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西田幾多郎「現実世界の論理的構造」への違和感

掲載日:2026/04/25

 西田幾多郎の講演集をなんとなく読んでいたが、(思ったより古いな)と感じた。もっとも、西田に関しては流し読みしている程度なので、間違っているかもしれない。

 

 読んでいるのは「現実世界の論理的構造」で、西田は世界を空間と時間が結びついたものだと言っている。時間に関しては、西田は現在を重視している。というのは、過去も未来も結局は現在に生きている人間が想起するものでしかないから、大切なのは現在となる。いずれも常識と合致する意見だ。

 

 私が(古いな)と思ったのは、空間や時間といった概念は、この世界の根底的な規定ではなく、人間という種が世界を理解する為の相対的な形式に過ぎない、という事を西田があまり注意していないように見えるからだ。西田は空間と時間を客観的なものとして捉えているように思われる。

 

 時間と空間に関してはカントの説が正しいと思っていて、それを現代の物理学は裏打ちしたと私は考えている。

 

 どういう事かと言うと、物理学的に言うと、ビッグバンで時間と空間は生まれたという風になっている。

 

 それでは、ビッグバン以前はどうなのか、時間が生まれる以前はどうなのかと考えてみると、「時間以前の時間」という風に、時間の生まれる前の世界に「前」という時間観念を用いてしまっている。これは矛盾であり、ここで人間の理性は止まる。

 

 しかし人間の理性がそこで止まるからといって、その先の世界、つまりビッグバン以前の世界は全然存在しないかと言うと、そんな事はないだろう。つまり、そういう世界はあるにはあるが、それは我々の理性では理解し得ないという事になる。

 

 この事は、「物自体」としての世界、つまり「真の世界」のようなものは人間の理性を超えたものとしてあるというカントの考えと一致しているように思われる。この考え方を導入すると、時間と空間は相対的なものとして現れてくる。私には西田はそのあたり、時間と空間を先験的なものとして扱っているという印象を受けた。

 

 ビッグバン以前の世界と同じように、ミクロな領域には量子論というものがある。量子論の説明はややこしいが、これにはミクロの世界で物質が幽霊のような運動をするというものがある。


 これは本当に幽霊のような運動をするのであって、人間の理性からするとありえない運動をする。これは何度やってもそうなるので「そういうものだ」と理解されたのだが、アインシュタインはじめとして科学者の一部は納得できず、議論が巻き起こった。しかしどうやら神は人間の理性が届かない領域を世界の内に作っておいたらしい。

 

 今、私が述べた事は、世界というのを理解する形式として空間ー時間があったとしても、世界そのものは別にその枠組に囚われていない、という事でもある。世界は我々の手を逃れて存在する。我々はそれを切り取り、編集して理解する。


 世界は理性の先にある。理性はその限界を認知する事によって、「先」がある事がわかるのだが、とはいえその先に理性は進む事はできない。これは新しい未知の世界の扉の前で立ち尽くしている旅人のような状況だと言えるだろう。

 

 ※

 今言った事を仏教哲学と絡めて考えてみよう。

 

 私が仏教の「空」の思想を人に伝える時は次のようにしてみたい。と言っても、これはある本を読んで、その学者がやっていた事を真似ているだけなのであるが。

 

 私としてはこうしたい。まず、テーブルの上の茶碗が載っている領域を指差す。「このあたりを見てください」 聴衆は三人ぐらいでいいだろう、彼らは言われた通り、指された領域を見る。

 

 私は茶碗をそこからどかす。この時、私は何も説明しない。そして人に言う。「このあたり(茶碗があった場所)を見てください。このあたりはどのように見えているでしょうか」

 

 私が言いたいのは次のような事だ。

 

 「この空白の領域はみなさんには、茶碗がない領域と見えているはずです。つまり、茶碗という存在の否定形としてここは見えているでしょう。ですが、もし私が茶碗をどかす動作を見せずに、この空白の領域を指し示したならあなた達はこの領域を単に「何もない場所」と認識したでしょう。


 


 その場合は、茶碗の否定形としての空白は見えてきません。ただ、最初から何もないだけです。ですが、今述べた茶碗をどかせた領域と、最初から何もない同じ領域とは、空間としては全く同じはずです。そこはなにもない、全く同一の箇所なのですから。ですが、この同一の箇所が、見方によって違う空間に見えるというのはおかしくはないでしょうか。全く同一の空間なのに違う風に見えるというのはどこかに矛盾があるからではないでしょうか」

 

 …もちろん、このように考えたとしても、「矛盾なんてない。片方は茶碗をどかせた時間的な連鎖として見ているのだから、その事も加味しなければならない」という反論もあるだろう。なので、この事についてもう少し考える必要がある。

 

 問題は、仏教的に言えば「不生不滅」であるとか「不増不減」とか言われるような事柄だ。不生不滅とは「生まれる事も滅する事もない」という意味であり「不増不減」とは「増える事も減る事もない」という意味だ。

 

 コップに水を入れる。水は「増えた」のだろうか。百人に聞けば百人とも「増えた」と言うだろう。

 

