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光の呼び名  作者: アルエル
ベルカン編
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第29章 照合

秘書の視線は、ノアより先に紙を見ていた。


開いた記録簿。ノアの指の位置。めくった順番。


読む側の目だった。数字の重みを知っている目。屋敷の中を回す人間の目。


「何をしていたのですか」


声は低い。責める調子ではない。確かめる調子だ。それが、かえって逃がさない。


ノアは息を止めた。止めてから、遅れて声を出す。


「照合です」


秘書の眉が、ほんの少しだけ動く。


「何の」


「出品物の搬入経路です」


根拠はない。記録簿に搬入の記載があったかどうかも分からない。


ただ、管理する側が一番怖いのは手順の外にある紙だ。教会でもそうだった。ここも同じだと賭けた。それ以上は足さない。足すと綻ぶ。


秘書はまだ動かない。ノアは記録簿を閉じない。閉じれば隠したことになる。隠したと見なされた瞬間、この部屋は檻になる。


「航海履歴が混じっていると聞きました」


自分の声が、自分のものじゃない気がした。


教会で覚えた言い方じゃない。ここで通るように、ノアが削った言葉だ。


喉の奥に鉄の味がする。嘘の味。キーラはこれを毎日飲んでいるのだろうか。


秘書の目が細くなる。測っている。言葉ではなく、ノアの呼吸の間隔を。


「搬入に使った船の記録が、出品の書類と一緒に残っていると……その、困る方がいると」


でまかせだ。でも、管理する人間が何を恐れるかだけは、ノアにも分かる。


秘書は何も言わない。言わないまま、続きを待つ。


待たれるのが、一番苦しい。


命令なら分かる。命令なら従える。待たれると、自分で次を作るしかない。


沈黙が落ちた。


部屋の外で、遠い拍手が一度だけ揃った。


秘書が言う。


「どなたの依頼ですか」


具体的な名前を求めている。名前が出せれば通る。出せなければ、嘘が割れる。


ノアは一拍だけ遅れた。遅れた分、言葉を選ぶ。


「……お名前は、控えさせてください。この場の性質上」


嘘が、口の中で鉄になる。飲み込めない。吐けない。


でも、この屋敷の客が匿名を望むのは道理だ。その前提を、盾にした。


秘書は戸棚へ向き直った。薄い束を一つ抜く。麻紐で綴じた、擦り切れた紙。


「搬入の記録は、本来この部屋から出しません」


秘書の声が一段低くなった。


「ですが、混入があったのなら確認は必要です。こちらでも把握が要りますので」


商品たちの航海目録だった。古い紙の乾き。人の手を何度も渡った重さ。


――当たった。


でまかせだった。搬入記録があるかどうかも知らなかった。なのに秘書は戸棚を開け、紙を抜き、「本来出さない」と言った。


あるのだ。


渡されたのは好意じゃない。管理だ。何を見たかを把握するための手順。


紙束を受け取る。軽い。軽いのに、指先がひりつく。


胸の奥で何かが浮きかける。押し戻す。安堵は顔に出る。


扉へ向けて半歩。紙束を持ったまま。


秘書の声が、背中を縫い止めた。


「待ってください」


通っていない。


秘書の声色は変わらない。変わらないまま、空気だけが厚くなる。


「今回の出品物は、すべて頭に入っています」


ノアは止まった。


「その日付の航海履歴の商品は、本日出しません」


指先が冷える。紙の端が、わずかに食い込む。


やはり、ある。でまかせが、本物の急所に触れていた。


「なぜ、それが必要なのですか」


声が出る前に、喉が鳴った。遅い。間が広がる。


「確認漏れかと」


「違います」


即答だった。


「この屋敷は、そういう漏れ方をしません」


秘書が一歩だけ近づいた。紙と鉄の匂い。仕事の匂いだ。


「賊なら、排除するのみです」


熱がない。声の温度が低いまま、平坦に置かれる。


脅しに聞こえないものの方が、本当に来る。


秘書の指が、壁際の真鍮の留め具に触れた。


何も起きない。火も音も変わらない。


けれど、燭台の影だけが一度だけ細くなった。


それで十分だった。


屋敷の中だけに通る合図。客には見えない。けれど、関係者だけが呼吸を変える。


廊下の向こうで、待機の気配が増えた。


ノアは逃げ道を探さない。探した瞬間に終わる。秘書の目を見返すしかない。


「あなた、どこの商会ですか」


答えを作るより先に、別の声が割って入った。



扉が大きく開いた。遠慮のない開け方だった。


