「運命の番」を殺した日
嘔吐描写があります。食事中の方、苦手な方はご注意ください。
──運命の番。
それは獣人族の間に伝わる、美しく神聖な伝承。
多くの獣人は、人族と同じように出会いと対話を重ね、生涯を共にしたいと願った相手と番う。時には家のしがらみに縛られることもあるが、それでも互いを慈しみ、尊重し、平穏な関係を築こうと努力する。
番とは本来、単なる良きパートナーを指す言葉に過ぎない。
だが、『運命の番』と呼ばれるものだけは、異なる。
運命の番とは、言葉通り『宿命』なのだ。生まれる前より番い合うことが定められ、たとえ他に愛する者がいようと、家庭を築いていようと、運命の番と出会ってしまえばそれまでの絆はすべて上書きされる。
神に定められた運命を引き裂くことは何人にも許されず、絶対の祝福として、獣人の中には憧れを抱く者が多い。……いや、ほぼすべての獣人が、運命の番に「選ばれる」ことを至上の幸福だと信じ切っている。
しかし、獣人たちの切望とは裏腹に、運命とはそう安売りされるものではない。
一世代に一組現れるかどうか。誰しもに運命の番がいるわけではなく、いたとしても出会えぬまま、渇望の中で生涯を終える者の方が圧倒的に多いのだ。
だからこそ、獣人たちは今の番を慈しみ、祈る。
今世では出会えずとも、来世では運命の番と巡り合えるように。そこでの運命が悲劇とならぬように。
運命の番とは、獣人たちの信仰そのものだった。
◇ ◇ ◇
ドクンッ、と鼓動が強く胸を打ち付けたのと同時に、全身の毛が鳥肌を立てるように逆立っていく。ピクピクと耳は忙しなく周囲を探り始め、それまでの集中力などすっかり散り散りとなってしまった。
込み上げてくる吐き気と舌打ちを理性で呑み込むと、ぐる、と低く喉が鳴った。
「おっ、もうそんな時間か」
「……ブラン」
隣の席で上がった茶化すような声に睨みを送れば、「おお、怖い」とおどけた様子でブランが席を離れていく。ダリウスは深く溜息を吐き出し、テーブルの上の抽出用に練り潰した薬草を見下ろした。
効果的に成分だけを取り出すためには、すぐに抽出作業に入らなければならない。そうしなければ余計な成分が混ざってしまい、数段階その薬効が落ちるためだ。
だがゆったりとした足取りでこちらへと近付いてくる足音に、そう猶予はない。
込み上げてくる苛立つ感覚は、すぐにそわそわと落ち着かない感情に呑み込まれてしまう。背中の尻尾が待ち侘びた様子で左右に揺れているのが分かる。
吐き出した溜息が、諦念なのか、番煩いなのかもわからなかった。
番煩い。
人族で言う恋煩いのようなもので、付き合いたての獣人がかかるものと言われている。初めて番を持った獣人は感情をうまく抑制できず、しばしば情緒を乱してしまうことがあった。
番の存在に慣れていくうちに自然と治まるものではあるが、ダリウスには一向に情緒が安定する兆しが見えなかった。
それは「運命の番」が現れたのだから仕方がないと、誰もが口を揃えてそう囁く。微笑ましく、羨ましく眺める者ばかりで、親身になってダリウスに寄り添ってくれる者などどこにも存在しなかった。
「ダリウス」
トントントン、と扉を叩き、現れた一人の獣人の姿が視界に映った瞬間。ダリウスの心は大きく掻き乱されていた。
「シェリア……」
何かに操られているようにふらつく足で彼女のもとへと急ぐ。伸ばした手は、そのまま彼女の華奢な体を抱き締めるように触れていた。
ダリウスの肩ほどまでしかない小柄な体躯に、綿毛のようにふわふわとした淡いクリーム色の毛並み。唐突に抱き寄せたダリウスに驚き、三角耳をせわしなく動かしながらも、嬉しそうに体をすり寄せてくる。
潤んだ大きな瞳はダリウスだけを見つめ、そこには深い思慕の情が隠されることなく表れていた。