 しかし「増えた」とはどういう事だろうか。そもそも増えるとは増えていないAという状況に対して、増えたというBという状況への移行として考えられている。図にすると下のようになる。

 

  |  |       |~~|          

  |  |   ⇒   |  |    

  |__|       |__|

   A        B

 

 「増えた」と我々が言う場合、それはあくまでもAという場合を前提として考えているから、それに対して「増えた」と言っているに過ぎない。しかし、実際、何故、Aという状態を固定的に考えているのだろうか。

 

 我々は固定的な状態を重ね合わせる事によって運動や変化というものを理解する。「猫が走る」という時、「止まっている猫が走る」という風に無意識的に考えられている。しかし、「走っている猫」も猫には違いない。この場合、走っている猫をただ「猫だ」と言っていけないわけはないだろう。だが、それでは「走る」という動作が伝わらない。

 

 運動や変化というものを我々はアニメを見るように理解している。アニメはキャラクターが動いているように見えるが、実際には静止しているコマが次々と現れる事によって擬似的に運動しているように見える。

 

 実際のところ、ひとつひとつのコマは静止している。しかし、この世界のあらゆる事物はそもそも静止していない。この世界の全てはそもそもが変化を本質としている。にも関わらず、我々は変化を変化そのものとして捉える事ができないので、その端に固定的な概念を結びつけ、その差異として、変化を理解しているに過ぎない。

 

 これを先のコップの例で考えるなら、コップに水が注がれて、水が増えたのではない。そうではなく、そういうものがそのままコップの状態であり、ただ現実が「そう」である、という他ない。

 

 増えたとか減ったとかいうように考えられるのは、コップに水が入っていない状態を基準に考えているから、その差異として「増えた」ように見えるだけだ。一匹の猫は走ったり、座ったり、ジャンプしたりするが、それら全ては「猫」でしかない。


 本当は猫が走っているのではなく、走っているのが「猫」なのだ。同じように、コップに水が注がれ、水が増えたのではなく、そういうものが「コップ」だったり、「水」であったりするだけだ。

 

 ※

 さて、このように今私が考えてきた事は、世界の実相が人間理性の範囲を越えているという例証ではあるが、コップの水の例は、量子論やビッグバン以前のような極小の世界とは違い、常識的な範囲内の出来事である。

 

 常識的な出来事の範囲内であるから、ここには我々の世界を理解する形式として時間ー空間という概念は適応可能なように見える。実際、私はこれについてはまだはっきりと考えていない。通用する気もするし、しないと言われても納得するかもしれない。

 

 ただ、私が西田幾多郎に感じた違和感は西田が時間ー空間という常識的な、現実的な観念を、西田的な超越的観念と結びつけようとしているように感じたからだ。西田は次のように書いている。

 

 『私の書物に「永遠の今」ということを言っているが、永遠の今というのは、過去未来が総て現在に含まれているということを言うのである。プラトンや中世哲学で言う永遠の今は時を離れているが、私の言うのは時を離れたものでなく現在が過去未来を含むということを「永遠の今」と言うのである。』

 (「現実の世界の論理的構造」 西田幾多郎講演集 岩波文庫)

 

 これが結びの文章だが、西田は時間ー空間という現実的・相対的な観念と「永遠」というような超越的な観念とを結びつけようとしている。ここに西田の理想があるのだろう。

 

 この理想は東洋的なものなのだろう。「アートマンとブラフマンは同一」であるとか「自己を無にして世界と合一する」といったようなものだ。

 

 こうした理想そのものは抽象的なものであり、それ自体が良いとも悪いとも言えないが、私は西田は案外、東洋的理想を一直線に西欧的な哲学観念と結びつけているという印象を受けた。私は哲学としては、超越的なものと現実的なものを峻別する事が大切だと考えている。そうでないと、超越的なものが現実的なものに侵入してきて、なし崩し的な安易な現実肯定へと思考は至ってしまうからだ。

 

 そういう意味において、私は世界の不可解性、世界が、人間の論理に収斂されない本質というものを重要視したい。それはカントの「物自体」の世界であるし、言葉を変えればそれはウィトゲンシュタインの「語り得ないもの」という事になる。

 

 仏教的な論理ではそれは「不増不減」のような「不」、すなわち「否」という否定形でしか語り得ない真理という事になる。本当の真理は語り得ないのであって、それ故に哲学はより豊穣な意味を持つようになる。そういう意味で私は西田の、総てを一点に凝縮する哲学に違和感を覚えたが、これを越える哲学が日本という土壌から現れるかと言うと、おそらくはそれは難しいだろうと思う。

 

 というのは、そもそも観念的な世界そのものを一つの実在として認める価値観が伝統的に弱いからだ。だから、観念的なものがある程度育っていっても、それはすぐに現実なものに吸着され、安易に和合されてしまう。


 そういう意味では知性は常に現実から離脱する事を要求されているが、しかし知性はまさに、現実から多く離脱するからこそ、現実に対して大きな意味を持つーーつまり、観念は真に現実的なものとなる。この逆説というのはプラトンの「イデア論」によって、歴史的に証明されているのではないか。



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