二章「模擬戦」
2.
「いやあ、まいったよ」
ラチェリナは額を流れる汗に顔をしかめながらぼやいた。
陽は中天を過ぎ、やや斜め上から訓練場の乾燥した土を照らす。ハレムを囲う壁の外側に、衛士達の訓練場があった。住民の視線を遮るように巡らせた垣根に囲まれ、柔らかい土を敷き詰めたそこで、百人前後の衛士が日課の訓練に励んでいる。
軽い模擬戦で汗を流したラチェリナは、訓練の輪から外れて休憩中だった。
もちろん大浴場の中と違って衣服を身につけている。胸元だけを覆った上衣。裾のふくらんだ柔らかい生地のパンタロンはうっすらと地肌が透けており、その上にオーバースカートを垂らしてサッシュで留めている。足元は金糸のサンダル。前髪は真ん中辺りで結んで、小さい房がちょろんと跳ねている。
一見すると踊り子のようにも見えるが、動きやすいのでラチェリナはこの格好を好んでいた。
隣に立つカシナは、長袖の白いローブに腰周りを黒い帯で締め、頭に白い頭布を巻いた姿で、ラチェリナと対照的に極端に露出が少ない。背中に垂らした一条のお下げが無ければ、遠目には男と見間違えるかもしれない。
「バカ皇子が変な事言い出した時はどうなるかと思った」
「あれだけの事をしておいてお咎めなしで済んだだけで奇跡と思いなさい」
彼女達が話しているのは、言うまでも無く大浴場での一件についてである。
ラチェリナを妻に、と言い出した時は、顔面を蹴られたショックで皇子が錯乱したのかと思われたが、どうやら本気らしいとわかってさらに現場は混乱した。
結局、寵姫達やカシナが猛反対する中で、皇子の鼻血が再び噴出し、医務室に運ばれるという形でうやむやの内に解散の運びとなったのだが、ラチェリナにも周囲の衛士達にも未だに混乱の余韻が糸を引いている。
「皇子の妻って事はお后様だよな。寵姫を飛び越えてそんな立場になれるものなの?」
「本来なら、皇子の子を身ごもった寵姫が夫人となり、夫人が複数いた場合はその中から誰か一人が皇子の意思により后に選ばれる。だが寵姫以外の女が皇子の子を宿して夫人になった例は過去にもある。それに、今の皇子、つまりアルヒンドラ殿下の子を成した寵姫はまだいないから、あなたと皇子がそういう関係になって子を成そうものなら、夫人の位を飛ばして一気に后に選ばれる可能性も無くはない」
「ふーん。玉の輿はおいしいけど、あのバカ皇子とそんな関係になるのはイヤだなあ」
「なにを贅沢な事を……宮女も含めれば二百人近い女がその立場を欲しているというのに」
ハレムに入れるのは、各地区で器量を認められた女達のみだ。彼女らにしてみればハレムに入って寵姫になるという事は最高のステータスであり、国内でトップクラスの美女と認められた証であり、憧れの職業だった。貴族並みの贅沢が約束されており、仕送りで親に楽をさせてやる事も出来る。ハレムは女性にとっての最高学府でもあり、音楽や芸術、詩などの英才教育を受ける事も出来、特別な上流階級のみが招かれるサロンに出席できるようになれば、彼等から莫大な金銭的支援を受ける事もある。しかも、身分や貧富に関係なく、皇子に気に入られさえすれば貴族並みの待遇が受けられるのだから、貧しい家庭に生まれた者にとっては破格の大出世だ。
それらの事から、特に無理やり徴集しなくても、常にハレム入り希望者は大勢おり、その中のごく一部が厳しい審査をクリアして晴れてハレム入りとなる。それだけの難関をくぐりぬけて選ばれているだけあり、寵姫達の矜持の高さたるや相当なものだ。彼女らを差し置いて衛士が妻、つまり后になどという事になれば、おそらく平穏には済むまい。
「まあ、皇子がおかしな事を言い出すのは今に始まった事でもない。気まぐれな方だ。しばらくすればけろっと忘れて平素の状態に戻るだろう。あなたは、ほとぼりが冷めるまでは皇子の身辺警護からは外れてもらったほうがよさそうね」
強い日差しの下でも汗ひとつかかず、涼しげな表情でカシナは告げた。