狼獣人であるダリウスが本気で力を入れてしまえば、きっと小型の犬型獣人のシェリアなど簡単に壊れてしまう。
だからこそ加減を誤らないように細心の注意を払うダリウスの触れ方は、一見すれば運命の番を傷付けぬよう触れる事すら躊躇っている──深い想いの表れのように見えた。
それは抱き寄せられたシェリアすら、そう感じるほどに。
惹かれ合う運命の番たちの邪魔をすることは不敬にも等しいと言わんばかりに、つい先ほどまでダリウスと共に仕事をしていた者たちは内扉を経由して密かに席を外していた。
誰も彼も、仕事は中断してしまっている。
それでも誰も文句を言おうとさえ考えない。
何よりも優先されるのは「運命の番」たち。
その幸運のおこぼれを願うことはあっても、妬み僻みもあり得ない。
仕事中は忘れることができていた胃のムカつきが再び込み上げてくるのを感じ、ダリウスはそっとシェリアを抱く腕の力を緩めた。
残念そうな眼差しが、愛おしくて憎らしい。
「……あまり来るなと言っているだろう、シェリア。ここは俺ですらたまに匂いに耐えきれんことがあるような場所だ」
「ごめんなさい。でも平気よ。あなたの匂い以外何も感じないもの」
「シェリア……」
幸せそうに自ら抱きついてくるシェリアを優しく抱き止める。
ダリウスがぐるる、と苦悩に鳴らす喉も、ぱさぱさともどかしさに揺れ動く尻尾も、シェリアにはその本当の理由までは伝わらない。
(仕事の邪魔だということが何故わからん……!? 俺だけでなく他の者らの作業も止まる。お陰で効率が下がり残業も増えた……!)
誰も彼もが「運命の番」を神聖視し、思考を停止させる中で、ダリウスだけはまるで異物のようにそこに存在していた。
シェリアを愛しく抱き締めるその裏側で不快感に胃の腑を焼かれていようとも、ダリウスの運命の番ですらそれを理解しようとしない。気付いてくれさえしない。
ただ運命の番であることが特権のように振る舞い、平然とした顔でダリウスの平穏を壊していく。
愛し愛されて当然だというその眼差しに同じ熱量を抱くことはないのに、その瞳はダリウスのすべてを肯定する。
その瞳に見つめられる度に削れていく心は、ダリウス自身ですら止めることはできなかった。
ダリウスは幼い頃から不快感と共にあった。
何をしていなくても気持ち悪さが付きまとい、食事もろくに取れないこともあった。方々の医者に診てもらうために両親に負担をかけてしまうことを苦に思い、平然としたふりを通そうとしたことも一度や二度ではない。
両親が互いの親族から出来損ないを生んだと責められる場面を盗み見てしまった時は、どうして自分はこんな体に生まれてしまったのかと自責を繰り返す夜をすごした。
他とは明らかに様子の違うダリウスを、しかし両親は一度たりとも責めることなく、愛情を持って育ててくれた。
大丈夫だと微笑む両親の姿にダリウスは唯一癒され、何としても他の者たちと同じ体質になれるよう、願い続けた。
だが、そんな日々もある日唐突に終わりを告げる。
ようやく面会を取り付けることができた、賢者とも噂される医者の診察を受けた後。その年老いたフクロウ型の獣人は、法悦の滲む顔で診察結果を伝えてきた。
それは「運命の番」という、獣人族の悲願ともいうべき選ばれし者にだけ与えられる宿命。
直近で記録に残る運命の番は、およそ五十年ほど前にふたつ隣の街で結ばれ合った。
その時は国を挙げての祝いとなり、その街は運命の番を探すために国中から若者たちが集まり、溢れかえったというほどの熱狂だったらしい。
医者のその神託ともいうべき診断結果に、誰よりも喜び騒いだのは両親だった。両親は運命の番ではなかったが、それでも獣人族に生まれた者として憧れは常に持ち続けていた。
運命の番とは結ばれなかったが、運命の番の片割れの親となれた。
その事実が、両親を「運命の番」という信仰へと向けさせた。
