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光の呼び名  作者: アルエル
ベルカン編
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第30章 重なる鼓動


扉の前で、足が止まった。


ノアだけではない。エイドも、ミレイも。


向こう側から、呼吸が聞こえる。浅い。軽い。人のものではない。


けれど確かに、生きている。


キーラだけが止まらなかった。振り返らずに廊下を見ている。来た方角。追手がいる方角。


「ここで分かれる」


低い声。仮面の奥で、目だけが動く。


「警備が動いて混乱が始まってるなら、客に紛れやすい。私は会場側で出口を確保する。あんたたちはこの先を」


エイドが口を開きかけた。キーラが遮る。


「商人が裏手で隠れても出来ることは少ないわ。それと、ノア」


ノアは目を合わせた。仮面の下は笑っていない。突き放してもいない。


「その紙は離さないで。読むのはあと」


紙束を握り直す。指が白い。


キーラは一度だけ頷き、廊下を戻った。仮面のまま角を曲がり、影に紛れた。


足音が遠くの追手に混じっていく。


三人と、一つの気配が残った。



扉は重い。木ではない。鉄を含んだ何かだ。


鍵は外側。掛け金が一本。中のものを閉じ込める構造。


リュミエルのヴェールが揺れた。足の向きだけが、扉を向いている。


エイドが掛け金に手をかけた。


「……開けるぞ」


ミレイが一歩退き、廊下の奥を見た。退路と距離だけを測る目。


掛け金が外れた。金属が石壁に当たる。それだけが鳴って、あとは静かだった。


扉が内側に開いた。


匂いが来た。


甘い。重い。蜜でも果物でもない。温かいものが長く閉じ込められた時だけの、籠もった甘さ。


体温の匂いだった。


部屋は狭い。石の壁。窓はない。天井から鎖が一本垂れ、壁の導管に繋がっていた。


廊下を走っていた、あの溝のある管。ここが根元だった。


管は二方向に分かれている。一本はホールの方角。もう一本は、部屋の奥。


奥に、二つの影がある。



小さかった。


少年と、少女。


少年は壁に背をつけて座っていた。膝を抱え、額を膝に押しつけている。肌の色が暗い。紫がかった闇色。


少女は横たわっていた。目を閉じている。胸だけがわずかに上下する。肌は少年と同じ色。


二人の胸に、印が刻まれていた。


ノアはその形を知っている。教会の教本の裏に載っていた。顕現を強制する術式。精霊の意志を無視して、存在を引きずり出す回路。


印の周囲から管が伸びていた。細い金属が皮膚に触れ、壁の導管に繋がっている。


少年の管も、少女の管も、合流して一本になり、ホールへ向かっていた。


エイドが一歩だけ近づいた。槍には触れない。手のひらを開いて、何も持っていないことを見せた。


「……精霊、だ」


声が乾いている。


ミレイの目が部屋を一周した。壁。管。鎖。印。二人の位置。出口。全部を一息で読んで、口を引き結んだ。


「会場の客が揃ってたのは」


「この子たちです」


ノアの口から出た。自分の声に聞こえなかった。


会場で感じた気味の悪さ。拍手が揃うこと。笑い声が重なること。客の目が同じ方角を向くこと。


あれは自然ではなかった。


管を通して、この部屋から、二人の力が流れ出していた。


少年が顔を上げた。


ノアと目が合った。


闇色の瞳。光を吸う黒。身を引こうとして、背が壁に当たる。それ以上退がれない。


少女は目を開けない。開けないまま、指だけが動いた。床を掻く。隣にいるはずの少年の手を探す。


ノアの喉が詰まった。


暗い部屋。窓のない壁。誰にも見つけてもらえない夜。


知っている。この景色を、知っている。


かつて自分もこうだった。路地の隅で膝を抱え、声を出しても届かないと分かっていた。


あの夜、手を差し伸べた人がいた。「神は、君を見捨てない」と言った。その声だけで世界に意味ができた。考えなくて済んだ。生きていられた。


同じ手が、一枚の紙で全部をひっくり返した。


――教会のために、死んでくれ。


救いの手と、見捨てる手は、同じ形をしていた。


この子たちは、その手すら与えられていない。管に繋がれて、魔法を流すだけだった。


ノアの手が震えた。紙束が揺れた。