衛士も寵姫に劣らず狭き門だ。その中でも、後宮衛士に選ばれるのはさらにごく少数。皇子直属の女性衛士はおよそ百人前後に及ぶが、その中で後宮衛士になれるのは三分の一以下。それがさらに五つの班に分けられ、一つの班につき一人が班長に任命される。班長を拝命しているカシナは後宮衛士達の中でもさらにトップエリートといえる。苦労してこの地位まで上りつめたカシナにとっては、ラチェリナの一件が不問に処されてほっと一安心といった所だろうか。
「うーん、でもお后様も悪くないかも。とりあえず皇子はどこかすみっこにでも置いといて。新しいハレムを建設させるんだよ。美少年美青年を国中から集めた、逆ハレムを! いい男どもをかしずかせて、一日中遊んで暮らすの。うん、いいかもしれない」
「あなた、皇子と同レベルじゃないの……」
楽しげな夢想に顔をにやつかせていたラチェリナだがカシナの言葉で我に返り唇を尖らせる。
「なんだよ、いいじゃん。あんたはどうなのさ? 将来の目標とか夢とかあるの?」
「……私は今の仕事をつつがなく全うするだけだ」
「つまんねーの。でもそんな事を言ってる奴に限って変態的な願望を持ってたりするんだよな。
美少年を宮殿に敷き詰めて上でゴロゴロしたいとか、そういう隠れた願望を正直に言いなよ」
「そんな願望など持っていない! あなたと一緒にしないで!」
「ふーん? ま、いいや。そんな事より、手合わせしないか? 他の奴らじゃ物足りなくてさ」
休憩もそこそこに、ラチェリナは腰の木剣を構えてやる気まんまんだ。先ほどまでぶっ続けで他の衛士達と模擬戦を行っていたのだが、まったく疲れた様子もない。
「ラチェリナは本当に、身体を動かしている時だけは活き活きしているな。警護の時もそれくらい熱心にやってくれればいいのだけど……」
「剣を振り回す時だけが楽しみで衛士やってるんだよ。スカッとするじゃん」
「勝てれば、でしょ? 負けた時は不機嫌になるくせに」
「ほとんど勝ってるんだからトータルで見れば楽しいですぅーだ。カシナにだって勝ち越してるしさ」
木剣を肩にかついでストレッチをしながら、ラチェリナが舌を出して挑発する。しかしカシナは慣れたもので、顔色ひとつ変えずに涼しげに受け流した。
「私とラチェリナの戦績は百二十勝、百五敗、七十二引き分けだ。私の方が勝ち越している」
「あたしは負けてない! いつもこれから逆転ってところで止めが入るだけだ!」
「止めが入っているおかげで命拾いしているんでしょ」
「前回だって、あんたの胸があと少し大きかったら当っていた!」
ラチェリナはむきになって噛み付くが、カシナの表情は変らない。冷静に柄の具合を確かめ、足場を確認している。
「私の胸があと少し大きければそれを見越してかわしている……。やれやれ、ラチェリナの負けず嫌いに付き合っていたら日が暮れる。やるなら早々にやりましょう」
カシナはそう言うと無駄のない洗練された動作で木剣の柄に手をかけ、半身になってラチェリナに向き直った。表情はまるで変わらないが、うかつに動けば次の瞬間には切って落とされそうな鋭い緊張感を感じ取り、ラチェリナは無駄口を止めて同じように柄に手をかけた。
ラチェリナとカシナが模擬戦を始めそうだと察した周囲の衛士が、訓練の手を止めて視線を寄越す。班長格のカシナは言うに及ばず、ラチェリナも衛士達の中ではトップクラスの実力を持っている。素行に問題ありという事で班長に選ばれる事はなかったが、剣の扱いだけを見れば班長格に勝るとも劣らない。実力者二人の対戦とあって、衛士達も興味深げに見守っている。
柄に手をかけて腰を落としたまま身じろぎもしないカシナに対し、ラチェリナは音もなくゆっくりと鞘から木剣を引き抜き、すり足で間合いを取る。
