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光の呼び名  作者: アルエル
ベルカン編
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第33章 双子とノア

ノアの声が廊下に落ちた。


「わたしは、あなたたちと契約します」


小さい。けれど割れなかった。


震えている。震えているのに、割れない。


キドの右手がノアの掌を握っていた。アイラの左手がノアの手首に触れていた。三つの手が重なっている。


闇色の光が広がった。紫がかった黒。床を這い、壁を舐め、天井に触れた。


光ではない。影でもない。感情の色だ。


キドが口を開いた。


掠れた声。声を出すこと自体が久しぶりの掠れ方。けれどその掠れの奥に、別の音がある。


人の言葉ではない。精霊の言葉だ。


キドが詠い始めた。アイラが続いた。二つの声が交互に重なり、一つの祝詞を紡いでいく。


――いま、契りを結ぶ。


――我がマナ、汝がマナに。

――汝がマナ、我がマナに。


廊下の空気が変わった。冷たくなったのではない。密度が増した。感情が形を持ち始めている。


――闇は重なり、息は交わり、名は環となる。


エイドの耳に、あの夜の記憶がよぎった。倉庫街。暗い路地。リュミエルが詠った言葉と、骨格が同じだ。


精霊の契約には型がある。光も闇も、同じ型で結ぶ。


――ここに誓う。

――この契りもて結ばれ、互いの命尽くるその時まで。

――理のもとに在りて、離れず、背かず、捨て置かず。


――我は汝に、真名の一部を授く。


キドの声が先に落ちた。


――我が名は、キド・シェイラ。


アイラの声が続いた。


――我が名は、アイラ・シェイラ。


同じ姓。双子の名。


二つの名が廊下に響いて消えた。消えた後に、問いかけだけが残った。


最後の確認。精霊の側から問う。リュミエルの時と同じだ。


「……あなたの名を」


ノアの目から涙がこぼれた。拭わなかった。


「わたしの名は、ノア・シュタイン」


声が震えていた。震えているのに、通った。


最後の言葉が双子の口から落ちた。


――闇よ、寄り添え。汝の道を、静かに照らそう。


その瞬間、何かが噛み合った。


三つの手が握り合ったまま、闇色の光が一段強くなった。紫がかった黒。温かくはない。冷たくもない。


揺れている。けれど消えない。灯ったばかりの火が、少しずつ形を定めていく。


契約が成った。



闇色の光が、廊下を満たした。


床を這うだけだった光が、壁を伝い、天井に触れ、空気そのものを染めていく。


温かい。


温かいのではない。安らかなのだ。


アイラの力だった。躊躇を消し、罪悪感を薄める鎮静の力。ホールではブレーキを外す道具だった。


今、アイラはその力の向きを変えていた。


鎮めるのではない。安らがせる。


怒りを消すのではなく、緊張を溶かす。戦意を削るのではなく、体から力を抜く。安らぎが深くなれば、それは眠気になる。


楽にさせる力。


廊下の奥で、ザックの後ろにいた部下たちの足が止まった。


一人目。膝が折れた。曲げたのではない。力が抜けたのだ。武器を持った手が垂れ、壁にもたれかかった。目が半分閉じている。


二人目。立ったまま、首が傾いた。眠りに落ちかけている。意識があるのに、体が従わない。


三人目。四人目。ミレイの風の壁を越えようとしていた警備が、足を止めた。止めたのではない。止まったのだ。膝が笑い、武器が床を叩く音だけが残った。


増援も同じだった。廊下の奥から走ってきた新手が、闇色の光に触れた瞬間、足が鈍り、壁に手をついて崩れた。


誰も倒れてはいない。誰も傷ついてはいない。


ただ、楽になっている。


楽になりすぎて、立てなくなっている。


ミレイが振り返った。目が大きくなっている。


「……何、これ」


スウィフトが手首の輪で身を震わせた。


『眠りだ。あの子の力が広がってる』


風の壁がもう要らなくなっていた。止めるべき相手が、全員座り込んでいる。



ザックだけが、立っていた。


膝が震えている。曲刀を握る指が白い。意識を保つために、歯を食いしばっている。


眠い。体が楽になっている。筋が弛緩しようとしている。


けれどこの男は、楽に流されない。


海で生き残った体は、嵐の中でも意識を手放さない。嵐を何度もくぐった男だけが持つ、意識の根の深さ。


「……面白え」


声が鈍い。鈍いけれど出た。


「精霊の力で、俺の部下を全員寝かせたのか」


曲刀を構え直した。構えはできる。けれど腕が重い。足が重い。さっきまでの半分も出ない。


