ため息が消える日
喫煙所の人々と、煙の行方を眺めていたら、冒頭の言葉を思いつきました。
「喫煙所ってさ、世界で一番ため息が集まる場所だね」
そう言って、かちり、とライターを鳴らした彼女は、立ち上る煙に少しだけ顔をしかめ、泣いたような顔で笑った。
私がタバコを吸い始めたのはいつの事だったろうか。尊敬していた先輩を真似ての事だったような気もするし、付き合っていった女性と別れて自棄になっての事だった気もする。いずれにせよ、たばこを吸う、という行為には、彼女の言うような意味があるとは考えもしなかった。
「柴田さんは、いつからたばこを吸ってるの?」
ふと、彼女に疑問をぶつけてみる。
「覚えてないなぁ。会社に入ったばかりの頃、憧れだったひとが吸ってて、近づきたくて、だったかなぁ」
彼女はもうしかめ面ではなかったが、まだ、泣きそうな顔に見えた。
「ふーん。俺も似たようなもんだなぁ、覚えてないや」
「それじゃなんで聞いたのよ。村上くんが覚えてないんじゃ、意味ないじゃない」
「別に、そんなに大した意味はないよ。柴田さんが変なこと言うもんだから、なにか話したいのかな、と思ってさ。」
彼女と私は、喫煙所でたまに会えば話す程度の仲だ、と自分では認識していた。それ以上でも以下でもない。そう思っていただけに、彼女に対してプライベートに踏み込もうとしている、とも言える言葉を投げかけたことに、私自身驚いていた。
それは彼女も同じだったようで、怪訝な顔をした後にくすり、と笑った。
「今日の村上くん、何かヘン……。ま、いいかちょっとだけ聞いてよ、ため息仲間同士、さ」
私は何も言わず、1口、大きく煙を吸った。彼女はそれを肯定、と受け取ったようだ。
「よくある話だから、つまんないよ。」
そう前置きして、彼女は語りだした。
彼女の人生は、私の目からみても、おそらく彼女を知る殆どの人の目からみても、順調で良い人生である、と映っていた。彼女自身も、そのように考えていたらしい。
「高校受験は失敗しちゃったけど、その分、勉強して、行きたい大学にだって行けたし、今の会社も、嫌いじゃないしね。でもさ」
それが不安なのだ、という彼女の心は、彼女の吐き出す、長く細い煙が物語っていた。
自分のやりたいことをその時々で見つめなおし、実現してきたつもりでも、それが本当に自分の行きたい道だったのか、ふと考えると、ぽっかりと確信が抜け落ちていることに気がついた、と彼女は続けた。
「自分のやりたいことが本当にわかってる人なんて、ほんの一握りだと思うけど」
「私もそう思うよ。だからと言って、放ってはおけないんだよね」
皆が羨み、皆が望むようなほど、輝かしい人生でもない。
皆が蔑み、皆が避けようとするほど、惨めな人生でもない。
「じゃあその皆って、誰のことなんだろうね。そんなこと考えてここにいたら、みーんな深いため息ついて出て行くように見えちゃった」
再びかちり、とライターを鳴らした彼女は、やはり泣きそうな顔だった。
「確かに、柴田さんの言うとおり、ここに来る人は辛気くさい顔が多い」
すでに何本目か、数えもしていないが、火をつけながら笑った。
「村上くん、私の話、ちゃんと聞いてたの?私が言いたいのはそこじゃないんだって」
「聞いてたよ。俺は柴田さんの言うような不安を感じたことないけど、ここにため息が集まってる、っていうのはわかるような気がする」
煙を吐き出す行為は、まさにため息そのものと言えるし、たばこを吸う、という行為はため息を吐くための口実にすら思えてきた。
しばし、私も彼女も、黙ってたばこを吸っていた。
私は次に言う言葉を探していたからだが、彼女は恐らく、ひとしきり話して満足したのだろう。
たばこがじり、と焦げる音すら聞こえてきそうな沈黙の後、ふと、私は思いついた言葉を口にしてみた。
「皆、って、どうせここに来て、ため息をついていくような、辛気臭い顔のやつらだよ。だから、柴田さんが気にするほどの連中じゃないさ」
「……やっぱり、今日の村上くん、ヘンだよ。励ますようなこと言っちゃってさ」
彼女にとって、私の返答は意外だったようだ。毒気と一緒に間も抜けてしまったようで、到底、泣きそうな顔には見えなくなっていた。
「じゃ、私、行くね、ありがと」
少しだけ、彼女自身の吐いた煙を巻き込みながら、彼女は出て行った。
静かになった部屋で私は彼女の言葉を反芻する。
ヘンだと言われようとも、今日の私は、そういう気分になったのだ。
彼女がため息をつきにここに来てほしくないような、そういう気分に、なったのだ。
「もう、ため息なんかつきにきちゃいけないよ」
ぼそりとつぶやき、いつの間にか短くなっていたたばこを、灰皿に放り込む。
私のひとりごとに、灰皿がじゅう、と答えた。
(了)
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