三章「噂」
「あっ、ラチェリナさん。こんな所にいらっしゃったのですか」
訓練を終えて、ハレムの庭で考え事をしていたラチェリナに声をかけたのは寵姫のマニシェだった。目に鮮やかな金髪を頭の両脇で二つに束ね、うっすらと透けた扇情的なドレスに身を包んだ姿は、その童顔とも相まって人形のように愛らしい。
庭園に設えた白塗りの椅子に腰掛けていたラチェリナは、足を組んで両手で頭を支える姿勢のまま、駆け寄るマニシェを見上げた。
「んー。マニシェは今日も可愛いね」
ラチェリナに褒められて、嬉しさを噛み締めるような表情で頬を染める。
後宮衛士とは距離を置いて接する寵姫が多い中、マニシェは例外といえた。誰に対しても、にこやかに分け隔てなく話しかけるマニシェは衛士達の中でも評判がいい。寵姫の立場を鼻にかける事もなく、無邪気にまとわりついてくる彼女は皆からマスコット的な扱いを受けていた。
「ここ、よろしいですか?」
ラチェリナが腰掛けている椅子からテーブルを挟んで反対側にある椅子を指す。ラチェリナが頷くと、ドレスのお尻を押さえながらふわりと椅子に腰を下ろした。つま先を上品にそろえた座り方は淑女のようでもあるが、腿の両脇に手をついてかすかに乗り出した姿勢は幼さも感じさせる。そういった仕草一つにも、洗練された気品とあどけない可憐さが同居しており、計算なのか天然なのかよくわからない魅力にラチェリナも感心する。
「もう訓練は終わったのですか?」
「んー。まあね」
「お勤め、ごくろうさまです」
気の無い返事をするラチェリナにも、にこやかな満面の笑みを崩さずにぺこりと頭を下げた。
本当は一人で教官との模擬戦を脳内シミュレートしていたかったのだが、屈託のないマニシェを見ていると少しくらい話をするのも悪くないと思えてくる。
「ねえねえ、ラチェリナさんは、地下墳墓の噂をご存知ですか?」
「地下墳墓? さあ、知らないな」
「そう! 寵姫達の間ではけっこう噂になってるんですよ! ハレムの地下に広がる、巨大なお墓の話!」
寵姫達の例にもれず、マニシェも噂好きだった。閉鎖された環境で過ごす寵姫達は話題の種も限られてくる。そのほとんどがハレムで働く女官達の仕入れてくるゴシップだったり、出身地にまつわる話だったり、空想の産物だったりした。その中には、後宮衛士の誰々が素敵、もし彼女達が男の人だったら――といった類の話も含まれる。皇子の話はタブーだ。いつどこで誰の嫉妬を買うかわからないため、皆一様にその話題は避けていた。後宮衛士に憧れるのも、そういった空気を紛らわすためなのかもしれない。
彼女らが好む話題は特に、恋愛話と、ホラーじみた話が多かった。寵姫達が額をつきあわせてひそやかに怪談に興じている光景を、ラチェリナも何度か見た事がある。マニシェが話そうとしているのも、そういった怪談の類だと思われた。
「この場所って、ハレムが作られる前は皇族のお墓だったらしいんですよ。帝国の始祖が作った習わしで、皇族が死ぬたびに何千人もの生贄が捧げられたとか。他にも、帝国の始祖って人は不老の術の持ち主で、それを維持するために生贄を捧げていたとか」
マニシェは雰囲気作りのために精一杯低い声を出そうとしているのだが、元々が高くて可愛らしい声のため、あまり怖くならない。
「ええ~? なんでそんな場所にハレムを作ったのさ。お墓の上でエロい事してたら罰当りじゃないか?」
「それは……わかりません。たぶん、賑やかで楽しそうだから、お墓で眠る霊のひと達も慰められると考えられたんじゃないかと、マニシェは思います」
顔を赤らめながら、舌足らずにつっかえつっかえ持論を述べるマニシェをあまり困らせるのもかわいそうだと思い、先を促す。
「ふーん。それで?」
「でね! 噂なんですけど、用済みになった寵姫は、生贄として地下墳墓送りにされるらしいんですよ! 思い起こしてみれば、何も言わずに突然いなくなる寵姫が時々いるんです。あの娘達は、今頃地下で……きゃあっ!」
地下で行なわれる凄惨な生贄風景でも想像してしまったのか、マニシェは顔を両手で覆って、子どもがイヤイヤをするように頭を振る。