エイドは見た。


ザックがまだ立っている。部下は全員座り込んでいる。廊下はもう安全だ。


残っているのはザックだけ。


そのザックも、限界に近い。


今だ。


エイドの足が床を蹴った。均衡の力がまだ残っている。腕は痺れている。頭は痛い。視界の端は暗い。


けれど槍は握れる。


突き。腰の回転で撃つ。穂先がザックの胸を狙った。


ザックが曲刀で弾こうとした。遅い。さっきまでの反応速度がない。穂先が曲刀の腹を滑り、通過した。


ザックが半身になって躱した。躱し方が浅い。穂先が外套の肩口を裂いた。肉に触れた。浅い。血がにじむ。


怒りが立ち上がらない。怒りを燃料にする戦い方が、燃料を断たれている。体も楽に引きずられている。


エイドは穂先を引かなかった。突きの戻りに柄の払いを繋いだ。石突きがザックの膝の横を叩いた。


ザックの膝が折れかけた。堪えた。けれど堪え方が鈍い。眠気に抗う足には、踏ん張る余力がない。


エイドが踏み込んだ。槍を横に構え、柄の腹でザックの胸を押した。


さっきと同じ動き。力比べ。


さっきは押し負けた。


今度は違った。


ザックの足が滑った。戦意が削られ、眠気に蝕まれた足は、床を掴めない。


押し込んだ。一歩。二歩。ザックの背中が壁に近づく。


ザックが曲刀を振った。横薙ぎ。けれど腕が遅い。振りが浅い。


エイドは槍の柄で弾いた。弾けた。さっきまで弾けなかった一撃が、弾けた。


弾いた勢いのまま、エイドは全体重を槍の柄に乗せた。


柄の腹がザックの胸に入った。


ザックの体が浮いた。浮いた体が壁に叩きつけられた。


石が鳴った。背中が壁を打つ鈍い音。


曲刀が手から離れた。刃が床を叩いた。甲高い音。


ザックの体が壁を滑り、床に崩れた。


動かない。


エイドは槍を構えたまま、息を荒くして立っていた。


一拍。二拍。


ザックの胸が動いた。呼吸している。


生きている。気絶しているだけだ。


エイドの膝が折れた。槍を杖にして、かろうじて倒れなかった。



廊下が静かだった。


静かというより、穏やかだった。


ザックの部下たちが壁にもたれて座り込んでいる。武器が足元に転がっている。目を閉じている者。半分開いている者。誰も動かない。眠りと覚醒の境目で、安らかに力を失っている。


ミレイがエイドの肩を支えた。


「エイド」


「……大丈夫」


嘘だ。槍に体重を預けているだけだ。


ミレイの目がザックを見た。壁にもたれて動かない体。胸が上下している。


「気絶?」


「たぶん」


「殺してない?」


「殺してない」


ミレイの肩の力が抜けた。


ノアが双子を連れて近づいた。キドの目がザックを見ている。怯えではない。アイラの目は半分閉じていた。力を使った消耗だ。けれどノアの手はまだ握っている。


「……契約、できた?」


エイドが聞いた。間抜けな聞き方だ。けれど他に言葉がない。


ノアは頷いた。小さく。確かに。


「……はい」


リュミエルのヴェールが揺れた。穏やかな揺れ。見守っている揺れ。


エイドはザックの横を通り過ぎようとした。


通り過ぎる瞬間、足が止まった。


ザックの顔を見た。気絶した顔。頬の傷。汗が乾いた跡。


覚えておけ。お前は誰かの笑顔を踏みにじって正しいことをしてるんだよ。


答えはまだない。


エイドは目を逸らして、歩き出した。



廊下の先から、風の匂いがした。


海の匂い。潮の匂い。屋敷の匂いではない。


外から来る匂いだ。


ミレイが足を止めた。スウィフトが手首の輪から一筋、廊下の先へ吹いた。


風が戻る。戻り方が速い。


「……人がいる。大勢。屋敷の外」


ミレイの声が硬い。


「敵?」


エイドが聞いた。


「分からない。けど、風の匂いが違う。港の風。船の――」


その瞬間。


銃声が鳴った。


一発。遠い。会場の方角。


乾いた音が石の壁を伝い、廊下を走り、耳に届いた。


直後に怒号が来た。ホールの封鎖が、外側から破られた音だ。


エイドの体が固まった。


「……なんだ、あれ」


ミレイも動けない。


「分からない」


ノアが双子の手を握ったまま、廊下の先を見ている。


銃声の余韻が消えた後に、声がいくつも重なって聞こえた。遠い。言葉は分からない。けれど命令の声だ。複数の足音が一斉に動く音。


誰かが来た。


誰なのかは、分からない。


廊下の先から、海の風が吹いてきた。潮の匂い。遠くから来た風。


味方か敵かも分からないまま、風だけが届いている。

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