蒼き降臨
――豪雨と雷雲の稲妻迸る天空。
人も獣も殆どいない痩せた大地。
その上空の漆黒の闇の中に、巨大な二つの輝きがあった。
地上の人間の眼には、遥か北方の暗雲の空に、巨大な二つの火球が高速で近づいては離れを繰り返す、壮大で奇妙な光景が見えている事だろう。
やがて人々の想像力によって書に記され、伝説の一つにでもなるのかも知れない。
そんな事を考えている余裕など無い事は、自分でも解っている。
余計な思考が巡るのは、きっと、私の心の中で既に、決着が着いてしまっているのかも知れない。
息が切れる……気力も限界だ。
でも、諦めたくなかった。
その火球に包まれている男は、背中に生えた大きな翼を広げて周囲を一回りすると、もう片方の火球の目前で静止するや否や冷たい念を送ってきた。
「もう、いい加減にしないか」
アザーゼルは、もう勝負は着いたとでも言いたげに、図太い眉毛をまるで、幼子に駄々を捏ねられて困惑しているかの如き、への字に曲げた苦笑混じりだった。
強い……強すぎる……全く、歯が立たない……
私が与えた筈の、彼の頬の傷がみるみる塞がっていくのが確認出来た。
「いい加減、なのは、どっちよ……」
念話を返すのも精一杯。
私は、呼吸を整える事に集中する事にした。
「満身創痍ではないか。
いい加減、我々の軍門に下れ。
私に傷を付けた事は評価に値する。
そうだ、お前には軍団を持たせてやろう。
私の側近として、一生幸せにしてやる」
端正な面持ちにニヤリとされ、寒気がする。
冷徹な笑みだった。
「ふ、ざけるな、その、言葉に、何人もの、天使が……
アザーゼル……私は、騙されないわよ……」
駄目だ、マナが抜けていく……
翼に力を込めて、暴風に吹き飛ばされない様にするのが精一杯だった。
「――騙す、だと? それは聞き捨てならんな。
騙してきたのは、神の方だとは思わんか。
神とは一体何なのだ。
祈りも欲望も我々の力になるというのなら、何故我々が人間の欲望を力にする事が禁忌されなければならんのだ」
「あなたは……天使の、くせに、そんな事も、解らなくなったのかっ!」
神の命令により、人間達を守護する存在。
それが、天使の役割だろう。
人の、神への純粋な祈りが、利己的な欲望と同じ力な訳がない。
そして、人間が悪いのではない。
そうやって強大な欲望の力に溺れたのは天使の方だろう。
欲望に負けて天界から堕ちていった天使達を、私は星の数ほど見てきたんだ。
悔しい……私には、彼を改心させる力も無いのか。
一体、誰がアザーゼルをたぶらかしたんだろうか……
アザーゼル……
「――解らんねぇ。
天使なら何故それを思い悩む必要があるのか問いたい。
天使は人間にも劣る存在なのか?
違う、冗談じゃない。
何の力も無い、惰弱な人間共に平伏せと?
馬鹿を言うな!
神は何処だ! カリン!
神を此処に連れてこい!」
アザーゼルの怒号は、荒れ狂う嵐に一層の力を持たせ、雷鳴がまた調子に乗り出した。
バランスが崩れ、落下しそうになるのを堪えた。
「くっ……私も、神には、御会いした事は、無い……でも……私達に力を、授けて下さったのは、神よ」
「カリンよ。
素直になったらどうだ。
神など居らぬ……居らぬのだ。
かつては私も、何度も祈った。
だが、神は一度たりとも、我々の前に現れる事は無かった」
「それは! 神は私達に、この世界を任されたから、そして……」
まずい……話す度に、力が……
「ふふっ、詭弁だな。
ならば何故、神は我々の問い掛けに応じない!?
答えられないからだ!
しかし、″あのお方″は違う。
あのお方は、祈る私の前に現れて、そして長年の疑問を全て答えて下さった!」
あのお方?
