第9章 狩りの距離
屋根瓦が鳴らない。
鳴らないのに――背中に、重さが乗った。
来た、と分かる。
私が振り向かなくても、空気が教えてくる。夜の密度が変わる。背後の影が、僅かに締まる。
私は足を止めない。止めれば、そこで戦いになる。
屋根の稜線をなぞるように滑り、煙突の影を跨ぎ、雨樋の脇を抜ける。
高く跳べば、街灯の白い帯に輪郭が浮く。私は街の上を通るだけでいい。街の中へ落ちる必要はない。
――それでも、重さが追いついてくる。
追い手は走っている。
それが分かるのに、瓦が鳴らない。風も乱れない。息も聞こえない。
音だけが欠けていて、結果だけが迫る。
私は速度を上げた。屋根の端から隣の屋根へ、間隔の狭い隙間を越える。人間なら躊躇する幅だ。躊躇した瞬間に終わる。
背後が遅れない。
空中で、何かが一度だけ沈む気配がした。
着地の重心だけが見える。音はない。瓦も割れない。
屋根が拒まない。――人間のはずなのに。
手練だ。
祈りの匂いが二つ、遠くにあった。一般人に紛れた観測役。こちらを“見ている”だけの気配。さっきまで、あれはただの静かな線だった。
しかし今、その線が乱れる。
追うのではない。引く。
慌てて遠ざかる匂いだ。報告に向かう気配。
人間の技が混じった。追跡が始まった。それだけで、人は言葉にできる。
面倒が増える。
余計な目が増える。余計な手が増える。
私は歯噛みして、進路を変えた。
人の気配が薄くなる方角へ。倉庫街へ。
港に近い倉庫は、夜でも眠りきらない。見張りの灯りが点々とあり、車輪の軋みや縄の擦れる音が途切れない。それでも住宅地よりは、人の線が少ない。巻き込まずに済む。
背中の重さが、少し軽くなった。
追い手が確信したときの軽さ。
私の行き先を読んだ――そういう軽さ。
次の瞬間、前方の影が「固く」なった。
空気が壁みたいに立つ。
見えないのに、そこにある。そこへ踏み込めば、何かに触れる。触れた瞬間、絡め取られる。
私は横へ跳んだ。屋根の端から雨除けへ――倉庫の搬入口に張り出した小さな屋根の上へ滑り降りる。雨除けの板が僅かにきしむ。人の耳にはただの木の鳴りだ。
私はさらに低い影へ落ちる。雨樋の裏、壁の飾り縁、窓枠の出っ張り。地面へは降りない。地面は人の線が多すぎる。
――背後が落ちてきた。
音がない。
衝撃だけが来る。
風でもない、夜の振動が肩の後ろを掠める。
私は身を捻り、影の中で距離をずらした。間一髪で何かが通る。短い金属の気配。刃のように細い意志。
追い手が、ようやく姿を見せた。
街灯の明るさの端に、男の輪郭が浮く。外套。短剣。
夜の暗がりで顔の細部までは見えない。けれど目だけは分かる。こちらを“命”としてではなく、“対象”として測る目。
追いつける距離だ。追いつく気だ。
私は走りながら、灯りを細く保った。
強く光れば、見失わせることはできる。けれど街が騒ぐ。港の見張りが振り向く。倉庫の中の人間が顔を上げる。人の線が増えれば増えるほど、危険は増える。
――私は、街を壊したくない。
追い手はそれを知っている。
私が選べない手を、逃げ道として削ってくる。
前方の影がまた硬くなる。さっきとは違う。今度は「ここを通れ」と言っているみたいに、通れる影だけが残されている。
道を追うのではない。道を作り替える。逃げる方向を、ひとつに絞ってくる。
次から次へと張り巡らされた対精霊特化の罠が厄介だ。精霊一人を捕まえるためだとしても度が過ぎている。
私はその意図を噛んで、別の高さへ逃げた。
雨除けから屋根へ戻るのではなく、倉庫の壁を伝い、窓枠の縁を足場にして上へ滑る。瓦の上は広い。広いほど狙われる。狭い縁を選ぶほうが、まだましだ。
――それでも、距離が縮む。
音がないまま、重さだけが迫る。
追い手の重心が、私の背中に貼り付いてくる。
私は振り向かない。振り向いた瞬間、速度が落ちる。
速度が落ちた瞬間、終わる。
倉庫の屋根が途切れる。暗がりが大きく口を開けている。
その向こうへ飛べば、見張りの灯りは減る。影は深くなる。逃げやすい。
けれど追い手は、影を恐れない。むしろ影で私を縫い止める。
私は息の形を作った。落ち着くために。
焦れば光が揺れる。揺れれば捕まえやすくなる。
胸の奥が熱い。灯りではない。追い手の意図が、背中を灼いている。
“次は逃さない”
言葉じゃないのに、そう聞こえる。
今夜、ここで終わらせるつもりなのは、私ではなく向こうだ。
私は決める。
このまま「静かに」走り続ければ、捕まる。
捕まれば、もっと面倒が増える。もっと人が巻き込まれる。もっと街が傷つく。
なら――切り方を選ぶしかない。
静かには済まない一手を。
倉庫の影が、さらに深くなる。
追い手の重さが、あと一歩まで迫る。
その一歩が届く前に、私は次の手を探した。




