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月の刃 海に風  作者: 神崎真
本編
1/13

第1話

 雲ひとつなく濃い蒼穹から、降り注ぐのは目を刺すまばゆい太陽の陽射しだった。

 吹きわたる潮風をもってしても、その光がもたらす肌を焼くような熱は、とうてい拭いようのないそれだ。

 けれどそれはそれで、日常とでもいうべき至極気持ちのいいものだった。

 明け方近くまで船を翻弄していた嵐は遠く背後に過ぎ去り、激しい雨に洗われた大気のおかげで、視界は妨げられることなくどこまでも遠く広がっている。さいわい波にさらわれた荷も怪我人もなく、乾き始めた甲板では水夫達が後始末に忙しく立ち働いている。

 いかに変わりやすい海上の天気とはいえ、またしばらくは良い天候が続くことだろう。降り注ぐ雨のおかげで真水もたっぷりと補給できたし、吹く風は順風で、いっぱいに帆を膨らませている。

 後甲板からあたりを見わたしていた船長は、いたく上機嫌だった。

 だが、見張り台から降ってきた声が、その気分に水を差す。

「どうした!」

 船長に代わって反応したのは、傍らに立つ青年だった。

 良く通る声を張り上げ、帆柱の上にいる見張りの方をふりあおぐ。

「右舷前方に船影が見えます。難破船じゃないかと!」

 難破という言葉に、声の聞こえる範囲にいた全員がいっせいに示された方向を見た。だが低い甲板上からは、まだそれらしきものを目にすることはできない。

「 ―― ガイ」

 青年をふり返ると、船長は短く指示を出した。



 進路を変えて接近してゆくと、じょじょに様子が判ってきた。

 その船も嵐に巻き込まれたのだろう。ボロボロに引き裂かれた帆布が幾重にも垂れ下がり、二本ある帆柱のうち一本が、根元から折れて倒れている。舵もやられたのかそれともとる者がいないのか、進路を定めないまま頼りなく漂流していた。ほとんど荷の残っていない甲板で、何名かの船乗りが激しくこちらへ手を振ってきている。

「夕べの嵐にやられたのか!」

 声の届く距離になって、こちらから問いかけると、口々に答えが返された。

 やはり昨夜の大時化にやられたのだという。荷も人間もほとんどが波にもっていかれ、残っているのはいま甲板にいる数名だけだという。

「どうしますか」

 船員が問いかけたのは、小柄ながらもがっしりとした体格を持つ、髭面の男だった。副船長である彼は、さりげなく背後を見上げ、船長の意向を確認する。それから潮枯れたがらがら声で指示を出した。

「渡し板を用意しろ」

 難破した相手を見つけたならば、必ず助ける。それが彼ら海上で生活する者達の不文律だった。例外を許されるのはただひとつ、自分達の命がかかっている場合のみだ。板子一枚下は地獄と称される海の上では、いつ何時自分もまた同じ目に遭うか知れたものではない。それを思えば、たとえ見ず知らずの相手であろうとも、うち捨てることなどできるはずもなかった。

 しかし ――

 板を渡すべく、慎重に船を近づけてゆく途中、凛とした声があたりに響き渡った。

「ユーグ、罠だ」

 いっそ場違いなほどに澄んだ、清らかな声に、一瞬誰もがはっと息を呑んだ。

 既に表情すら見分けられるようになった相手の船では、船員達が驚いたように棒立ちになっている。だがすぐに我に返ったのだろう。疲れ果てた漂流者の仮面をかなぐり捨てた彼らは、次々と隠し持っていた鉤つきの縄を投げてきた。同時に死角になっていた物陰から、幾人もの男達がバラバラと飛び出してくる。その全員が手に手に武器をたずさえていた。

「海賊か!」

 船縁に食い込んだ鉤縄をはずそうと、数人が反射的に駆け寄ってゆく。だが彼らは射かけられた矢に、慌てて身を退けた。その隙に縄が引かれ、急速に舷側が近づいてゆく。

 難破を装って油断させ、救助に来た相手の荷を奪うやりくちは、海賊達の中でももっとも唾棄すべき最低の輩が選ぶ手だった。それは船乗りとして絶対に破ってはならない、最低限の掟を踏みにじる行為だ。