彼らはダリウスの両親であることよりも、運命の番を生んだ親であることを選んだのだ。
息子を下にも置かぬ扱いで育て始めた両親を、ダリウスはひどく醒めた目で眺めていた。すべてが遠い世界の出来事のようだった。
加速する気持ち悪さに耐えきれず、一度だけ両親に初めて八つ当たりをしてしまったことがあった。ダリウスはすぐに我に返り頭を下げて謝ったが、両親はまるで自分たちこそが悪とばかりにダリウスに媚び諂った。
運命の番を待つダリウスを傷付けた方が悪いのだ、と。
平身低頭する両親の姿に、ダリウスは悟らずにいられなかった。
自分が愛した両親はもうどこにもいないのだと。
それからは彼らをただ同居人として眺め、ダリウスは成人を済ませるとともに家を出た。
無断で家を出れば捜索隊が組まれただろうが、「運命の番を探す旅に出る」といえば、街が総出でダリウスを見送った。
彼がこの国のどこかで、運命の番と出会えることを祈って。
そうしてダリウスは両親のもとを離れ、初めてまともに呼吸ができた気がした。付き纏う不快感は変わらずあったが、それでもダリウスを「運命の番」持ちと知らぬ人々と共にすごしていれば、ようやく自分が他と変わらぬただの獣人となれた気がしたのだ。
少しでも心の不快感を失くそうと薬師としての技術を身に着け、何のしがらみもなく息ができるというささやかな幸福を堪能していた時。
ダリウスの運命は大きく狂い始めた。
それは薬師となって数年後の頃。
商会に頼んでいた貴重な薬草が入荷したという報せを聞き、アポイントを取りつけた翌日。その日は朝から妙な胸騒ぎを覚え、落ち着いてなどいられない焦燥感に駆られていた。込み上げてくる吐き気もいつもよりひどい。
ろくな朝食も摂れぬまま商会へと向かおうとして、家を出た瞬間。
ダリウスの全身の毛が総毛立ち、鼓動はドクドクと逸り始めていた。ふらつきながら踏み出した一歩はすぐさま地を駆けるものとなり、ダリウスの吐き気を置き去りにしたまま、感情が、本能が騒ぎ続けていた。
一心不乱に走り、辿り着いたのはアポイントを予定していた商会だった。
なぜ、と疑問に思う必要はなかった。
なぜなら商会の扉の入り口に、ダリウスと同じように焦燥に駆られたような一人の犬型獣人のメスがいたからだ。
視線が絡んだ瞬間に二人は雷に打たれたように体を震わせ、そして同時に駆け出した。
早朝に起きたその「運命の番」が出会う瞬間を目撃した者は少なくなかった。
敷地の外には普段と様子のおかしいダリウスを心配して追いかけてきていた者がいたし、同じく商会の扉の向こうにも不安そうに眺める者がいた。
そして目の前で起きている出来事が「運命の番」の出会いと気付くなり――、街は一挙に祭りのような賑わいの様子を見せた。
そんな周囲の騒がしさも意識に入らないほどダリウスとシェリアはきつい抱擁を交わし続け――、ダリウスは強制的に湧き上がる昂揚の中で、愕然とした絶望を感じ取っていた。
あのフクロウ型獣人の医者は言っていたではないか。
「番を求める心が強すぎるあまり、まだ小さな器が耐えきれず、当てられてしまっているのだ」と。
だからダリウスは早く心身が大きくなるように鍛えたし、成人の時を待ち侘びていた。器が小さなせいで耐えきれないのなら、器を大きくすればいいと。
……だが、どこかで薄々とは気付いていたのだ。
ダリウスの症状は成人を過ぎても治まる気配がなかった。むしろ、子が成せるようになってからは、悪化すらしていた。
だからこそダリウスは、心のどこかでは願っていたのかもしれない。
運命の番と巡り合うことができれば、この心の不快感も消え去るのではないか、と。
今は不快に感じるこの感情も、運命の番とやらに出会えば心地よいものに変わるのではないか、と。
けれど、シェリアを抱き締めながら抱く悍ましさは、ダリウスを絶望させるのに十分だった。
