第31章 崩れる舞台
ホールの空気は、まだ揃っていた。
キーラは客の列に紛れ、仮面の奥で目だけを動かしている。壁際。出口までの距離。警備の配置。数えながら、息だけを合わせる。
客は笑っている。笑い方が同じだ。間が同じ。声の高さが同じ。
気味が悪い。
最初に入った時から感じていた。けれど今は、理由を知っている。屋敷の奥で見た導管。壁を走る溝のある管。あれがホールへ繋がっている。
この笑いは作りものだ。
分かっている。分かっているのに、胸の奥が妙に軽い。
札を上げたくなる。値段を見ても怖くない。隣の客と一緒に笑いたくなる。躊躇が溶ける感覚。楽だ。楽なのが、気持ち悪い。
キーラは奥歯を噛んだ。
これは私の感情じゃない。あの管から流れてきた波。原因が分かっている。分かっているなら、乗らなくていい。
楽さを、意志で押し戻す。重い。重いけれど、できる。
知らなければ飲まれていた。知っているから、踏みとどまれる。
司会の声が響く。次の出品物の説明が流れ、客が一斉に頷く。頷きの角度まで似ている。
キーラは札を持ったまま動かない。動かないことが、この場では最も目立たない。
出口は三つ。正面の大扉。左手の給仕口。右手の柱の裏にある小扉。
正面は警備が二人。給仕口は配膳の人間が行き来している。小扉は閉じている。鍵がかかっているかは分からない。
計算する。どの出口が一番早いか。どの混乱が一番使えるか。
まだ、動く時じゃない。
*
変化は、音から来た。
拍手が、ずれた。
司会の声に合わせて揃っていた手が、一拍だけ遅れる客がいた。たった一人。たった一拍。
けれど揃っていたものが一つでもずれると、空気が変わる。
キーラの耳が拾った。ずれは一人では終わらなかった。
二人。三人。五人。
拍手の密度が薄くなっていく。笑い声が途切れる。途切れた隙間に、別の音が混じる。
咳。椅子の軋み。囁き。
揃いが、ほどけている。
キーラは壁の方角を見た。ホールの奥。廊下がある方。屋敷の裏手。
変化はそちらから来ている。音の崩れ方に方角がある。奥から、手前へ。
あの子たちが、何かした。
確信ではない。けれど計算と合う。
管が切れたのか、緩んだのか。どちらにしても、客を操っていた力が弱まっている。弱まれば、揃いは崩れる。崩れれば――
使える。
出口を確保する。合流の道を作る。それが自分の仕事だ。
*
保管室。
会場の喧騒が、壁を越えて届いている。
エイドは双子を見た。少年はノアの手を握ったまま。少女は少年の袖を掴んだまま。三つの手が重なっている。
管は緩んだ。けれど、まだ繋がっている。
細い流れが残っていた。導管の中を、微かな波がまだホールへ向かっている。
ノアが言った。
「管だけでは、止めきれません。印が……回路を維持しようとしている」
声が低い。教会で学んだ知識が、今この場で使われている。
エイドは導管を見た。金属の表面。溝の中を走る、目に見えない波。
見えない。けれど、そこに何かがあることだけは分かる。歪み。嘘。作られたもの。
槍の柄が、手のひらの中で熱を持った。
熱ではない。温度は変わらない。けれど、柄の内側を何かが通った。白い糸のような一筋。眩しくない。
リュミエルのヴェールが揺れた。揺れ方が、さっきと違う。承認の揺れだ。
「……ほどきなさい」
静かだった。命令ではない。許可だった。
嘘を照らす光。歪みを露わにする力。偽装の弱い部分が浮く。
エイドは槍の穂先を導管に触れさせた。
白い光が走った。眩しくない。けれど、導管の表面に線が浮かぶ。溝の中の流れが可視化される。どこが強く、どこが弱く、どこが歪んでいるか。
印から管への接続部。そこだけが、色が違った。
「ノア。ここだ」
ノアは双子の手を離さなかった。離さないまま、左手だけを伸ばした。
光に浮かんだ継ぎ目に、指を入れる。
管が軋む。少年が身を縮めた。少女の指がノアの袖を掴んだ。
「……ごめんなさい。もう少しだけ」
ノアの指が引いた。
管が、外れた。
今度は完全に。金属が皮膚から離れ、導管との接続が切れた。少年の胸の印が、一瞬だけ光って消えた。
少女の方も同じ。光が触れた継ぎ目を、ノアが断つ。印が光り、消える。
導管の中が空になった。流れが止まった。
壁の向こうで、音が変わった。
ばらけていた拍手が、完全に消えた。
代わりに来たのは、怒号だった。
*
ホールが割れた。
揃いが崩れるのとは違う。揃いそのものが消えた。残っていた最後の波が止まり、客の感情が全部戻った。
戻った感情は、興奮だけではなかった。
抑えられていた罪悪感。躊躇。自分が何をしていたかの認識。
認識が戻った客は、怒る。
怒りの先は二つに割れた。
自分自身に向かう客。椅子に座ったまま、札を見つめて動けない。