「だ、誰なの、そいつは」
「お前が我が軍門に下るのなら会わせてやろう。
あのお方は、私に真実を教えて下さった。
あらゆる信念も、美徳も、欲望の前には無力だという事を。
これからは、人間は護る存在ではない。
これからは人間を、我々が″管理″する。
この考えの、どこがいけないと言うのだ」
「そんな事……させない!」
私は再度、槍を身構え、意識を集中した。
アザーゼルは、首を何度も横に振りながらニヤリと笑っている。
「させぬ、か……わかった」
右手に長剣を握って身構えたアザーゼルは、その嫌らしい笑みを止めた。
「カリン……お前は一度、人間の世界にでも堕ちて、現実を見聞してくる事をお薦めしよう」
「黙れアザーゼル!」
私の狙い済ました渾身の突撃を、アザーゼルはいとも簡単に交わしてみせた。
もう、私には翔ぶ力さえ残ってはいない。
アザーゼルの左手で、首根っこを鷲掴みにされ、辛うじて空中に留まっているだけだった。
「残念だよ、カリン。
その美しい瞳も、美しい唇も、私の物にならぬと言うのなら……もう、その美しい翼も必要あるまい」
背中に、今まで感じた事の無い激痛が走った。
左側の翼が、暴風の勢いに逆らえず、なすがままに落下していくのが見えた。
「うぐぅぅぅぅ!」
声を上げたくとも、首に食い込んだ左手がそれを阻止した。
「どうだ、痛いか、苦しいか……だが、私の苦しみは、こんなものではない!
お前を! 愛していたのに! 私の痛みは、こんなものではなぁい! お前が、悪いんだ……お前が悪いんだぁぁぁぁぁ!
……ふっ、ふっはははははははっ!」
狂喜に支配されているであろうアザーゼルの顔は、醜く歪んだ。
もう、天使のそれとはかけ離れた顔だった。
「もう片方も、切り落としてくれるわ!」
ああ、神様……神様……
私は、溢れ出る涙を塞き止めるように、強く瞳を閉じた。
もう、私はどうなってもいい。
どうか人々を、御護り下さい……
神様……
――その時、凄まじい雷鳴が鳴り響いた。
瞼を開くと、アザーゼルは何かを睨んでいた。
その方向に眼をやると、一匹の、巨大な……
「何だ、お前は……」
――巨大な山のような体躯に、人魂のような無数の蒼い炎を漂わせた、一匹の、狼がいた。
『――珍しいのう、こんな所に翼人とは』
「むう、貴様……異界の魔物か何かか」
『どうとでも呼ぶがいい』
心を鷲掴みにされそうな響く声と、凄まじい殺気を内包したベクトルは、アザーゼルに向かって、蒼い眼光で睨みを効かせていた。
凄い……何者なの……
私は、この高慢な男の身体の震えを、この首を掴むそいつの左手から感じ取った。
「こんな所に、何をしに来た。
もしや邪魔立てしに来た訳ではあるまいな」
『呼ばれたのだ。その女にな』
「何ぃ……カリンに、だと?」
私が、呼んだのか……
いや、私が祈ったのは……神だ……
『人々を護りたいという、純粋なその者の祈りが、余を此処へと導いたのだ』
……神、なの? 神がこんな……殺気を……怒気を、放つものなの?
「祈りだと……そうか、貴様は。
あのお方に仇なす者か」
『あのお方、か……笑わせてくれる。
どうしてこう、翼人共は、神だ、使命だ、運命だのと言われて、簡単に魔物に拐かされるのだろうな。
翼なんぞ、無い方が良いのではないか?
人間の方が、貴様等よりずうっと賢いぞ。
一度、頭の中を拝見させて戴きたいものだ』
「貴様ぁ……我々を愚弄するかぁ!」
「うぐっ!」
私の首が更に絞まる。
『そうやって、この世に必要の無い種族はいずれ絶滅するのだろう。
貴様等はただでさえ数を減らしておるのに、共食いしとる場合か。
阿呆が』
「ええい! 黙れ! 黙れぇ!
喰らえ! 稲妻落とし!」
暗雲から稲妻が数本、狼に向かって落ちてきた。
しかし、身体に纏うその蒼い炎が、その稲妻を見事に掻き消した。
『まあ、待て。
貴様を殺す前に一つ、頼まれてくれんか。
貴様の申す″あのお方″とやらを此処へ連れてこい。
その翼人の女は此処へ置いていけ。
さすれば褒美に数日は殺さんでおいてやる。
家族と別れの挨拶でも済ませてくるがよい』
どう考えても、頼み方がおかしい狼は、宙に浮いたままぐるりと背を向けて空中に寝そべってしまった。
『待っとるでな』
「き、貴様ぁ! 殺してやる!」
真っ赤な顔をして激昂したアザーゼルは剣を振りかざすと、狼に向かって突進して行った。
私は、勢いに首が千切れそうになるのを堪えた。
『――阿呆が』
――巨大な狼は、振り返り様にその大きな上顎と下顎を、まるで天と地を喰らうかの如き顎を、こちらへ向けて開いてみせた――