「でもさ、粗相をした寵姫や皇子に気に入られなかった寵姫は、故郷に送り返されるんでしょ? やっぱ寵姫としては、自分がハレムから脱落する事を元仲間に言うのはイヤなんじゃない? だから黙っていなくなるんだと思うけど」
「そ、そうでしょうか。でも、お部屋の荷物もそのままなんですよ。皆、いなくなった寵姫の事にはあまり触れないようにしていらっしゃいますけど……もしかしたら、マニシェもいつか生贄にされてしまうかも!」
「マニシェは人気者だから大丈夫だよ」
ラチェリナは気軽に言うが、人形のように整ったマニシェの表情に翳りが差す。
「いなくなった寵姫の中には、皆からも好かれて皇子にも気に入られていた娘もいるんですよ。もしかしたら、誰かの嫉妬を買って、地下送りにされたのかも……」
「もしそうだとしたら、誰がそれを実行してるんだ? あのバカ皇子がそんな事をしているとは思えないし。それ以外で、ハレムで権力を持ってそうな人間も思い当たらないけどなあ」
マニシェは周囲の様子を窺うように見回し、声を潜めて囁いた。
「これは、ここだけの話にしておいてくださいね。実は……後宮衛士の中に、生贄を地下に連れて行く係の人がいるらしいって……あくまで噂です。ごく一部の人間にのみ、地下墳墓の話が伝えられているって。友達が友達から聞いた話なので、真偽のほどは定かではないですけど」
「まさか、そんな事してる奴がいるようには思えないけど……」
仲間の衛士達の顔を思い起こしてみる。どれも、そんな後ろ暗い事に関わっているようには……一瞬、カシナの顔がちらつく。だがすぐに思いなおして嫌な想像を振り払った。これはあくまで寵姫達が戯れに行なう与太話だ。日常にちょっとしたスパイスを与える作り話だ。いつのまにか本気にしかけていた自分の愚直さに呆れ、ラチェリナは苦笑した。
「もしマニシェが生贄にされそうになったら、あたしに言いなよ。守ってあげる」
その言葉で、マニシェの表情がぱあっと明るくなる。
「本当ですか! うれしいですっ。私、すっごく怖かったんです。ラチェリナさん、すごく頼りになりますぅ! ラチェリナさんに憧れている娘達に自慢しちゃおっと!」
頬を赤らめてにこにこしているマニシェを微笑ましく見守るラチェリナだったが、近づいてくる足音に気付いて首を巡らせた。足音は複数だ。
見ると、寵姫の一団がこちらに近づいてくる。そのうちの一人はラチェリナも顔を覚えていた。ルキエだ。ウェーブがかったブラウンの髪を後ろで束ね、頬に垂らした一筋の髪は綺麗に螺旋を描いている。右目を軽く覆う髪はゆったりと首筋へと流れる。左右非対称の複雑な髪型は、かなりの時間を手入れに費やしている事を窺わせる。
ルキエは寵姫達の中でも特に皇子に気に入られており、警護の際に目にする機会も多い。が、皇子の前では甘えまくるが他の女には居丈高に振舞うこの少女の事が、ラチェリナはやや苦手だった。
「ご機嫌麗しゅう。マニシェ、こんな所で何をなさっていて?」
通りすがりざまマニシェを見下ろす目にも親愛の情は浮かばない。二人の寵姫と連れ立っているが、同じ立場であるにもかかわらず彼女らは付き従う侍従のように見えた。
「あ、私はラチェリナさんと……」
「あら、こちらは衛士の方でしたっけ? 寵姫と差し向かいで何をお話されていたのかしら。でも……少々馴れ馴れしいのでは? あなた、ご自分の立場をおわかり? 衛士はあくまで護衛が任務。寵姫とは一線を引いて接するべきでは?」
マニシェの言葉を遮り、目線だけをラチェリナに向ける。取り巻きの女達は同調するように頷き、顔を見合わせてくすくすと笑っている。
――さっそく来たか。ラチェリナは内心で溜息をついた。
おそらく、皇子がラチェリナに言った一言――僕の妻に――の一件が原因だろう。偶然通りかかった風を装ってはいるが、おそらくラチェリナを狙いすまして嫌味の一つでも言いにわざわざやってきたに違いない。ルキエはそういう類の女だった。三人で連れ立ってやって来たのも、ラチェリナとマニシェに対し数的優位を確保するためだ。おそらく、ここにカシナでも居て、こちらの人数が三人であればそれを上回る四人でやって来たはずだ。その辺りは非常に抜け目なく、面倒くさいくらいに周到なタイプなのだ。目立つ新参などが、今と同じように多人数で囲まれてチクチクと目立たぬよう釘を刺されている所を何度か見た事があった。