エイドがノアを見ている。言わない。言わないまま、視線だけが待っている。


ミレイは扉の枠に立っている。廊下を聞いている。振り返らない。けれど背中の角度が、まだ動ける、と言っている。


リュミエルのヴェールの下で、光ではなく、光のない場所がわずかに揺れた。闇の中を、吸われる先を辿って、ここまで来た精霊。


ノアは膝をついた。少年の前に。


少年の肩が跳ねた。壁に背を押しつけ、膝を引き寄せる。


「大丈夫です」


ノアの声が震えた。震えているのに、止まらなかった。


「大丈夫です」


同じ言葉を繰り返した。他に見つからなかった。


あの人が差し伸べた手は嘘だった。でも、あの夜救われたのは本当だった。


嘘の手でも、握った温度は残る。残ったから、今ここにいる。


だから今度は、自分が出す。嘘じゃない手を。


少年は動かない。ノアの手を見ている。紙束を握る白い指を。


少女の指が止まった。こちらを向いた。目は閉じたまま。気配だけがノアに触れた。


風が動いた。


スウィフトの気配。ミレイの傍にいたはずの風が、部屋の中を一度だけ舐めた。


『嫌いだ。この空気、嘘の匂いがする』


嘘。この部屋の空気そのものが嘘だった。


スウィフトは廊下に戻った。嫌がっている。でもミレイの傍を守る距離で止まった。


ノアは管を外したかった。


手順はない。強制顕現の術式を解く正式な方法など知らない。


でも、この子たちを置いて行けない。


エイドの手が、ノアの肩に触れた。


「……外せるか」


「分かりません。でも、管だけなら」


「管だけでいい」


エイドの声は静かだった。迷いがない。


「流れを止めれば、会場が崩れる。……それでも、やるか」


ノアを見ている。命令ではない。確認だった。


ノアの胸の奥で、何かが鳴った。


熱い。苦い。でも、飲み込める。


「やります」


声が震えなかった。


こんなに怖いのに、初めてだった。


命令じゃない。手順じゃない。誰にも言われていない。


ノアが決めた。


少年の目が、ほんの少しだけ広がった。逸らさなかった。


少女の指が伸びた。床を掻くのではない。ノアの方へ。



ノアは管に手を伸ばした。


冷たい。金属の冷たさではない。流れているものの温度だった。


接続部は印に繋がっている。印ごと外すのは無理だ。


でも継ぎ目なら。金属が皮膚に触れている部分。


教会で学んだことが一つだけ使える。術式の維持には回路の完全性が要る。途切れれば出力が落ちる。


ノアは継ぎ目に指を入れた。


少年の体が跳ねた。管が揺れ、導管が軋む。


「ごめんなさい」


謝りながら引いた。管が皮膚から離れた。完全には外れない。けれど隙間ができた。


少年の呼吸が変わった。浅い息が、一段深くなった。


少女の方に手を移した。同じ継ぎ目。同じ冷たさ。


こちらは抵抗がなかった。力が抜けた体。管を浮かせると、そのまま離れた。


流れが、ほとんど止まった。


遠くで、音が変わった。


ホールの方角。壁の向こう。


拍手が、ばらけた。


揃っていた音が崩れた。笑い声が途切れ、低い声がいくつも重なる。困惑。苛立ち。


客が、自分に戻っている。


少年が顔を上げた。目が開いている。


息ができている。


少女の目が、薄く開いた。闇色の瞳が天井の石を映した。何も映していないような目。でも、映すものを探し始めた目。


少年の手が動いた。少女の手を掴んだ。探していた手が、見つかった。


ノアの胸を裂いた。


ミレイが振り返った。


「ホールが荒れてる。長くは持たない」


エイドが頷く。


「行こう。この子たちを連れて」


少年がノアを見た。少女がノアを見た。


助けを求める目ではない。ここにいる、と伝える目。


ノアは紙束を左手に持ち替え、右手を差し出した。


命令じゃない。引く力もない。ただ、差し出した。


少年の指がノアの手に触れた。冷たい。冷たいのに、震えていた。


少女の指が少年の袖を掴んだまま離さない。繋がったまま、ノアの手に触れた。


三つの手が重なった。


廊下の向こうで足音が増えた。壁の向こうでホールの声がうねる。


この部屋だけが静かだった。


二人の呼吸が聞こえる。浅い。でも、さっきより深い。


その音が、ノアの鼓動と重なった。


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