チョコレートケーキ二つ
それでは、お楽しみください。
十一月十二日、木曜日。
すっかり日も暮れかけて、秋空の茜に染まる中。いわゆるオンボロアパートというやつの前に、俺は手土産のビニール袋を持って立っていた。
目的地は二階。そこに二ヶ月前から休学中の恋人、礼道仟の部屋はある。全体的に傾きかけたその建物に入るのは、少々気が進まない、というか大分気が滅入る。しかし、俺の服装も学校指定の学ランだけ、木枯らしが一陣、身に沁みた。それに彼に会うためにここに来た以上、仕方なく一歩、歩みを進める。
ほとんど梯子のようにも見える急な階段に足を乗せると、錆びてところどころ穴が開いた鉄の階段は、段に足を乗せる度に軋々と悲鳴を上げる。細身な俺の体重をも拒むかのような階段の態度に、こいつを踏んづけてしまおうかと思ったが、段が抜けて痛い目を見るのは俺の方だ。今回のところは階段に勝ちを譲ってやろう。
今向かっている部屋の住人は男で、俺も男だ。それで恋人と言えば、すなわちそれはそういうことで、一応周りのほとんどの人間には隠している。隠している、と言っても、俺も彼も別に人目を気にしているわけではない。単純に、二人とも友人がほとんどいないだけ、という言い方が近いのかもしれない。結局、俺達は仲のいい親友同士としか思われていないのだろう。
そんなことを考えつつ階段を踏破し(文字通り踏み破りそうで怖かった)、二階に上る。三つ並んだ扉の真ん中がセンの部屋だ。色褪せて、表面の剥がれたドアの前に立つと、ここまで来てより一層入るのがためらわれた。
ドアノブを握ろうとして、思いとどまる。いや、表札も出してない不親切な借り住まいに、玄関チャイムのような洒落たものが付いているわけでもないし、そもそも呑気な彼は、俺が合図なしに部屋に入ったところで怒ったりするような奴ではない。だから、別にそのままドアノブを掴み、ひねってしまっても問題はないのだろうが、それでも、やっぱり階段と同じく錆びて取れかけたドアノブに触れるのには抵抗があった。
彼が気付いてくれるかどうかは心配だが、とりあえずドアをノックしてみることにした。
コンコン。
「……」
返事はない。今度はもう少し強めにノックしてみるか。
腕を振りかぶり、もう一度ドアを叩こうとした、その瞬間。ドアが内側に開いて、センが顔を出した。当然、勢いのついた俺の右手は彼の額に命中する形になる。
ごつん、と音がした。
「ったあ……零の……馬鹿」
額を押さえて呟くセン。
「……あちゃー。ごめんごめん」
謝りながら、今殴った相手の顔を眺めてみる。全体的に、目立たない外見。俺の目線くらいまでしかない低い身長。だらしなく伸びた長袖のTシャツ。やけに長くて鬱陶しそうな髪が、顔の上半分を隠している。強いて言えば、その髪だけが彼を彼と位置付けているような、そんな外見だった。
まじまじと見つめていたのが悪かったのだろう、目を背けられてしまった。
動作のいちいち可愛い奴だ。
「さ、上がってよ」
センに促されて部屋に入ると、薄暗く、足の踏み場もないほど散らかった、いつもの光景が目前に広がる。教科書やノート、洗ってある衣服その他諸々がよく混ぜられた、四畳半の種々雑多な海に足を踏み入れる勇気を出すために、俺は一呼吸を要した。
「あのさ、ケーキ、買ってきたんだが」
息を吐くついでにそれを伝えると、彼は俺に背を向け、
「わかった。もうすぐ終わるから、その辺に座って待っててよ」
とだけ言って座布団に座り、パソコンに向かってしまった。
言われた通り、靴を脱いで部屋に上がり、その辺に座って待っていることにした。
ケーキ以外は学校の勉強道具くらいしか持って来ていない。手持無沙汰な俺が、背を向ける彼を見ながら考え事をすることに決めるまで、それほどの時間はかからなかった。
彼は俺に見向きもせず、早速打鍵音を響かせ始める。
そんな彼の素っ気ない態度に、正直もどかしさを感じることはある。恋人である俺より自分の趣味を優先することに、苛立ちを覚えることも少なくない。
それでも、彼と俺との距離は、俺にとって心地の良いものだと思う。今日みたいに彼が学校に来ないときも、少し遠回りしてここに立ち寄ることが俺にとって欠かせなくなってきている。