主催者に向かう客。立ち上がり、司会を詰め、説明を求める。説明は来ない。
あと一押し。
キーラは客の列の中で、仮面の位置を確かめた。声の出どころが分からない角度。壁際。柱の影。
息を吸った。腹の底から。
「これは詐欺よ!」
自分の声ではない声で叫んだ。高く、甲高く、怯えた客の声色で。
声が刺さった。ホールの空気が裂けた。
叫びが伝染する。「詐欺だ」「金を返せ」「説明しろ」。キーラの声はもう埋もれている。火種を投げた手は見えない。燃えているのは、客たちの怒りだけだ。
椅子が倒れる。杯が割れる。絨毯に酒がこぼれる。
警備が動いた。
ホールの出口を封鎖しようとしている。客を閉じ込める形。混乱が外に漏れるのを防ぐ形。
キーラは見た。正面の大扉に警備が三人集まっている。増えた。給仕口は配膳の人間が逃げ出して、開いている。けれどその先にも人がいるはずだ。
右手の小扉。
まだ誰も気にしていない。混乱の中で、壁際の小さな扉は視界に入らない。
キーラは歩いた。走らない。走れば目立つ。
仮面を外さないまま、壁沿いに移動する。客がぶつかる。怒号が飛ぶ。その隙間を縫うように、一歩ずつ。
小扉の取っ手に手を伸ばした。
冷たい金属。鍵はかかっていない。
引いた。
扉が開いた。狭い通路。配膳か廃棄の動線。匂いが変わる。ホールの香水と酒が消え、石と湿った木の匂いになる。
キーラは一歩踏み出した。
背後でホールの声がうねる。怒号と椅子の音。割れた杯の破片が床を滑る音。
振り返らない。
ここから先は、合流するまでが仕事だ。
*
保管室の中だけが、静かだった。
少年の呼吸が深くなっている。少女の目が開いている。開いた目が、ノアの顔を見ている。
ノアは二人の前に膝をついたまま、声を落とした。
「名前を、教えてもらえますか」
命令ではない。問いかけだった。
少年が口を開いた。乾いた唇が震える。声を出すこと自体が久しぶりなのだと、その震えで分かった。
「……キド」
かすれた声。小さい。けれど、自分の名前を自分で言った声だった。
少女が目を動かした。ノアを見て、少年を見て、もう一度ノアを見た。
「アイラ」
少女の声は少年よりさらに小さかった。吐息に名前が乗っただけのような音。
キドとアイラ。
ノアはその名前を、喉の奥で繰り返した。名前がある。道具ではない。名前を持っている。
エイドが一歩近づいた。双子を見ている。闇色の肌。紫がかった黒。同じ顔。同じ色。胸の印の形まで、左右が反転しただけで同じ。
「……双子の精霊なんて、いるのか」
エイドの声は独り言に近かった。
リュミエルのヴェールが、わずかに揺れた。
「いる」
短い。それだけだった。
エイドはリュミエルを見た。ヴェールの奥は見えない。けれど足の向きが双子を向いている。
「珍しい。けれど、マナを見たら分かる。この子たちは二人で一つの精霊なのよ」
リュミエルの声に、温度があった。いつもの静けさとは違う。知っている者の声だった。
エイドは双子を見た。キドの目。アイラの目。同じ闇色の瞳。けれど、宿っているものが違う。
キドの目は怯えている。何かに怒っているのに、怒り方を知らない目。
アイラの目は沈んでいる。何かを鎮めることに慣れすぎた目。
片方が煽り、片方が鎮める。二人で一つの仕組みになっていた。
その仕組みを、誰かが使った。
エイドの手が握り締められた。槍の柄ではない。自分の拳を。
ミレイがエイドの肩に触れた。軽く。一度だけ。
「今は、出ること」
短い。けれど正しい。
エイドは拳をほどいた。息を吐いた。
「……ああ。行こう」
*
廊下を進む。石の壁。低い天井。靴音が硬い。
エイドが先頭。ミレイが最後尾。間にノアと双子。
エイドの腕が重い。槍の柄を握ったまま、指が痺れている。照合の代償。頭の奥が鈍く痛む。
ノアは双子の手を引いている。キドの足が何度かもつれる。アイラはキドの袖を掴んだまま、音を立てずに歩いている。
ミレイが背後の気配を聞いている。足音。遠い。まだ間がある。
部屋の奥にあった、もう一つの扉。管がもう一本伸びていた先。
あそこにも、まだ誰かがいるかもしれない。
ノアの足が一瞬止まった。振り返りかけて、止めた。
キドの手が、ノアの指を握り返していた。小さい力。冷たい指。けれど、握っている。
「……はい」
小さい声。誰に向けたのか分からない返事。自分に向けた返事かもしれない。
ノアは前を向いた。
廊下の先は暗い。暗いのに、足が動く。
背後から、重い足音が一つだけ聞こえた。
一つだけ。大勢ではない。一人。
その一歩の重さが、廊下の空気を変えた。
ミレイの足が止まる。エイドの手が柄に触れる。
一人の方が、怖い。




