Pappy and Puppy
“それ”は、俺の手の内にあった。
過酷な日々を耐え抜き、諦念に襲われず精進を続けた猛き修験者のみが勝ち得ることができる、楽園への切符。
栄光に至るまでの軌跡であり、努力の結晶でもあるその至宝を、俺は天に突き上げた。
世界中の同胞が括目せよ。
勝者は――王者はここにいる!
高層ビルの屋上、俺の手中で風に煽られはためくそれは、
有給休暇が書かれた、会社の出勤日程だった。
〈Pappy and Puppy〉
「智歩! 明日はパパと一緒にお出かけしよう!」
帰宅して早々、俺は居間に突撃して、床にだらしなく寝そべる愛娘へと呼びかけた。
久方ぶりの休暇だ、父娘水入らずで過ごしたいと願うのは一児の父親としては当然だろう。
しかし、意気揚々と誘っても肝心の返事がない。聞こえなかったのかな……?
何気なく娘の肩に手を置き――
「触んないで」
絶対零度の視線とともに繰り出された手に、乱暴に振り払われた。
「パパと出かけるなんて虫唾が走るから、そういうの二度と口にしないで」
「そんな! せっかく智歩のために必死こいて働いて、ようやく有給休暇取ったのに……」
「別に頼んでないし。ひとりで勝手に旅行でもいけば? ついでに山奥で人知れず餓死とかしてくれれば完璧」
「酷い!」
そんな過酷な行楽があってたまるか。
「まったく、仕方ない……」
こうなれば最終手段だ。辛辣な口調でまるで子犬のようにきゃんきゃんと罵詈雑言を吐く智歩から視線を外し、俺はぼそっと呟いた。
「……せっかくなんでも買ってあげようと思ったのになぁ」
「え?」
そのデシベル計測すら困難であろうほどの小声を、しかし智歩の鼓膜は鋭敏に捉えた。
「……本当に、なんでも?」
「男に二言はない」
やけに真剣な顔つきで問い返す智歩に、俺も真顔で頷いた。どうでもいいけど顔の距離が近い。ううむ、我が娘ながらかわいい。
数秒の短い静寂。
やがて智歩は姿勢を正すと、素っ気ない表情を作る。口元の緩みは隠しきれていないが。
「そ、そこまで言うなら……一緒してあげてもいいわよ……。し、仕方なくなんだからね! 変な勘違いしないでよ!」
デレ解禁。ふん、金の力に頼れば女子中学生なんてちょろいもんだぜ。
父親の尊厳をつぶさに犠牲にしてしまったが、ともあれ晴れて愛娘との交渉は成立した。親子でお出かけなんて何年振りだろうか、意図せず胸の鼓動が高鳴る。
内心の感動を気取られないよう、俺は明朗快活に笑った。
★
そして翌日、日曜日。街並みは人で溢れていた。
「ちくしょう、なんでこんなことに……」
身を焦がす太陽の輝きを背負い、俺は苦心して人と人の間をすり抜け、娘の背中を追った。
その両手には、ギチギチに詰まった大量の買い物袋。中身はいずれも服、服、服。重量で指が引き裂けそうだ。
「パパなにへばってんの! 次いくよ!」
「そうよあなた。予定ではあと五件は回るんだから」
手厳しいながらもかわいい(主観)智歩の台詞に、余計な声が続く。
前方を振り仰げば、智歩の傍らでもうひとり女性が俺に手を振っている。
誠に遺憾ながら、智歩の母――すなわち俺の嫁である真智だ。
昨日の会話を聞いていたらしく、図々しくも勝手についてきやがったのだ。今のところ会計はすべて俺が済ましているが、真智の分まで買ってやると言った覚えはないぞ。
しかし反論する気力も湧かず、ただふたりに追いつこうとひいこら荷物を引きずりながら、俺は俯いてそっと口元を隠した。
溜め息。
