魔法使い!
──帰り道は、思っていたよりも早く……とは言え、夕刻時の帰宅で寮長からはこっぴどく叱られた。
でも、今のあたしには馬耳東風。
淡々と仕事を終わらせた後、食事も端的に済ませ、従事者専用の浴場へと、足を運んだ。
メイド服を脱ぎ、下着姿になると洗面所の前の大鏡の前で、ぼーっと自分の姿を見た。
あぁ……何だか今日は物凄く疲れた……
琥白さん、か……綺麗な人だったな……変な人だったけど。
顔も、目しか見れなかったけど、スタイル抜群なのは服の上からでも判る。
あ、あたしだって負けてないわよ……
そりゃロマスタリアの、ボンキュッボンの人達に比べたら月とスッポンだけどさ……
腰を横に突き出して、頭と腰に手をやってみた。
唇を尖らせて、ウインクを一つ。
ほら可愛い……って何してんだろ、あたし。
「何してんのあんた」
「うっぎゃあああああっ!」
アリーシャが浴場の入り口から覗いていた──
──「あんた今日、大丈夫? ボルケーノに怒鳴られっぱなしだったじゃん」
浴槽の中でアリーシャが笑う。
「そうかな……」
「街でイイ男にでも巡り逢ったん? キャーッ」
「そんなんだったらいいけど……って、それはあんたの欲望でしょ!」
……ふと、ユールの笑顔が浮かんだ。
何でよ……まあ、ちょっと将来楽しみな気はするけど……
でもまだまだ、イイ男と言うよりは可愛い男の子よね……
全く、アリーシャが変な事言うから調子狂っちゃうよ……
桶のお湯を頭から被った。
「どうせ、キッカの事でしょ。あんたが一番面倒見てたわけだし、気持ちは解る。けど……元気出しな」
そう言ったアリーシャは、浴槽に頭を沈めた。
わかってんじゃん……相変わらず、照れ隠しが下手ね。
「うん。ありがとう」
「ぷはぁっ! え、何」
「チッ! 何でもないわよ」
――部屋に戻ったあたしは、普段ならば寝間着姿で布団に潜り込む所だけれど、それを脱ぐと再びメイド服に袖を通した。
淡々と仕事をこなしたのには訳がある。
それは、気力体力を温存しておく為。
そう、全てはこの時の為に。
……キッカは、まだ城の中にいる……
琥白さんはハッキリとそう断言したんだ。
あの真っ直ぐな眼を、信じようと思う。
まだ明るいうちに、ボルケーノにどやされながらも、人が隠れそうな場所は一通り捜索した。
――もう、残すは″あの部屋″しかない。
新人メイド達の間で必ず噂になる部屋。
ノーヴァンベルグ城には、私達が近づく事さえ許されていない、禁断の部屋がある。
カーマン伯爵の書斎ではという噂があるけど、実際は定かではない。
その部屋に続く通路には、兵士が常駐していて誰も入れないんだ。
――通称、″開かずの扉″
問題は、どうやってあの部屋に近づくか、だけど……
琥白さん、心配要らないって言ってたけど、どういう事なのかしら……
昼間に彼女から預かった革の袋を、消灯の時間になったら、開けるように指示されていた。
やっぱりこれ、魔法の道具の類いよね……一体何なのかしら……
──消灯の時刻が来た。
あたしはその茶色い革の袋を、恐る恐る開けた。
中には白い布が折り畳まれてあって、広げるとそれは1メートル四方の大きさがあった。
何よこれ…………
白い布には何やら幾何学的な線と円が重なるように描いてあり、所々に文字が書いてある。
何処の国の文字かは解らない。
そして、彼女の目的は解らないけど、確実に理解できる事――
――これは……魔方陣ってやつね!
突然、その白い布から、言い様のない圧力を伴った……静電気にも似た気配を感じた。
「ヒッ!」
思わず布を落としてしまう。
「何なのよ……うわっ!」
魔方陣が緩やかに、布の中で動き始め、同時に光を帯びていく。
これは……きっと、ま、魔法だ!
