第8章 仕込みの夜
キーラは窓辺で潮の高さを確かめ、帳簿を閉じた。
準備は整っている。逃げ道も整っている。
足りないのは――“商品”だけだ。
リーベの夜は、術式の街灯で白く伸びていた。均一な明るさは夜を安全に見せる。揺れない光は、心まで正しく照らすふりをする。
だからこそ、均一ではないものが混じると、余計に目につく。
「光がついてきた」
そんな噂が、勝手に育った。
誰が言い出したのかはどうでもいい。
噂が形になれば、人が集まる。人が集まれば、欲も集まる。
欲が集まれば――面倒が増える。
面倒は、値段が跳ねる。
値段が跳ねたら、回収できるものも回収できなくなる。
キーラは机の上に指先を置き、軽く叩いた。
癖だ。焦りを落とすための、商人の癖。
今夜で片をつける。
扉が鳴った。
鍵の音が一つ、そして静かに開く。
入ってきた男は挨拶を省いた。部屋の隅に立ったまま、外套の裾も揺らさない。
その気配の薄さだけで、彼がどんな仕事をしてきたか分かる。
マルクス。
「測りは終わった」
声は低い。言葉は少ない。
余計な説明がないのは、信用の材料になる。言い訳は長くなるからだ。
キーラは頷く。
「……捕まえられる?」
商人らしい問いだ。
勝てるかどうかではない。回収できるかどうか。それだけ。
マルクスは迷わず言った。
「今夜なら」
それだけで十分だった。
キーラは指を三本立てる。
数を見せるのは、相手に同意を求めるためじゃない。
自分の中の条件を確かめるためだ。
キーラは指を一本折った。
続けて二本目を折る。
最後の一本を折り切るとき、わずかに息を吐いた。
「守れる?」
短い問いに、意味を詰める。
傷を付けない。巻き込まない。目立たせない。
――その全部を、今夜も守れるのか。
マルクスは視線を外さない。
「中位精霊だ。追い詰めれば、何をするかわからない」
「分かってる」
キーラの声は乾いていた。恐れの乾きではない。損の匂いを嗅いだときの乾きだ。
「だから私も、余計な面倒は増やしたくない」
「この街は魔法使いの街よ。騒ぎになれば、すぐ“正しい人たち”が来る」
マルクスが窓の外へ目を向けた。街灯の帯の上、均一な光の外側にある揺れ――そこだけが別の速度で呼吸している。
「観測は?」
キーラは肩をすくめた。
「いるわ。一般人に扮した神官が二人」
「でも脅威じゃない」
遠い。遅い。今夜の脅威ではない。
それでも消えない。言葉にできる距離で見ている。
言葉はいつだって、面倒の種になる。
キーラは外套のフードを指先でなぞった。
顔を見られないための布。ここで生き残るための、薄い壁。
「船は?」
「用意は済んでる。出せる」
「捕まえたら、すぐ乗せて出る」
ここに留まる理由はない。
仕事が終わったら、終わった場所から消える。
それが商人が商人でいられるコツだ。
マルクスは淡々と言った。
「捕縛に入る」
合図だ。
キーラは頷き、指先で机を一度だけ叩いた。
その一回で、自分の計算を確定させる。
「目立たずに。――私は戦わない」
「分かっている」
マルクスは扉へ向かった。
去り際の気配が薄い。さっきまでそこにいたことすら、忘れそうな薄さだ。
キーラは窓に残り、港の暗がりを見た。
術式の街灯は、今夜も揺れない。
揺れない光が、世界を正しく見せる。
その正しさの外側に、揺れる光がある。
それを捕まえる。
捕まえて、ここではない場所へ移す。
――値札は、向こうで付ければいい。
机の上には余計なものを残していない。
名も、印も、繋がりも。
面倒を呼ぶ“証拠”は、最初から作らない。
出るのは、捕まえた後だけ。
失敗したら、この街で次の手を考える。
商売は、逃げ癖を付けたら終わりだ。
外で、どこかの屋根の影が動いた気がした。
風でも、人でもない。
均一な光の帯を、わずかに乱す揺れ。
マルクスが動いた。
そして、今度は逃さない――その意図だけが、
夜の奥で静かに濃くなっていく。