智歩の前では虚勢を張っているが、現在俺の胸中はかなり暗澹としていた。レジ前での諭吉との別れもだが、それ以上に通帳の残高を想起すると頭が重くなる。もう六桁近く吹き飛んだか、社員食堂での昼食は当分素うどんコース確定だ。
「なあ、そろそろ休憩しないか?」
機嫌よくスキップなんぞする母娘に追いつく頃には両足ガクガクだったのでそう提案すると、
「なによ、時間を浪費してお店の件数を減らそうとしても無駄だからね」
智歩が半ば図星な勘繰りをして俺に半眼を向けてくる。
「ば、馬鹿! そんなケチくさい真似するか! もう昼の一時だし、そろそろご飯でもどうかなって……」
「ふーん」
疑念の眼差しは晴れない。
そこで真智が智歩にそっと耳打ちをする。
「おお!」
途端、感嘆と同時にその表情がぱぁっと華やいだ。見惚れちまいそうなほど素敵な笑顔だが、嫌な予感しかしない。
「――ねえ、お昼ご飯のメニューも、当然あたしが決めていいんだよね」
「はっ!」
俺はようやく自らの失言に気づいた。
昼食の誘いなどしなければ、道中で適当にサンドイッチでも買えばよかったのだ。出費を僅かでも減らすつもりが裏目に出た。
「どうしよっかなぁ」
返事も待たず大仰に腕を組んで熟考する智歩。眉間の皺すら愛おしいが、腑抜けている場合ではない。
横目に黒幕である鬼嫁を睨むが、俺の威圧など意にも介さず、智歩以上にウキウキしてやがる。ちくしょう、娘をダシに使いやがって。
「よし、決めた!」
高らかに叫ぶ智歩に、つい俺は身構える。
なんだ、ステーキか? 仏料理か? 回らない寿司なんて、俺だって先輩の奢り以外では食ったことないぞ。
「あそこ!」
際限なく膨らむ緊張と恐慌に、しかし智歩が指差した先には、
「え……?」
有名なハンバーガーのチェーン店があった。
呆然とする俺と真智。
ひとり興奮気味に智歩は語る。
「一昨日から始まった新作バーガー、食べたかったんだぁ。お小遣い節約したいし、この機会にね! さあ遠慮はしないんだからね! レッツゴー!」
今日一番のテンションで、智歩は満面の笑顔を浮かべた。つぶらな瞳がきらきらと輝く。……そうだよな、中学生が高級寿司はないよな。
智歩の無理して作ったような悪どい笑顔も、むしろ普段の数百倍は可憐に感じられる。
「……ちっ」
隣で邪悪の手本を見せるように舌打ちする真智。奥方さま、少しは下心を隠してくださいまし。
「ほら、置いてかれるぞ」
不満たらたらの真智に言い残し、俺は一目散に駆け出す智歩の背中に続いた。
空が緋に染まる頃、未だ元気溌剌な母娘に対し、俺はすっかり這々の体だった。
疲労困憊ながら重荷を一身に受けてつき従う様子は、周囲からは父親どころか舎弟に映るかもしれない。
「なあ、もう終わりだよな……? さすがにまだ買い足りないなんてことは……」
しかし懸念は現状の苦労よりも財布事情だ。後者は返答次第で死活問題にまで発展するからな。
「待って、あとここだけ」
背中を向けたままで、正面の雑貨屋を仰ぐ智歩。
「ま、マジで?」
全身から力が抜けかける。四十路間近な生涯で初めて、真の絶望を味わった気がする。
そんな俺には目もくれず、何故だか智歩は急くように店の奥へと消えていってしまう。
「おい、財布持ってんのは俺だぞ⁉」
狼狽するが、追って店内に入ろうとする俺を、真智が引き留めた。かつて俺が結婚を決めた、穏やかな笑顔で。
「待ってましょう」
……一体なんだってんだ?
首を捻って待つ、しばらくして智歩が小洒落た買い物袋を小脇に帰ってきた。自腹を切ったのか? どうして?