頭布の下でカシナの冷静な視線がラチェリナの一挙手一投足を追う。ラチェリナはタイミングを計りながら剣先を揺らす。他の衛士達のように勢いまかせで勝てる相手ではない事はよく心得ていた。最初の一手を間違えれば即、敗北につながる。軽く曲げた膝はいつでも踏み込めるように力を溜め、上半身はやや前傾して攻撃的な構えを取る。ラチェリナが獲物に飛び掛る寸前の獣だとすれば、カシナは弓を引き絞った狩人を思わせた。うかつに踏み込めばすぐさま抜刀術の一閃で撃ち落とされる。
乾燥した土が風に舞って視界を黄色く染める。じりじりと肌を焼く日差しに汗が光る。
果てしなく続くかと思われた睨み合いを先に破ったのはラチェリナだった。
ほとんど予備動作もないまま一息に踏み込む。猛然と襲い掛かるラチェリナをすかさず抜刀の一撃が迎え撃った。だが幾度もの手合わせで抜刀の軌道はすでに知り尽くしている。剣を縦にして防ぎ、刃を滑らせるようにして力任せに横薙ぎに振りぬく。木剣といえど首を跳ね飛ばしかねない程の一撃をカシナは身を屈めてかわし、踏み出したラチェリナの足を薙ぎ払うべく剣を一閃させる。が、ラチェリナは足を上げてそれをやりすごし、体勢を崩しながらも強引に身体を捻って片手で剣を操りカシナの頭上に撃ち落とす。カシナが剣を上げてそれを防ぎ、木剣同士がぶつかりあう乾いた音が響く。
瞬間の攻防に息をつく暇もなく、剣を合わせて鍔迫り合いに。と思うやいなや、ラチェリナがカシナの左足に右足をかけ、体当たり気味に押し倒した。
「ぐっ!」
さしものカシナも、土の上に背中から倒れこんで息を詰まらせた。その上に馬乗りになったラチェリナが勝ち誇った顔を向ける。
「わはは! あたしの勝ちだな!」
「ふざけるな!」
隙を見て足を引き抜いたカシナが、ラチェリナの腹を蹴り飛ばす。吹っ飛んだラチェリナとカシナが立ち上がるのはほぼ同時だった。蹴りたてた土埃を挟んでにらみ合う。
「なんだよ! もう勝負はついただろ!」
「冗談じゃない。なんだあの戦い方は。尋常な勝負で足をひっかけるなど邪道だ!」
「真剣勝負に邪道も何も無い! 油断したあんたが悪いんじゃん!」
お互いに罵りあい、今にも飛び掛らんとするが――
二人の動きが止まる。制止したのは落ち着いた男の声だった。
「待った。今日のところはここまでだ」
相手から目を逸らすまいとしていた二人だったが、やがてしぶしぶ剣を収め、声の主に向き直る。先に冷静さを取り戻したのはやはり、カシナだった。
「教官……お見苦しい所をお見せして、すみません……」
男に向かって頭を下げる。男は鷹揚に軽く頷いて見せた。歴戦の勇士を思わせる風体の男である。特に目を引くのが右目を覆った眼帯と、左手に持った杖。左足は義足だった。戦場で負った名誉の負傷により退役し、衛士達の教官を務めているのだ。
教官――ランダスターンは、二人の様子を見回して呆れたように言った。
「お前らの模擬戦は本気で殺し合いに発展しそうだな。優秀な衛士を訓練で失うわけにはいかないんだ。加減を覚えてくれよ」
腹に響く重いバリトンの声。口元を覆う黒髭はあまり手入れされておらず、黒い眼帯と相まって一見すると粗野な印象を受けるが、残った方の目には穏やかな微笑の光が浮かび生徒を見守る視線は優しげだ。よく陽に焼けたひきしまった顔立ちで、傷だらけの全身とともに、使いこまれた刃のような雰囲気を纏っている。が、それは野盗の手に握られたむき出しの刃ではなく、熟練の戦士の鞘に収められ理性的に管理された刃だ。
「あたしが勝ったのにこいつがいちゃもんつけるんですよ!」
ラチェリナは憮然とした表情のままカシナを指差す。カシナは冷ややかな視線のみでそれに応える。ランダスターンは困ったように笑った。
「仕方のない奴だ。それだけ元気が余っているなら、俺が相手してやろう。剣を貸してみろ」
カシナへと手を伸ばし木剣を要求する。カシナは黙って剣を差し出すが、ラチェリナは困惑気味だ。
「え、でも。いいんですか教官」
アドバイスを受ける事はあっても教官と剣を交えるのは初めてだった。足の怪我もあって、もう教官が剣を振る事は無いのだろうと思い込んでいたラチェリナは、本気で打ち込んでもいいのか心配したのだが……。
