝国を築き、世界にその名を轟かせる事になる男との恋は、意外にもというべきか……私のソファーを占領して豪快ないびきを立てて眠る、青い髪のキューピットが与えてくれたなんて、この時はまだ微塵も思わなかった。
――それからたまに、エドワードは顔を見せるようになった。
よその世界の事、裏の世界の事、どんな生き物がいて、どんな生活をしているのか。
この男は、探求心の塊だった。
カノンにひけを取らないほどに、私からの知恵を吸収していく。
そんな彼は物理原則を応用して、様々な道具を発明していった。釣竿のリールや自転車。
そしてカノンは、その自転車で山を下り、釣りに励む日々。
中でも驚いたのが、私達の力の源である、マナを溜めるという発想だ。
まだその媒体となる物質を採取する方法がこの世界にはなかったので、理屈は彼の頭の中に埋もれてしまう事になるのだが。
その発想の力は、私達翼人には無い能力だった。
――やがて私は少しずつ、彼が姿を見せない時の辛さが身に染みるようになっていた。
会いたいよ。エドワード……会いたくなかったよ……ああ、エドワード……
そして、永遠とも思えるこの命が、憎らしく思えるのだ。
――あなたの一生は、私の一瞬。
切なさに心を引き裂かれそうになる。
あなたの笑顔をこの目で見ている時間よりも、その笑顔を思い浮かべる時間のほうが、いずれ越えてしまう事を私は知っているからだ。
エドワード……私は……
私はカノンに気付かれぬよう、声を殺して泣いた。
――とある日、カノンが言った。
「ねえ、カリン様。お願いがあるのでございますのでますざますよ」
おかしな言葉で、もじもじとしているカノン。
「様って。なぁにカノン。悪いことしたら謝らなくちゃダメよ」
「違うやい! あのね……僕、エドの力になりたい」
心臓が脈打った。
「エドはみんなを幸せにしたいって! 僕もエドと同じ気持ちなんだよ!」
「カノン……私達はこの世界に、本来なら″居てはならない存在″なの。解ってるでしょ?」
「解ってるよ! でも、僕……」
世界の秩序なんて実のところよく分からない。人のエネルギーは時に未来をも変えてしまうから。
でも、この子の力はきっと、その秩序を壊してしまう程の力を持っている事は間違いなかった。
「あなたの力は世界をも変えてしまう危険なものなの。エドワードにだって、迷惑がかかってしまうかも」
「そんな事はありませんよ」
「エド! 僕から言うって言ったのに!」
いつの間に。
エドワードは、散歩にはきつい距離だなと、汗をかきなから笑っていた。
「バルディウスさん……」
「私からもお願いします。カノンをしばらく私に預けては頂けませんか」
真っ直ぐな瞳。駆け引きなど、全く考えていない瞳。
私は思わず、目を逸らしてしまった。
あなたに恋しているなんて、神様にだって言えない。
その思いを一番知られたくない人が、言葉を続ける。
「カノンの才能には目を見張るものがあります。私の作戦には、カノンが必要なんです」
彼はいつになく真剣だ。
「私の作戦が、いや、カノンの発案なのですが、この作戦が成功すれば、この紛争はたった数回の、最小限の戦闘で終わらせる事が可能です。話だけでも聞いて貰えませんか」
「カリン、お願いだよ。そんで晩御飯、三人で食べようよ!」
「カノン、お前は肉の事しか頭に無いのか……」
今日のエドワードは、日が落ちても帰りそうになかった。
――話を聞いた後、簡単な夕食を摂り、木を削って作った浴槽でエドワードとカノンは楽しそうにはしゃぐ。
体を暖めると血行が良くなり、健康に良い。浴槽とは、この発想で彼が作った、湯を溜めて入る道具だ。
もしこれを鉄で作れたら、下から火を起こせば熱々のお湯につかれる、とエドワードとカノンは喜んでいたけど、私には人間を入れるお鍋としか想像できなかった。
彼って面白い人。
カリンもおいでよ! と、はしゃぐカノン。
私は構わなかったけれど、上着を脱ぎかけた瞬間にエドワードが物凄い拒絶を見せたので入るのをやめた。
嫌われているのかしらと落ち込んだけど、男女が互いに裸を見せあうのは、特別な時だけなんだとエドワードは顔を真っ赤にして、一生懸命説明してくれた。
カノンと二人で頷いてみた。
彼ってつくづく面白い。
――私にも、その特別な時は訪れるのだろうか。
出来たら、エドワードとカノンと、三人で浴槽につかりたい。この争いが終わる頃には……
そんな時が来ますようにと、私は少しだけ神に祈ってしまった。




