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光の呼び名  作者: アルエル
序章
9/26

第9章 狩りの距離


屋根瓦が鳴らない。


鳴らないのに――背中に、重さが乗った。


来た、と分かる。

私が振り向かなくても、空気が教えてくる。夜の密度が変わる。背後の影が、僅かに締まる。


私は足を止めない。止めれば、そこで戦いになる。

屋根の稜線をなぞるように滑り、煙突の影を跨ぎ、雨樋の脇を抜ける。

高く跳べば、街灯の白い帯に輪郭が浮く。私は街の上を通るだけでいい。街の中へ落ちる必要はない。


――それでも、重さが追いついてくる。


追い手は走っている。

それが分かるのに、瓦が鳴らない。風も乱れない。息も聞こえない。

音だけが欠けていて、結果だけが迫る。


私は速度を上げた。屋根の端から隣の屋根へ、間隔の狭い隙間を越える。人間なら躊躇する幅だ。躊躇した瞬間に終わる。


背後が遅れない。


空中で、何かが一度だけ沈む気配がした。

着地の重心だけが見える。音はない。瓦も割れない。

屋根が拒まない。――人間のはずなのに。


手練だ。


祈りの匂いが二つ、遠くにあった。一般人に紛れた観測役。こちらを“見ている”だけの気配。さっきまで、あれはただの静かな線だった。


しかし今、その線が乱れる。


追うのではない。引く。

慌てて遠ざかる匂いだ。報告に向かう気配。

人間の技が混じった。追跡が始まった。それだけで、人は言葉にできる。


面倒が増える。

余計な目が増える。余計な手が増える。


私は歯噛みして、進路を変えた。

人の気配が薄くなる方角へ。倉庫街へ。


港に近い倉庫は、夜でも眠りきらない。見張りの灯りが点々とあり、車輪の軋みや縄の擦れる音が途切れない。それでも住宅地よりは、人の線が少ない。巻き込まずに済む。


背中の重さが、少し軽くなった。


追い手が確信したときの軽さ。

私の行き先を読んだ――そういう軽さ。


次の瞬間、前方の影が「固く」なった。


空気が壁みたいに立つ。

見えないのに、そこにある。そこへ踏み込めば、何かに触れる。触れた瞬間、絡め取られる。


私は横へ跳んだ。屋根の端から雨除けへ――倉庫の搬入口に張り出した小さな屋根の上へ滑り降りる。雨除けの板が僅かにきしむ。人の耳にはただの木の鳴りだ。


私はさらに低い影へ落ちる。雨樋の裏、壁の飾り縁、窓枠の出っ張り。地面へは降りない。地面は人の線が多すぎる。


――背後が落ちてきた。


音がない。

衝撃だけが来る。

風でもない、夜の振動が肩の後ろを掠める。


私は身を捻り、影の中で距離をずらした。間一髪で何かが通る。短い金属の気配。刃のように細い意志。


追い手が、ようやく姿を見せた。


街灯の明るさの端に、男の輪郭が浮く。外套。短剣。

夜の暗がりで顔の細部までは見えない。けれど目だけは分かる。こちらを“命”としてではなく、“対象”として測る目。


追いつける距離だ。追いつく気だ。


私は走りながら、灯りを細く保った。

強く光れば、見失わせることはできる。けれど街が騒ぐ。港の見張りが振り向く。倉庫の中の人間が顔を上げる。人の線が増えれば増えるほど、危険は増える。


――私は、街を壊したくない。


追い手はそれを知っている。

私が選べない手を、逃げ道として削ってくる。


前方の影がまた硬くなる。さっきとは違う。今度は「ここを通れ」と言っているみたいに、通れる影だけが残されている。

道を追うのではない。道を作り替える。逃げる方向を、ひとつに絞ってくる。


次から次へと張り巡らされた対精霊特化の罠が厄介だ。精霊一人を捕まえるためだとしても度が過ぎている。


私はその意図を噛んで、別の高さへ逃げた。

雨除けから屋根へ戻るのではなく、倉庫の壁を伝い、窓枠の縁を足場にして上へ滑る。瓦の上は広い。広いほど狙われる。狭い縁を選ぶほうが、まだましだ。


――それでも、距離が縮む。


音がないまま、重さだけが迫る。

追い手の重心が、私の背中に貼り付いてくる。


私は振り向かない。振り向いた瞬間、速度が落ちる。

速度が落ちた瞬間、終わる。


倉庫の屋根が途切れる。暗がりが大きく口を開けている。

その向こうへ飛べば、見張りの灯りは減る。影は深くなる。逃げやすい。

けれど追い手は、影を恐れない。むしろ影で私を縫い止める。


私は息の形を作った。落ち着くために。

焦れば光が揺れる。揺れれば捕まえやすくなる。


胸の奥が熱い。灯りではない。追い手の意図が、背中を灼いている。


“次は逃さない”


言葉じゃないのに、そう聞こえる。

今夜、ここで終わらせるつもりなのは、私ではなく向こうだ。


私は決める。

このまま「静かに」走り続ければ、捕まる。

捕まれば、もっと面倒が増える。もっと人が巻き込まれる。もっと街が傷つく。


なら――切り方を選ぶしかない。


静かには済まない一手を。


倉庫の影が、さらに深くなる。

追い手の重さが、あと一歩まで迫る。


その一歩が届く前に、私は次の手を探した。


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