柔らかな毛並みもダリウスを覗き込む大きな瞳も、彼女の匂いも。
シェリアの前に立つと自己が分裂を起こしてしまったように、二つの相反する感情がせめぐ。その乖離に耐えきれずダリウスが思わず流してしまった涙は、ただ単に運命の番への愛しさからこぼれたものだとしか受け止められなかった。
ダリウスの個としての尊厳など、そんなものは最初からどこにもありはしなかったのだ。
ただ定められた運命が望むままに。
ダリウスの腕はシェリアを愛おしく憎らしく抱き締め、見つめ合う瞳で慈しみ嫌悪し、ぬくもりに安らぎを悍ましさを抱き続けて生きていく。
抱き合う腕を緩める仕草は名残を惜しんでいるようで、その実、安堵を悟られまいと気遣っただけであることを知るのはダリウス一人。
ダリウスとて、運命の番を信じ切ったシェリアをいたずらに傷付けたいわけではない。それだけは本能も理性も唯一合致した感情だった。
本当は彼女を突き放せたらよかったのだろう。だが、運命の番を求めるところの感情が、ダリウスの根源にある何かがそれを許さない。シェリアが傷付けばダリウス自身も傷付くことになると、本能でそれを理解していた。
だからこそ、始末が悪い。
別離は単純な話ではなく、許容もまたダリウスに負担を強いる。
「ダリウス?」
「……いや。どうしてこんなにもお前を愛しく思うのだろうかと、考えていた」
部屋を移動してシェリアが用意した弁当を二人で食べ終わった後。ダリウスはシェリアの柔らかな毛並みを撫で梳きながら呟いた。
運命の番でさえなければ、普通に愛せていたかもしれないのに。
だが、運命であるからこそ引き合うように二人は出会い、かたく結ばれた。
「そんなの決まってるわ。私たちは運命だもの」
無邪気に笑むその喉元に喰らいついて喰いちぎってやりたい。何の苦悩も気持ち悪さも理解してくれず、運命を享受するだけの悍ましい生き物のくせに。
しかし何よりも悍ましいのは、そう唾棄しながらも慈しむことを止められない自分自身だ。
「そう、だな……。俺たちは運命だ」
「そうよ! 私の運命があなたでよかった、ダリウス。あなたと出会う前になんてもう戻れない。毎日が幸せで、明日はもっと幸せになる気がするのよ」
「……それは、よかった」
その犠牲はダリウスの平穏を犠牲に築かれるものだ。
シェリアの中ではダリウスと二人、幸福に暮らす未来が見えているのだろう。ダリウスが心を殺すことができれば、それは叶うかもしれない。しかしそれは、ダリウスが獣人としての知性を失い、ただの獣と成り下がった時にのみ、成り立つ。
獣人としての誇りを捨てられず、運命の番に獣と交わるという恥辱を与えられないダリウスには、到底叶えられそうにない願いだった。
「……もう帰らないと。いつまでもダリウスの仕事の邪魔はできないものね」
一時的な別れだとわかっていても、身を割かれるような痛みが込み上げてくる。
すでに普段の休憩時間はとっくに過ぎている。だが、運命の番の逢瀬を邪魔することはできないからと、誰もダリウスを探さず、咎めない。
たとえこのままシェリアと共に帰ったとしても、仲の良い証拠だと羨まれて終わるだけだ。
そういう世界なのだ。
ダリウス一人が息苦しさを抱く、この世界は。
健気な表情の奥に寂しさを覗かせるシェリアに、理性は「早く帰れ!」と叫び、感情は「帰るな!」と叫ぶ。
ダリウスは二律背反にわななく腕でシェリアを抱き締めると、深く、重く息を吐き出した。
「……送っていく。だからそんな顔をするな」
きっとシェリアを送り届けてからも、玄関先で似たようなやりとりを繰り返すのだろう。飽きることもなく、何度も、何度も。何度も何度も何度も何度も。
烈しい情動に鳴る喉の意味をシェリアが理解してくれる日は、訪れない。
「っ、ぅぐ……っ、ぅっ、おぇっ……っ」