「なんだ。俺が相手では不足か? 退役したとはいえお前等に遅れを取るほど落ちぶれちゃいないぞ。余計な気は遣わなくていい。全力で打ってこい」
不敵に笑って片手で剣を構える。左手は杖を握ったままだ。
多少の遠慮を感じていたラチェリナだったが、教官の無造作ながらも隙のない構えを見て、一瞬で気持ちが切り替わった。思いっきり暴れる事ができそうな予感に身体が疼きはじめる。
「じゃあ、遠慮なく」
木剣を両手で握り、腰を落として飛び掛るタイミングを計る。好戦的な期待にぎらつく視線は見る者が息を飲むほど集中して研ぎ澄まされている。
一方、ランダスターンの方はカシナとはまた違った威圧感を見せていた。一見すると自然体でリラックスしているようだが、うかつに動く事を躊躇させるような凄みを感じさせる。落ち着き払った静かな呼吸が、緊張して昂ぶった己の呼吸を乱すかのように、ラチェリナには感じられた。
だがいつまでも躊躇しているラチェリナではなかった。
思い切りよく踏み込み、最短で突きを繰り出す。まさに電光石火――と思われた一撃があえなく剣尖でそらされた。
「ッ!?」
予想外のてごたえの無さに一瞬だけ反応が遅れた。ノーモーションの小手打ちがラチェリナの手首を叩く。明らかに手加減されているとはいえ、骨の芯に衝撃が突き抜け、剣を取り落としそうになった。痛みに顔をしかめながらも剣を立てて第二撃に備える。続く教官の打ち込みはどれも教科書どおりのもので、いかにも防いでみろと言わんばかりだったが、片手とは思えない重さでラチェリナは防戦一方になる。思わず飛び退いて距離を取った。
「どうした。攻撃がおろそかになっているぞ」
教官は杖をついて無造作に距離をつめてくる。ラチェリナは悔しさに歯噛みするがうかつに攻めても当る気がしない。反撃を警戒した中途半端な攻撃を繰り返すがあえなくいなされ、結局防戦一方になってしまう。じりじりと後退しながらかろうじて防ぎ続けるものの、成す術なく、再び距離を取る。息一つ乱していない教官に対してラチェリナはすでに肩で息をしていた。
「よし、ここまで」
「えっ……ちょっと待って下さい! まだ……まだやれます」
思い通りに動けない不甲斐なさにいささか気落ちしながらも、ラチェリナは気丈に食い下がった。だが教官は静かに首を横に振る。
「これ以上は無意味だ。いいか、お前には欠点が三つある」
ランダスターンは言いながら木剣をカシナに放って返した。不完全燃焼のまま終わったラチェリナは憮然とした表情のままだ。
「まず一つ目。お前は攻撃に集中するあまり、防御の意識が雑になっている時がある。気分よく攻めている時は自然と攻防が一体となっているが、その流れが狂うと守るべきところで反応が鈍っているんだ」
心当たりはあった。最初の突きがそらされた時、相手の反撃が予想されたにもかかわらず反応が遅れてしまった事は自覚している。教官の反撃が予想以上に早かったとはいえ、防げないほどではなかったはずだ。
「そして二つ目。一度防御に転じると攻撃のタイミングを逃してしまう切り替えの悪さ。同格以下の相手なら防戦一方になる事が無いからよかったが、格上が相手だと防御から隙を見て攻撃に転じなければ勝てないぞ。今だって、攻める隙はあったはずだ」
「ううう……」
言われてみれば、一度防御に回ってからは攻撃が中途半端になってしまっていた事も自覚している。だが今は悔しくて素直に認める事ができそうになかった。剣の柄を両手で握ってしょんぼりとうなだれる。
「……三つ目。不利になると自棄になって集中が切れる。もう、どうせ勝てないと思ったんじゃないか?」
図星だった。表面上はともかく、内心では勝つ事は諦め、その場しのぎで距離をとって逃げていた。矢継ぎ早に欠点を指摘され、ラチェリナは落ち込んだ。それなりに自信があっただけに尚更だ。
「な、なんだよ……そんなにいっぺんに言わなくてもいいじゃないか……」
うなだれるラチェリナを見て、ランダスターンは表情を和らげた。