魔方陣とおぼしき円を縁取る線や直線から、様々な色の光がオーロラの様に空中を舞う。
その余りの美しさに、あたしは暫く息をすることすら忘れていた。
「うゎ……綺麗……」
すると、円の中心から何か黒い影のようなものがモヤモヤと浮かび上がってきて、あたしは恐ろしさのあまり後退りしながら尻餅をついてしまった。
「うわっ! 痛っ!」
その影はやがて人を形作ると、周囲を漂っていた円の光がその人影に向かって急速に収束していった。
そこにいたのは、紛れもなく、昼間に会った人物。
軽く宙に浮いたまま、彼女はあたしを見て微笑んだ。
「やっほー」
「こ、琥白さん……」
凄い……魔法使いって、本当に居たんだ……
軽く手を振りながら、琥白さんは魔方陣から床へ着地すると、その布を丁寧に仕舞った。
「――へぇ、ここが景羅ちゃんの部屋かぁ。とっても素敵」
彼女は部屋を見渡しながら目を輝かせている。
「あ、あ、ありがとう……琥白さん、魔法って……
魔法使いって、本当に居たんだ! あたし、感動しちゃった!」
あたしだけが世界の秘密を見つけた様な、そんな心の高揚が抑えられない!
メチャメチャ嬉しい!
お伽の国の様な世界に良く似合う、魔法という存在。
本当に在ったんだ――
「ウフフ。いるよ。この″世界″では、そんなものは存在しない事になってるけど」
「この、世界?」
彼女は、自身の頭を覆っていた真っ青なシルクのフードを降ろし、口元の布を外して見せた。
「あ……」
……嘘でしょ、そんな……
「琥白、さん、て……」
あたしはこの人の顔を良く知っていた。
肉眼で見るのは初めてだったけど、間違いない。
″あの夢″の、″あの女の人″だ――
「どうしたの? 私の顔、そんな面白い?」
「違っ! 美人過ぎです! 違うの。
あの、こんな事言ったら笑われるかもなんですけど……」
予想以上の美しさである事は間違いないけど、あたしにはそれに対する抵抗力が付いていた。
「笑わないわ。きっと私と、何処かで逢った……かな?」
何で解るの? 凄い!
「そ、そうなんです! あたしの夢に出てくる人にそっくりで!」
琥白さんは艶やかな唇を丸くすぼめながら目を大きくした。
「ほぉ……そっかぁ……
ううん、″今は″キッカちゃんの行方を探す事が先ね。
行きましょ」
「は、はい」
琥白さんは何か言いたげだったけど、それを圧し殺すかのように支度を始めた。
何なのかしら……
「フフーン。これ一度着てみたかったのよねぇ」
「何ですかそれ……って!?」
黒いメイド服…………うちのと同じ形のやつだ!
「着るん、ですよね」
「そうよ? 折角用意したんだもぉん」
この人……楽しんでる……
琥白さんはメイド服に着替えると、メチャメチャはしゃいでみせた。
「キャー、似合う? ねぇ似合う?」
「ええ、似合います、よ……」
こうして部屋を出たあたし達は、まずは中庭に降り、そこから厨房の裏口へと向かった。
昼間に″返し忘れた鍵″を使ってそこから本館に侵入する魂胆だった。のだけれど……。
「ここが厨房の裏口です」
「そうなのね」
ガチャ
「――あ」
「行きましょ」
琥白さんが手をかざすと同時に、裏口の扉は勝手に私達の侵入を許した。
あたしの昼間の苦労が、手かざし一発でおじゃんにされた。
「魔法って…めっちゃ便利ですね…」
「その為の魔法だもの」
こっちを見ることもなくそう言った彼女は、今度は通路につながる扉を同じ様に開けてみせた。
通路を暫く歩くとやがて、あの開かずの間付近。
おかしい。護衛の兵達がいない……
ここに来るまで誰もいないなんて……
「あらあら。さて……ここからは景羅の出番」
急に立ち止まった彼女は、私の背中側に立つと、ポンと背を押した。
「え!? 何で」
「参ったわぁ。どうやら、お相手も気付いてるようね」
「お相手って? それってどういう――」
琥白さんが通りの壁、天井付近を指差した。
「あの紋様。見えるかしら」
「どれ? ……あ、あれのこと?」
壁の格子模様の中に一際目立つ唐草模様みたいなマークが。
そこだけ何か、真新しいペンキで塗られたような艶やかさがあった。
琥白さんの目元に鋭さが宿った。
「あれは犬の血か何かね。ふふっ。やっぱりね……
領主カーマン……これで確定だわ」
「え! まさか、カーマン様が? カーマン様がキッカを拐ったの?」
「これを持って」
琥白さんに手渡されたのは三十センチ程の長さの小さなステッキ。
「これは、何?」
「さあ、来るわよ! 構えて!」
「えーっ!?」
何の説明も無いまま、私達の所から五メートル程先にある開かずの扉が、ゆっくりと、そして恐ろしげな軋みと共に、開き始めた。