ダリウスはシェリアを送り届けた後。裏路地に入ると、込み上げてくる吐き気を耐えきれず、昼食をすべて戻した。未消化のサンドイッチが胃液と共に地面に吐き出され、辺りに饐えた臭いが広がっていく。
吐いても吐いても胃の気持ち悪さはなくならず、それどこか酸に焼かれる胃が痛みを訴え、頭まで痛み始める始末。
ダリウスはひとまずの嘔吐感が消えると、冷静に腰のポシェットから薬瓶を取り出し一息に口に流し込んだ。仕事の合間に調合していた特性の薬だ。嘔吐で荒れた胃を保護し、一時的にだが気持ちを和らげてくれる。
深呼吸で胃酸と安定薬の匂いを吐き出し、ダリウスは取り出したもう一本の瓶の中身を吐しゃ物に降りかけた。これは単なる消臭剤で、さらに土をかけて隠ぺいしてしまえば誰に気付かれることもない。
一連の動作には、明らかに慣れがあった。
ただの作業であるように淡々と処理を済ませると、ダリウスは重い足取りで職場への道を引き返した。
◇ ◇ ◇
それからもダリウスとシェリアの関係は穏やかに続けられていた。
シェリアは変わらず昼時になると弁当を持参してダリウスや同僚たちの仕事の手を止めさせ、気を利かせて姿を消していく同僚たちに罪悪感と見捨てられるような失望を抱きながらダリウスはシェリアを愛しく憎たらしく出迎える。
運命の番が何よりも優先される世界で、抵抗をするだけ無駄なのだ。たとえ運命の番を持つ獣人であろうとも、運命を否定することは許されない。
昼食後にダリウスがシェリアを送り届け、裏路地で嘔吐を繰り返すことも変わらずだったが、それでもダリウスが自分を見失わずにいられたのは、理性的であったのは自宅という休まるプライベート空間があったからだ。
家に帰れば安心が待っている。
そう思えばこその忍耐であったのに。
「……は? 俺の家に?」
信じられず、思わず聞き返してしまったダリウスに、シェリアは僅かに憂いを帯びた表情で胸に縋ってきた。無意識にその体を抱き止めてしまってから、ダリウスはシェリアの顔を見つめた。
シェリアの瞳に映るダリウスの顔が、歪んで見えた。
「そうよ。……ねぇ、ダリウス。あなたが私のことを大事にしてくれていることはわかっているわ。あなたはいつだって私に優しくて、壊れ物に触れるように接してくれる。だから私ももっとその気持ちに応えたいの。あなたのお部屋で帰りを待たせて、ダリウス」
「いや、だが……、それは」
「そうしたら、自分の部屋ならダリウスも気兼ねしないで済むでしょう? あなたってば私を見てばかりで、結局いつも慌ててご飯を食べているから」
私も同じだけど、と、はにかんで微笑むシェリアを、ダリウスは突き放したくてたまらなかった。
そこまで気付いていながら、なぜ都合のいい解釈をするのか。
シェリアばかりを見てしまうのは確かに運命の番に対する希求もあるだろうが、一番はそうすることで食事に宛てる時間が減らせるからだ。
気持ち悪さを訴える胃に食事に押し込むのは苦行と変わらない。
だからダリウスは、そうやってひとつずつ折り合いの付け方を模索していたのに。
家に帰ったらシェリアがいる。
そう考えた瞬間、ダリウスの全身を震えが襲っていた。
いきなり身震いを起こしたダリウスにシェリアが短く悲鳴を上げ、その声にダリウスの尻尾が大きく膨れ上がった。ピンッと立ち上がった耳も、ピクピクと周囲を警戒するように動いていた。
悲鳴を上げたシェリアを心配する気持ちは本物だった。
だが、その顔が僅かに赤らんでいるように見える様子に、恥ずかしがっているような素振りに、耳と尻尾は途端に萎れていた。
「や、やだっ。私ったらそんなつもりは……、あっ、でも、ダリウスのお部屋ってことは……」
今度はシェリアが綿毛のような毛並みを小さく震わせ、狼狽え始める。
ダリウスはそれを微笑ましく、気味悪く眺めていた。
(コレ、が、俺の家に……?)