「ま、そんなに落ち込む事はない。荒いが剣筋は悪くない。それにお前は良い身体をしている」
ラチェリナはぶすっとした表情のまま、教官を見上げる。
「……なんか、エロいです」
「あ、いや、そういう意味じゃなくてだな。身体能力の事だよ。お前の運動神経はおそらく天性のものだろう。筋肉のバネといい柔軟性といい、人並み外れて恵まれたものを持っている、という事が言いたかったんだ」
やや焦って訂正する教官を見てラチェリナが調子を取り戻してきた。わざとらしく胸元を隠して上目遣いになる。
「そんな事言って。ずっとあたしの身体を見てたんですかぁ? 教官も男のひとなんですねっ」
「あのな。大人をからかうんじゃないよ。そんな事より、俺の言った事をちゃんと理解したか? お前はまだ若いし十分に成長の余地がある。お前の長所は攻撃にあるが、長所を磨くのは基礎がしっかり出来てからでも遅くはない。急ぐわけでもないからな」
「わかってますよぅ。そんな事、言われなくたってわかってたし」
再び拗ねた顔に。ころころ変るラチェリナの表情に苦笑しながら、ランダスターンは続けた。
「耳に痛い諫言はなかなか素直に受け止められないかもしれないがな。特にお前たちの歳ごろは反抗期真っ只中だしな。大人の庇護を離れ、自分だけで生きていける自信を身につけ巣立ちの時期に差しかかっているから無理もないが……だがそれでもお前達はまだまだ未熟だ。時期が来たからといって自動的に巣立てるわけじゃない。巣立った後も生きていける術を身につけられるように導くのも大人の役目だ。騙されたと思って、今は素直に指摘された欠点を見直してくれ」
「ハイハイ。わかりました」
さっさと説教を終わらせようとしている気配を感じてランダスターンは再び苦笑する。
「心に城壁を築いてしまうと、聞きたくない言葉から身を守れるかもしれないが、身動きが取れなくなるぞ。心は自由な遊牧民であれ、だ」
「あたしの心の遊牧民は、教官のお説教から逃れるために旅立ちました」
「……連れ戻して来い。とにかくだ。せっかくの素質も磨かなければ宝の持ち腐れだ。自分の宝を磨けるのは自分だけだぞ。他人にできるのはせいぜい磨き方のアドバイスをする事と、磨く気にさせる事くらいだ。結局は自分次第だ。その事を忘れるな」
「ハーイ」
生返事を返しながら、ラチェリナは皇子の言葉を思い出していた。
――僕が君の美しさを磨いてあげたい。
なぜこんな時に皇子の言葉を思い出すんだろう? どうせ他の寵姫達にも言っているお決まりの文句だろうに……。もしかして、そう言われて嬉しかったのだろうか? 自分でもよくわからない。
教官は他の衛士にも指導するべく遠ざかっていく。
その後姿をなんとなく見ていると、カシナが話しかけてきた。
「どうだった? 教官と直接剣を交えてみて」
カシナの方から小言以外の話をしてくるのは珍しかったので、少々驚いた。
「……まあ、強かったよ。こっちの手の内が全て見透かされているような感じだった」
「そりゃそうでしょう。先の遠征の英雄ですもの。教官から直接手ほどきを受ける事が出来るなんて滅多にない事なんだから、しっかり噛み締めなさいよ」
「教官はお説教が長いからやだ」
「なんという事を……あなたにはその価値がわからないの?」
「そりゃ、カシナは教官が『ミジンコはゾウリムシの仲間だ』と言ったとしても、なんだかんだと深読みしてありがたがるんだろうけどさ……」
「教官はそんな事言わない! 豚に真珠、猫に小判……ありがたみのわからない者に価値ある物を授ける事の例えを、これからはラチェリナに教訓と呼ぶ事にするわ」
「じゃあどうでもいい事をありがたがる奴の例えをカシナにミジンコと呼ぶ事にするよ」
減らず口を返しながら、ラチェリナは打たれた手首を見た。赤い筋がくっきりと残っている。
痛みをこらえながら、拳をぎゅっと握り締めた。
その行為が、悔しさによるものか、向上心の発露なのか、自分でもよくわからないまま。