「恥知らずどもがっ」

 吐き捨てた副船長の前で、船縁が音をたてて衝突した。大きな揺れをやり過ごしたのち、武器を手にした海賊達が次々と乗りうつってくる。

「だまされる方が馬鹿なんだよ!」

 先陣をきって飛び込んできた男は、高笑いして剣を振り上げ ―― そのまま突きとばされるように倒れた。もんどりうって転がったその喉から、天を目指してまっすぐ矢が生えている。何が起こったのか海賊達が把握するよりも早く、さらに二名が目と口に矢を受け船縁から海へと転落していった。

「……馬鹿を馬鹿という方が、よほど馬鹿なんだそうだが」

 四本目の矢をつがえた男は、一段高くなった後甲板から海賊を見下ろしていた。激した様子のない低い声は、すぐ近くにいた者の耳にしか届かなかったが、どこか悠然とさえしたその仕草だけで、彼がこの状況に前もって備えていたことが判る。

 予期しなかった反撃を受けて、海賊達は明らかに虚を突かれていた。その隙を逃すことなく、頭を低くした数名の水夫が仲間へ武器を配ってゆく。またたく間に甲板にいる全員が応戦の準備を整えていた。

 再びあの澄んだ声が、戦闘開始の合図を告げる。

「相手は最低の下郎どもだ。遠慮する必要はない」

 天から降るがごとく、涼やかに、泰然と。しかし抗いがたい力を持って、その声は命じる。

 やってしまえ、と。

 一拍おいて、おおっと喚声がわき起こった。手にした武器を突き上げるようにして、全員が高らかに雄叫びをあげる。

 その段階で既に、海賊達は完全に気圧されてしまっていた。

 油断した商船を一方的に略奪する心づもりでいたのが、これではまるで彼らの方が罠にはめられてしまったかのようである。しかもこの船の乗員達は、全員が商人とはとても思えない、堂に入った剣をふるってくるのだ。

 混乱しつつも懸命に応戦する海賊達の耳に、またもあの声が届いた。

「コウ、左舷、水樽横のザギを援護」

 その言葉を受けて、後甲板に立つ男が弓弦を鳴らした。途端に複数を相手に戦っていた若者の周囲で海賊が倒れる。

「トルード、帆布の後ろにひとり」

 隠れ場所を言い当てられたのが泡を食って飛び出したところを、棍棒を持ったたくましい男に殴り倒される。的確に降り注ぐ指示を受けて、船員達は次々と海賊を倒していった。

 どこからその声がするのか、ようやく気づいたひとりが頭上をふりあおぐ。

 そうして彼は、思わず息を呑んだ。

 二本並び立つ帆柱(マスト)のうち、後部側に立つ一本。ひと抱えほどもある丸太で作られたそのはるかな高みに、柱を取り巻くような手すりと板張りの床で、見張り台が設けられていた。その、人ひとり立つのがやっとという場所から、甲板を見下ろしている人影がある。

 澄みわたった青空を後背に。

 降り注ぐまばゆい陽光を浴びて。

 吹く風に長い髪をなびかせながら。

 その人物は、血と暴力に満ちた下界を眺め下ろしていた。

 帆柱は、ちょっとした塔ほども高さがある。落ちればひとたまりもないだろうそんな高みで、しかし恐れる様子もなく、見張り台の手すりに外向きに腰を下ろして。

 風に揺れる、つややかな銀の髪と裾を引く異国風の衣装。不安定な場所に腰かけながら、なおも前屈みになるようにして。

 それは、まるで現実味のない光景だった。

 遠目にも、その人物が恐ろしいほど美しい顔立ちをしているのが見てとれる。

 長い長い銀髪は、癖ひとつなくなめらかに広がって上半身をおおい、やはり長い上衣の裾が足首近くまでも達して揺れている。陽に当たったことなど一度もないのではないかと、そう思わせる白い顔に、そこだけがほんのりと染まった桜色の唇。