「パパ」
突然の呼びかけに、俺は当惑してしまう。
なぜなら、目を逸らしながら眼前に立つ智歩が、怒っているような拗ねているような――不思議な表情をしていたから。
袋がすっと差し出され、また荷物持ちかと覚悟した俺に、
「これ、あげる」
ぶっきらぼうな声。
「……え?」
一瞬遅れて、理解する。言葉の、そして表情の意味。
ああ、これは怒っているんでも、拗ねているんでもない――
――照れてるんだ。
彼女の小さな唇が震え、たったひと言口にする。
「今日は――ありがと」
それだけで、肉体に溜まった疲労が霧散していく。汗みずくの状態で思い切りシャワーを浴びたような感覚。
こんな粋な計らい、まさか……
密かに真智に視線を投げると、ウィンクが返される。また首謀者はおまえか。策士め……やってくれるよ、まったく。
感涙を堪えて(どうせ泣いたら気色悪いと蔑視されるに違いない)俺は袋を受け取った。
そして、断りを入れて中身を見ようとした瞬間、
「あ!」
悲鳴じみた短い叫びと同時に、
「ぐわ!」
智歩に突き飛ばされ、無様に尻餅をつく俺。
ナニゴトかと頭上を見上げると、
「あれ、石見じゃん。おっす」
「相葉くん……」
見知らぬ男子――黒髪で長身の、いわゆる好青年といった風情だ――が俺の娘に、親しげに手を振っているではないか!
智歩の方を見ると、一丁前に赤面なんてしていやがる。これって……
「偶然だね。こんな時間にどうしたの?」
「ま、ママとお買い物だよ。相葉くんは?」
さりげなく俺の存在をスルーするな。
「あ、こんにちは。俺は部活の帰りだよ」
相葉とやらが後ろに控えていた真智に会釈をする。奇跡的に俺の存在には気づいていない。
しかし、まさかというか、大体予想はつくけど、智歩の奴……
「ね、ねえ相葉くん、よかったらこれから……」
そのもじもじする愛娘の姿に、俺の激情が沸点に到達した。
「こぉの泥棒猫がぁ――っ‼」
理性が弾け、往来も気にせず声を張る。
「ち、ちょっとパパ!」
智歩が目を剥いて慟哭する俺を制止しようとするが、
「こんな……パパは許さんぞぉ――っ!」
暴走した頑固親父を止めるのは、神さまにだって無理な相談だ。
「おわぁ!」
相葉の肩を引っ掴み、前後左右上下にガクガクと揺さぶる。馬の骨、クソガキと罵倒する。混乱しながらも叫び返す相葉。
「だ、誰だアンタは!」
「パパだ!」
「えぇ⁉」
もう自制心など不在だ。出鱈目に相葉を痛めつける。この野郎、俺の大事な大事な掌中の珠をたぶらかしおって。恨むならば智歩を虜にしたそのいけ好かない端整なツラを恨め。
「二度とっ! 二度と娘に手を出さんと誓ええぇぇぇ!」
「だからなんなんだあぁああぁぁ⁉」
「パパの馬鹿ぁ! やめてよもぉー!」
「これは――智歩が一生口きいてくれなくなるんじゃないかしら……?」
こうして、俺が汗水流して勝ち得た有給休暇は、騒々しいまま幕を閉じたのだった――
読んでいただきありがとうございます!
子煩悩な父親が好きです。
単純に見ていて面白いですし、それに常に我が子のことを優先し、ときには自らの身体を張ることすら厭わない姿勢は、とても尊敬できる人物像ではないでしょうか。とはいえ、現実にはある程度の分別は持っていてほしいですが。
執筆していて、私の父もこんな人だったらなぁ……と妄想してしまいました。
――まあよく考えたら絶えず熱烈なラブコールを“息子”に送る父親とかデンジャラスすぎて夜も眠れませんけどね! もう二度と別の父親がほしいなんて言わないよパパン。




