前略、道の上にて
――目覚めると、カーキ色の天井が俺を出迎えた。距離にして約60センチ程前。
頭だけを動かして回りを見ると、どうやら車の中にいる事が理解出来た。
俺は運転席のシートを倒して、寝ていた訳だ。
そのままの姿勢で天井を触る。材質は布製の、天井だった。
ふむ……柔らかい
長いこと、この体勢だったのだろうか。腰に痛みを覚えた。
この体勢からだと、ドアが邪魔で青空しか見えない。
窓越しに、大きな白い雲が点々としていた。
このまま寝ていたい気持ちもあった。だが、車内で目覚めると時折起きる、あの焦りが襲ってきた。
どこで寝たのか思い出せないのだ。信号待ちでシートを倒すわけがないし、でもどこの駐車場で寝たのかも、覚えていない。
ようやく俺はシートを戻す気力が湧き、行動に移した。そしてガラス越しに見える光景に、絶句した。
青々とした野菜畑らしき光景が、遥か地平線まで続いていた。
何の野菜かはわからないが、傾斜がかった畑を縫うように、うねった農道が一本。これも遥か地平線の彼方まで伸びていた。
電柱は一本も確認出来ない。
俺はその路肩に停車していた。
「え……えーっ!」
此処は──何処だ──何処なんだ?
普通なら、ああ、ここか、となる場面な筈だ。だが、この風景に全く覚えがない。
外に出てみると、柔らかな風が頬を掠めた。空気が美味い。
何だか地に足が着いていない感覚。
自分の体重が、足の感覚に覚えがない。
再度深呼吸。美味すぎると言えば大袈裟かも知れないが、清んだ青々しい香りだ。
これが旅行の類いならきっと笑顔が溢れるに違いないのだろうが、俺の心に溢れだした感覚は、まさに言い様の無い不安感だった。
何処なんだ? ──外国?
自分の身体を見ると、黒っぽく薄い縦縞の入ったスーツ姿。ずいぶんとよれよれだ。
一見してわかる、安物のスーツ姿。量販店の安売り。
そいつをまさぐってみたが、何も持っていない。
何だ、これ──俺は、俺は──
誰なんだ──
何も思い出せない、俺がいた。
ちょっと、待ってくれ……
不安感は恐怖へと、その感情を変えていった。
俺、は……誰だ……一体……一体何が起きた?
そ、そうか、これは、これは夢なんだ、そうだ、絶対……
パシッ!
頬を強めに叩いた。軽快な音と、痛みが残った。
ちょっと、待ってくれ……
おかしい。こんな光景はおかしいって!
……いや、見たことすら判らない……
頭の中の一部を、根こそぎ持っていかれたような感覚。
自分が誰なのかさえ判らない。再び頬を、今度は手加減なく叩いた。
バシッ! バシッバシッ!
「ってぇ! おー! 顔いてぇ! って何で覚めない!?
夢なら覚めてくれ、夢なら頼むよ……あぁ……て、か、顔ぉ!?」
顔……自分の顔さえ思い出せない。ちょっとクラクラする。
俺は顔を触りながらパニックに陥った。
第三者がこれを見ていたら、完全にコントだ。
慌てて車の中に戻ると、バックミラーを顔に向けた。
そこには見知らぬ黒髪の東洋人が、焦った表情を自分に向けている。
肌艶でしか判断出来ないが、歳は二十代後半、か、三十代半ば……
「あ、あは、アハ…お……お、お前は……誰だ」
ゲシュタルト崩壊よろしく、俺は自分に問い掛けてしまっていた。
鏡の中の男も同様に、俺に問い掛けているように見えた。
俺は暫く、ひきつった笑顔を見せるミラーの中のそいつと、見つめ合った。
「う……うぁ、うわあぁぁぁぁっ!」
俺は車内を捜索した。
パニックになりながら、涙が溢れてきた。
それはまるで、スラム街でちょっと目を離した隙に子供とはぐれてしまった親の様な気分だ。
いや、子供いたのかも解らない。
落ち着けぇ俺……落ち着けぇ……落ち着け、落ち着け落ち着け落ち着け!
「何で何も持ってねえんだよ!」
座席を思いっきりぶん殴った。
残ったのは拳の痛みだけだった。シートに擦れて軽いやけど。
こんな事ってあるのか……
自分が何者なのかを、涙目になりながらも必死で知る手掛かりを探す。探す。探す……
恐怖心を埋める方法は、今の俺には、情報しかない。
なにかしら見つかれば、何か思い出すかもしれない。諦めちゃダメだ……
ドアポケットから肘掛けの小物入れ、サンバイザーに何か挟まっていないか……そうだ、車検証!
助手席の前の小物入れにあるんだ、そんなもんはよぉ……
あった!
「ひゃっほぅ!」
一発目でここを引き当てられない自分を呪いつつも、俺は狂喜の声を上げながらそいつを閲覧した。
使用者名やら住所が乗っているはず。
はず……
「……なん、だ、これ……」
自分に嘘はつけない。
読めない……
俺は自分の頭を疑った。
意味が頭に入ってこない。
――何だろう、これは。
子供が描いたような前衛的な絵画を見せられ何か感想をと、問われているような気分だ――
見たことの無い漢字のような文字や、平仮名を逆さに書いたような文字。
所々に片仮名みたいな記号が入ってくる、不思議な文章。
「うそ……だろ?」
俺の知っている日本語、とは全くかけ離れた文字が羅列している書類を眺めながら、逆さにしてみたり、斜めにしてみたり、太陽に透かしてみたりした。
そう、俺は日本人。そうだよ日本人だよ! 日本人は日本語を読み書きするんだよ……ダメだ、読めない。
膝の力が抜けていく。
信じて取った行動は、逆効果だった。
……いや。いやいや、まだだ! まだ全部、終わっちゃいない!
車を降りて、リアハッチに手を掛けた。