干渉しないでもなく、不用意に近づきすぎることもない、まるでパズルのピースがぴったり嵌まっているかのような、最初からあつらえてあったかのような、そんな距離感。同性間でよくある『最初は戸惑った』とか、『周囲の目が気になった』だとか、そういう感覚もほとんど無かったほどだ。
しかし、俺と彼の関係を知っている唯一と言っていい友人は、どうもその関係に納得がいかないらしい。
曰く、それは恋愛じゃない、と。
じゃなければ何だと尋ねるとその時ははぐらかされてしまったが、俺自身、これが恋愛? と聞かれると、胸を張ってイエスと答えられる自信は、正直ない。週末に外に出歩くこともしないし、それどころか二人で何かをしたいとか、してほしいとか思うこともない。
それでもこいつの部屋に行く、という行為を毎日繰り返す俺は、他の何よりも彼が好きなのだろうし、それに文句ひとつ言わない彼も、俺のことを少なからず想っているのだろう。
少なくとも、そう想っていてほしい。
ちなみに、その彼が休学している理由を、俺は知らない。目立たない彼は、クラスの中でも話題に上ることはまず無いし、第一、他のクラスメイトが知っているようなら、彼に一番近い俺が知らないはずがないのだ。
カタカタと、キーボードを叩く軽快な音が部屋に響いている。センの打鍵速度は、機械音痴な俺のそれを倍ほど上回るが、その能力を何かに役立てるつもりはさらさら無いと本人は言う。
ふと、彼の方に目を向けてみる。未だ彼の作業は終わらないらしい。よく見ると、画面には戦闘機のようなものが二機。
こいつ、ゲームしてたのかよ。
ここで、再び考え事にふけってみる。例えば、ゲームに集中している彼に気付かれないように後ろから忍び寄り、がばっと抱き付いてみたらどうなるだろう。
……。
彼の反応は想像に難くないが、実行に移してみることにした。
がばっ。
「うひゃあうっ!」
反応は上々。可愛い可愛い。
突如、爆発音が耳に入る。どこからかと思い部屋を見回すと、センが遊んでいたパソコンの画面の中。彼が操縦していたものと思しき戦闘機が黒煙を上げていた。
「ああっ! 零、何してくれてんのさー……」
画面を見て、今日一番の大声を上げるセン。少し愉快。
「作業終わった?」
「……終わった終わった。見ての通りだよ」
前言撤回。少し申し訳ない気分になった。
「じゃあ、せっかく買ってきたんだから、ケーキを頂くとするか」
俺は、みっともなく取り繕うように言う。俺のこういうところを、彼はどう思っているのだろう。俺に背を向けているせいで、彼の表情は窺えない。
センに絡みついたままの腕を解こうとすると、手を握られ、止められた。
無言のセンに、俺は戸惑うほかない。
「えっと、センさん? ケーキ食べないの?」
「あと五分」
「はい? だから――」
「だ、か、ら! ……あと五分……このままで」
後ろからでもわかるくらいに顔を赤らめて言う。
これはやばい。
やばいやばい。
今、人生で一番、彼の顔を真正面から見たいと思った。
多分、俺の顔は、彼以上に赤くなっていることだろう。
俺と同じく、彼からも俺の表情は読めないだろうが、パソコンの画面に映っていたりしたら恥ずかしい。心臓の音が直接伝わらないように、こっそり座る向きを変えた。
再び彼の体に腕を回し、少し力を入れる。右腕が肋骨の浮いた彼の胸に、左腕が彼の薄い腹筋に、それぞれ巻き付く形になる。体を前に傾けて、少しだけ彼に体重を預ける。
こうしてみると、彼の華奢な体型がよくわかる。
「なあ、セン」
「何? 零」
「お前さ、最近ちゃんと飯食ってるか?」
「うん。まあ、ここ二、三週間は一日二食ちゃんと食べてるし、問題ないよ」
「問題なくないだろ」
「そうかな? 休学してから一日一食だったりしてたけど、倒れたのも三回くらいだし」
「二ヶ月で三回倒れてれば十分危ねえよ」
どうやら、こいつは生活習慣を初めから叩き直してやらないといけないようだ。
「睡眠時間は?」
「平均……そうだな、四時間くらいだね。学校行かない分、よく眠れてるよ」
「お前は……。
そんなに時間削って何やってるんだよ」
「うーん……バイトとか、勉強とか」
休学中でも勉強しないとダメだよね、と彼は笑う。
無理するなよ、と俺は苦笑いした。
それきり五分。二人はお互い一言も発しなかった。