職場を侵すだけでは飽き足らず、ついに家にまで侵入してくるのか。
初めて異性を部屋に招く高揚を感じた直後には、ダリウスはただただ逃げ場のない場所へと追い込まれていく閉塞感を抱いていた。
結局。
ダリウスの心がどれほど拒もうとも、運命の番と惹かれ合う感情に勝れるものはない。
翌日にシェリアの願い通り渡してしまった部屋の合鍵。
それが地獄の始まりだった。
昼も夜もシェリアが傍にいる。
傍にいなくても、朝出勤すれば同僚たちから向けられる羨望が強くなった。薬の調合に集中していれば周囲の雑音も意識には入らなかったが、いくら強靭さを誇る狼獣人であろうとも、休まる時間のない日々の心労にささいなミスが頻発していた。
幸い、大きな事故に繋がるようなことだけはなかったが、取り扱う薬草の中には劇薬の材料となるものもあった。
「聞いたぞ、ダリウス。巣に招いた番が心配で不安なのはわかるが、安定するまで休みを取るか?」
番と共に暮らし始めた獣人の中には一定数、環境の変化に追いつけずに情緒を乱してしまうことがあった。それまでたまに感じていた愛する番の匂いが、四六時中感じられるようになるのだ。
同棲や同居直後から体調を崩し始める獣人の症例は珍しいことではなく、運命の番同士であればなおさらだろうと、所長のその申し出は善意以外の何物でもなかった。
だが、ダリウスにとってはシェリアの匂いが消えないあの部屋にいることが、心地よくも不快の元なのだ。
冗談ではないと申し出をやんわりと拒絶したダリウスの虚勢は、運命の番に弱った姿を見せたくないオスの見栄としか受け止められなかった。
普段職場で抱き合う二人の姿を目撃されていたからこそ、運命であるからこそ、ダリウスの苦悩は誰にも理解されなかった。
そこに苦悩があると微塵も思われない。
運命の番たちはその「宿命」がゆえに、幸福であると信仰に似た妄信さで捉えられているのだ。
運命の番に不幸が訪れた前例はない。皆が幸福に互いを慈しみ愛し合ったと、盲目的に囁かれ続けるだけ。
そして悲劇は起こる。
ある日の朝、ダリウスはついに家の中で倒れてしまった。それを発見したのはいつも通り、食事を作るために家を訪れたシェリアだ。
床に倒れるダリウスの姿を見つけるなり大きく取り乱し、近隣を巻き込んだ騒ぎとなった。ダリウスが目覚めた時にはベッドに寝かされており、傍らには泣き濡れた様子のシェリアがいた。
「目が覚めたのね! ダリウスっ」
「シェ、リア……?」
「そうよ」
知らぬ間に家の中に入り込まれていた不快感。
何より無防備な目覚めの瞬間に味わう悍ましさに、ダリウスは耐えることもできずシーツに胃液を染み込ませた。
慌てたシェリアに擦られる背中から、近付いたことでより濃く感じてしまう番の匂いに、ますますダリウスの精神が追い詰められていく。
嬉しい憎たらしい恋しい煩わしい愛おしい悍ましい。
「一人で苦しまないで、ダリウス。私はここにいるわ。もう大丈夫、心配いらないの」
見当違いな独りよがりな慰めに心がささくれ立っていく。
柔らかに囁く声が、まるで真綿で締めつけるようにダリウスの胃を不快にする。
ガンガンと軋むように痛み始める頭を押さえれば、ダリウスより一回り以上も小さな手がそっと伸ばされてくる。
その影に、気配に、圧迫感に。
不快なものを避けようとする生存本能がたまらなく警鐘を鳴らす。
たまらない頭の痛みにふっと意識が遠のきかけた――瞬間。
生命の危機を直前にした生存本能が燃え上がらせたのは、どうしようもない反発の情動だった。
ドタガタッ、と。
何かが崩れ落ちる音が連鎖的に響き、遅れて小さな呻き声のようなものが部屋に落ちる。