 大都市の ―― 陸上のどこかであれば、そんな人物がいてもおかしくはなかっただろう。

 世界は広い。どれほど美しい女であれ、あるいは男であれ、出逢ったところでなにも不思議などなかった。

 だが、いまこの時、こんな場所で。

 見わたす限り、(おか)の影など望むべくもない、大海原のただ中で。

 海賊と商船の船員とが刃を交わす、その船上で。

 戦闘の喧噪などまるで無縁のようでありながら、それでいて興味津々とも感じられる眼差しで戦いを観察している、それは。


「ま……魔物……?」


 震えながら呟いた海賊の声が聞こえたのか、銀髪の人物は、ふとその目を動かした。

 甲板上と帆柱の上で、両者の視線が交わる。

 びくりとすくみ上がった海賊は、確かにその人物が微笑んだのを見た。

 淡い色の唇が動くのを、海上で鍛えられた視力がはっきりととらえる。

「それで、最後」

 宣告するかのようなその言葉が、意味するところを理解するよりも早く。

 後頭部に振り下ろされた棍棒によって、男の意識は暗い闇へと落ち込んでいった。



 最後のひとりが縛り上げられたのを確認して、銀髪の人物 ―― ジルヴァは背後を振り返った。

 その視線を受けて、見張り台の床に立ち、後ろから彼を支えていたガイがうなずく。上体をひねったジルヴァが彼の首へ腕を伸ばすと、ガイの方はジルヴァの腰にまわした腕はそのままに、もう片方の手をそろえられた膝の下へと差しこんだ。

 ほっそりとした華奢な身体が、軽々と抱き上げられる。

 重ねて言うが、そこは目もくらむような高みであった。

 帆柱の頂上近くにある見張り台は、見習い水夫がひとりで登れるようになるまで何日もかかるような、そんな場所だ。寄せる波に合わせゆらゆらと揺れている不安定なそこで、命綱すらつけることなく、ジルヴァは青年に身を預けている。

 バサリという音があたりに響いた。

 ガイの広い背中をおおうように、巨大な翼がその姿を現したのだ。焦茶にところどころ白い斑の混じった風切り羽が、大きく広がり、大気をとらえ力強く羽ばたく。

 手すりを無造作に蹴って、二人の姿が宙におどった。降り注ぐまばゆい陽射しをさえぎって、翼の作る濃い影が甲板に落ちる。

 見上げる一同の髪を羽根の起こした風がなびかせた。抜け落ちた羽毛が何枚か、二人のあとを追うように、ゆっくりと舞い下りてくる。

 海賊達の生き残りのうち意識がある者は、ぽかんとしたように口を開けていた。

 有翼人種の青年は、見上げるほどたくましい体躯を持っている。彼らを迎えた仲間の船員達も、けして小柄なわけではなく、がっしりとした鍛えあげられた肉体の持ち主ばかりだ。だが彼はその中でもさらに頭ひとつぬきんでており、肩幅や胸板などもそれにみあうほど広く、厚いものだった。陽に焼けただけではない生来の浅黒い肌が、いっそうの力強さを見るものに感じさせる。奔放に跳ねた褐色の髪を額に巻いた布で押さえ、瞳は焦茶だが光の加減で時おり金褐色に透ける。

 獰猛な肉食の(とり)を思わせるその腕の中から、見下ろしてくるのは、逆に銀細工を彷彿とさせる、玲瓏とした美貌を宿した佳人だった。

 さらさらと流れる銀の髪の間から、海賊達の姿を映す、その瞳。筆で描いたかのような白銀の眉と、同じ色の長い睫毛とに飾られたそれは、深く凍てつく紫水晶(アメジスト)にも似て。

「 ―― 船長は、どこですか」

 開いた唇から発せられたのは、既に幾度も耳にした、あの清らかに澄んだ声だった。戦闘に高揚していた男達の精神が、その一瞥とたった一言で、急速に冷却されてゆく。

 もしも、銀と水晶でできた鈴を振ったならば、こんな響きが生じるだろうか、と。

 風情など解することもない粗野な海賊達が、思わずそんなことさえ考えてしまう声だった。それほどにそれは、凛と美しく透徹とした ―― 温かみの欠片も感じさせないものだったのだ。

「どこですか」

 もういちど繰り返し、彼はゆっくりと視線を巡らせる。

 濃紫の瞳が向けられるたび、海賊達は怯えたように視線を逸らした。やがてそれらの目が一点へと集中してゆく。集まった視線を受けて、海賊の(かしら)は仲間の影へととっさに隠れようとした。が、先刻の戦闘で弓を引いていた黒髪の男が、その頭部をわしづかみにし、ぐいと力任せに前へ押し出す。

 抱きかかえられた腕から乗り出すようにして、ジルヴァは頭目と視線を合わせた。とたん、頭目の喉からヒッと悲鳴のような声が漏れる。

 冷たく整った美貌がゆっくりと笑みを形づくり、名工が刻んだ大理石を思わせる指先が血と汗に汚れた髭面を優しく撫でた。

「商談を、いたしましょうか」

 ささやきかけるジルヴァの前で、海賊の頭はただ操り人形のようにがくがくと首を上下させたのだった。

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