二人の距離感とか、関係性とか、そんなつまらないことを考えるのは、もうやめにした。
そんなことには、もうとっくに答えが出ていたから。
傍に居るだけで幸せになれる。それは、俺にとって彼が、彼にとって俺が、圧倒的に大きい存在であることの裏返しだったのだ。
だから。だから今は、彼に触れていられる時間を大切にしたい。
俺はもう少しだけ、腕に力を込めた。
五分が過ぎるのは早かった。
俺はいつまでもこうしているわけにはいかないので、センにケーキを食べようともう一度提案した。その際、彼が「あと三分……」と、お決まりのセリフを言ってごねたのは言うまでもない。
「……じゃあ、お茶淹れてくる」
彼は名残惜しそうにそう言って、部屋の隅にあるコンロにお湯をかけ始める。そのくらい、『作業』が終わる前に俺がしておけばよかったと、今更後悔する。そういえば、今日はほとんど彼の後ろ姿しか見ていない。
彼はずっとヤカンに付きっきりで、またこちらを向いてくれなくなってしまった。することのない俺は、食器棚からポットとカップ、お皿とフォークを取り出す。ポットは蓋を開けてコンロの隣に置き、お皿に持ってきたチョコケーキを乗せ、テーブルの上へ。「ありがと」と彼が言ってくれたのがなんとなく嬉しい。
間もなくお湯が沸く音がして、次いで、お湯を注ぐ音。彼が湯気の立つポットを持ってきた。蓋の間から紐が見えるから、ティーバッグの紅茶だろう。
「チョコケーキか。悪くないね」
「良いって言えよ。結構おいしそうだろ?」
「どこで買ってきたの?」
「まあ、駅前のケーキ屋だよ」
「あそこにこんなケーキ売ってたっけ?」
さっき考えていたこともあってか、彼との会話が幸せに思える。
やっぱり俺は彼のことが好きなんだ、と心底思う。
カップに濃いめの紅茶が注がれて、ティータイム。
チョコレートでコーティングされたケーキの表面に、フォークを立てる。
皿の上の三角形は、先端が切り取られ、台形になった。口に運ぶと、チョコクリームのはっきりとした甘さが舌の上に広がる。
それに遅れて、甘さを引き立てようと立ち回っていた、チョコレートのわずかな苦みが、表へ顔を出す。
最後に、スポンジのふわふわとした食感とチョコレートのぱりぱりとした食感が混じり、溶け合い、ゆっくりと喉へと運ばれていく。
「うまい」
「だね」
彼が食べ物を褒めるのは、珍しいことだ。それほどおいしい茶色のケーキは、あっという間に切り崩されて、目の前から消えてしまう。
紅茶も、パックとはいえ彼の腕の良さがうかがえる絶妙な蒸らし時間だったようで、ケーキを食べ終わる頃には、ポットからも一滴残らず飲み干してしまった。
ごちそうさまは二人ともほぼ同時だった。
さて。ケーキを食べ終えてしまうと、ここにいる理由も無くなってしまう。名残は惜しいけれど、帰らなきゃいけない。
もう帰るとセンに告げると、階段下まで見送ると言ってきた。別にそこまで心配してもらわなくともよかったし、どちらかというと俺は彼の身体の方が心配だったので断ろうとした。が、彼はそれを許さなかった。妥協策として、玄関までたった数歩の距離ながら見送ってもらい、靴を履いて外に出る。そんなに長居はしてないはずなのに、辺りは薄暗く、空には星が見えていた。
ビルが空を隠すように建っている俺の家の近くでは、こんな星空もなかなか見られない。
秋の星座はよくわからないが、星が点々と輝き始めた夜空を見上げて歩く。足元がボロ階段であることを忘れて、何回か転びそうになった。それでも意地を張って、上を向いて歩く。空に一本、短く線が引かれた。
流れ星だ。次が流れたときは、何を願おうか。
階段の途中で足を止めて、しばしそのまま流れ星を探す。
これから先も彼と一緒にいること、それだけが俺の願いのような気がした。
三分ほど待ってもなかなか星は流れず、仕方なく下を向いて、時計のカレンダー表示を確認する。今日が木曜日だから、土曜日まで、あと二日か。
あれだけ喜んでくれるのなら、またケーキを手作りするのも悪くないな。
明後日は彼の家に一日中いるつもりで、俺は壊れかけた階段を駆け下りた。
Fin
『チョコレートケーキ二つ』、いかがでしたか。
頼まれたので書いてみました。
作者初の真面目なBLなので、評価が心配です。
感想頂けると幸いです。