ダリウスがハッと我に返り室内に目を向けると、シェリアが床にぐったりと倒れていた。その光景にまた胃液がせり上がってきて、何度も何度も吐き続ける。
それは自ら運命の番を傷付けてしまった深い悔恨。
だが。
「は、ハハ……ッ、ハハハッ、ハハはハハハはハ──ぅぇっ、……ははッ!」
哄笑を繰り返しながら嘔吐し、吐き出すものに赤が混ざり始めた頃。
「そうか、──そうか! こんなに簡単なことだったのか!」
瞳を爛々とぎらつかせて、ダリウスが吼える。
じくじくと痛む胸を自覚しながらも、ダリウスの心は、生まれて初めてすっきりとした何物にも煩わされない解放感に満ちていた。
ゆらり、と吐しゃ物まみれのベッドから立ち上がり、いつまでも起き上がろうとしないシェリアを見下ろす。
当たり前だ。
狼獣人が理性の箍も外れた本気の力で殴り飛ばせば、小型の犬獣人などひとたまりもない。
「死んだか……?」
シェリアの呼吸を確かめて、大きく舌打ちする。背後で尻尾が苛立たしげに床を叩いていた。
ダリウスはその傍らに胡坐をかいて座り込むと、落ち着きのない様子で膝を揺すった。
あんなにも常に体に纏わり付くようにあった不快感も薄れ、運命の番として愛おしく憎たらしく思っていたメスに対して、強い情動を抱くことはない。
静かに凪いだダリウスの胸に残滓のように揺蕩うのは、憐憫、寂寥、──喪失感。
ああ、もうすぐシェリアは死ぬのだ。
こんなにもあっさりと。
献身的に支えようとした運命の番に殴り殺されて。
「可哀想なシェリア。お前はただ自分の運命の番を愛していただけなのにな」
──その日。
犬獣人のメスが密かに息を引き取った。
彼女のために行われた葬儀は、運命の番と持て囃され信仰されていたことなど嘘のようにひっそりとしたものだった。
参列は近親者のみで、それでも親族の中には欠席を選んだ者もいる。
あれだけ顔を合わせていたダリウスの職場からは、誰も弔問に訪れなかった。
番といえど、命を奪うような犯罪には重罰が課せられる。
しかし、ダリウスは簡単な聴取を受けるだけですぐに解放され、職場へもすんなりと復帰できていた。
周囲はダリウスに同情的だった。
番を亡くす喪失は、半身を失くすようなもの。
それが「運命の番」となれば、ダリウスも後追いをしかねないと思われた。
周囲はダリウスを一人にしないよう、なにくれと世話を焼き、話しかけ続けた。
「あれはきっと「運命の番」の出来損ないだったんだ。君は何も悪くない」
「君ほど優秀な狼獣人では荷が重かったんだろう。仕方ないさ」
「無理をしなくていいんだ、ダリウス。運命の番を亡くす辛さは、誰だって経験したくないものだ」
「君は一人じゃない。皆で君を支えるから、もっと周囲を頼ってくれ」
手のひらを返したような周囲の変化にも、腫れ物に触れるような扱いにも、ダリウスが何かを思うことはなかった。
実際、ダリウスはあのムカムカとした気持ち悪さが解消されると同時に、胸にぽっかりと大きな穴ができたような深い喪失を抱いていた。
日々を生きるのは惰性でしかなく、だが、後追いを──自殺をするつもりはなかった。
それはダリウスの心が否定し続けた「運命の番」を肯定することになる。
ダリウスはこの世界のバグなのだ。
「運命の番」を持ち、「運命の番」と結ばれながら、「運命の番」を否定する、致命的な世界の「バグ」。
その存在意義を失えば、それこそダリウスの人生は意味のないものとなってしまう。
だから、ダリウスは今日も生きている。
憎くて愛しい運命の番を殴り殺した感触と共に。