「あ……違うんです。私の方からラチェリナさんに話しかけて……」
マニシェが健気にフォローしようとするがそちらは見ようともしない。
「皇子が何か戯れをおっしゃっていたようですが、まさか真に受けてなどいませんわよね? さすがにそこまではね。世の中には身分相応という言葉が――」
ルキエが言い終わる前に、ラチェリナは椅子を鳴らして無造作に立ち上がった。驚いて目を見張るルキエ。立てかけていた木剣を軽く握ったラチェリナが、何の前触れもなくそれを振り下ろす。
「えっ……!」
ルキエは何が起きたか理解できない表情で立ちすくむ。が、ドレスの胸元を留めるリボンがはらりとほどけ、豊かな胸が大きく露になると、青ざめた顔でへなへなと後退さった。どうやら木剣で切りつけられ、紙一重でリボンだけを切り落とされたと気付いたようだ。
「き、き……!」
悲鳴を上げるべきか怒鳴るべきか逡巡するように声を震わせる。が、どうやら悲鳴を上げる事に決めたらしい。
「きゃあああああ! ああああ! あああ!」
本当に怖かったのだろう、身体がすくんで悲鳴が長続きせず途切れ途切れになる。さすがのラチェリナもちょっとやりすぎたかなーと思い始めていた。やってから後悔するのだ、いつも。
「な、なんてことを、なんてことを……!」
ルキエは目に涙を浮かべながらも気丈にラチェリナを睨みつけ、くるっと踵を返すと、ドレスの裾を掴んで大股に歩き去っていった。取り巻き達がおろおろと後を追う。
マニシェが困ったように見上げている。
「ラチェリナさん……ちょっとやりすぎですよ……」
「いやあ、なんか面倒くさくなっちゃってさ」
頭をかきながらルキエ達の後姿を見守る。普段の彼女達からは想像できない荒々しい歩き方でずんずんと遠ざかっていくのが見えた。
「へっ。寵姫達の流儀が衛士にまで通用すると思うなよ」
そううそぶいて不敵に笑ってみせると、殊更乱暴に椅子に腰を落とした。やはり粗暴な自分には言葉を弄するよりもこれを振り回しているほうが性に合っている――と、手にした木剣の感触を頼もしく思う。
「もう。しょうがない人ですね。そんな男の子みたいな振る舞いをしていたら、せっかくの綺麗な顔が台無しですよ」
マニシェはくすっと微笑むと、立ち上がってポケットから櫛を取り出した。跳ねるような動作でラチェリナの背後にまわり、優しく髪をすくう。ラチェリナは憮然とした表情だったが、されるがままにしている。
「そりゃ、あたしだってちょっとは悪い事したかなーって思うけどさ……」
「あの人にはいい薬ですよ」
肩の辺りまであるラチェリナの髪を櫛でゆっくりと梳る。そうしていると仲睦まじい姉妹のようだった。ラチェリナの前髪を束ねている紐を軽くつまむ。
「ラチェリナさん、前髪下ろした方が可愛いと思いますよ」
「ええ? いいよ、剣を振り回してると前髪が目にかかって気になるし」
「もったいないです。もっと綺麗になれる素質あるのに。ほらっ」
マニシェが手鏡を出してラチェリナを映した。ぶすっとした表情の自分と目が合う。
くすくす笑いながら髪を梳くマニシェの手つきを心地よく感じながらも、照れたような困ったような顔になった。剣の腕を褒められるのは大歓迎だったが、こういうのはなんとなく……困る。むずむずする。
「ルキエさんの言った事、気にすることないですよ」
それほど気にしていないつもりだったが、今はマニシェの気遣いが少し嬉しい。
嫌な事があっても、剣を振り回して眠ればたいがいの事は忘れるラチェリナだったが、今日は色々な事がありすぎた。
皇子に言われた事。教官に言われた事。ルキエに言われた事……
それらを噛み締めるように、ラチェリナはそっと目を閉じた。
そして、それから幾日と経たないうちに、マニシェの言葉を思い出す事になる。