「その子、うちの補助よ」


キーラがいた。


仮面の奥の声は笑っている。でも目は笑っていない。部屋の中の人数、扉までの距離、ノアの手元、秘書の立ち位置。全部を一息で測り終えている。


その後ろにエイド。半歩ずれてミレイ。二人とも客の顔を崩していない。


秘書の視線が私からキーラへ移った。喉にかかっていた重さが、少しだけ緩む。


「補助、ですか」


「ええ。目録に載っていない在庫を確認させていたの。どこのオークションにもあるでしょう、表に出せない品が」


キーラは部屋を見回さない。見回せば欲が出る。欲が出れば、客でなくなる。


秘書は頷かない。頷かないまま、エイドを見る。年若い。護衛にしては細い。でも目だけは逸らさない。次にミレイ。扉の枠を背にしている。崩れた時のことだけを考えている立ち方だ。


秘書が静かに言う。


「表にないものを、なぜ欲しがるのですか」


キーラは即答した。


「表にないからよ」


短い。一拍で切る。ベルカンの空気だった。


「表に出せば値が下がるものは、裏で買う方が双方の利になる。航路の履歴なんて、まさにそうでしょう。出した側は信用を守れる。買った側は情報を得る」


キーラは一度だけ間を空けた。間は、相手に飲ませるために空ける。


「私は買い手よ。買い手は、売り手が困るものほど欲しがるの」


秘書は否定しない。


否定しないまま、黙る。


その沈黙の間に、廊下の向こうの気配がもう一段増えた。


見えない位置で止まっている。扉の外。角の向こう。客には見えない距離で。


エイドの視線が一瞬だけ私へ触れた。大丈夫か、とは言わない。言わない方が正しい場所だった。


ミレイは動かない。動かないことで、動ける距離を残している。


秘書が私を見た。今度は、まっすぐ。


「では、その補助の方に」


声が低い。低いまま、滑らかに。


「あなたは、その航海履歴の何を確認しようとしたのですか」


核だった。商人の論理でいくら覆っても、最後はこの問いが残る。


ノアの喉が固まる。


部屋の灯りは変わらない。火も揺れない。


でも、廊下の足音だけが答えを待つ形で止まっていた。


キーラの目が一瞬だけ廊下の奥を見た。何かを数えて、何かを捨てた目。


「――分かったわ。この件はヴェルナード様に直接確認する。会場で。お客様の前でね」


脅しではない。でも、オークションの客は秘匿を買いに来ている。その場で記録管理の話が出れば、客は自分の情報も漏れるのかと疑う。疑えば、札を下げる。札が下がれば、ヴェルナードの利が削れる。


秘書の目が一瞬だけ揺れた。感情ではない。計算だ。どちらが先に動くか。報告が先か、退出が先か。


その一瞬を、エイドが拾った。


ノアの腕を引く。強くはない。けれど迷いがない手だった。


「行こう」


一言だけ。廊下へ。


ミレイが最後に残った。秘書の視線と一度だけ交差し、何も言わないまま足だけが動いた。


ノアの手にはまだ紙束がある。中身はまだ見ていない。


扉が閉じた。向こう側で秘書が何かを言った。聞こえないまま、もう戻れない。



走る。


仮面のまま走ると息が苦しい。視界が狭い。狭いのに、耳だけが広くなる。


後ろで足音。複数。歩幅が揃っている。訓練された足だ。


キーラが前を走る。角の前で減速し、先を覗く。逃げ慣れた足だった。


「このままじゃ会場には戻れない。ホールに人が増えてる」


「こっち」


ミレイが屋敷の奥を指す。


「配膳か廃棄の動線があるはず。外に繋がる」


エイドが頷く。リュミエルは何も言わない。黒いヴェールが揺れ、足の向きだけが奥へ変わった。


廊下が狭くなる。天井が低くなる。絨毯が途切れ、石の床に変わった。靴音が硬くなると同時に、追手の足音が遠のく。彼らは表の動線を走っている。


角を三つ曲がった。


そこで足が止まった。壁じゃない。天井でもない。


空気が止めた。


音が減っていた。


足音は同じはずなのに、壁に吸い込まれるように反響が消えていく。


匂いも薄い。蝋燭の甘さも、香水も、革も。全部が遠くなった。


代わりに何もない。何もないことだけが、鼻の奥に残る。


ミレイが足を緩めた。


「……おかしい。私、さっきより怖くない」


言ってから、自分の言葉に目を細めた。


「怖くないのが、おかしい」


エイドも立ち止まっている。息が荒いのに、胸が軽い。走って逃げている最中に、恐怖が薄まる道理がない。


リュミエルがヴェールの奥で、わずかに身じろぎした。


「……何かが、吸っている」


壁を、細い金属の管が走っていた。配管ではない。表面に溝が刻まれ、ホールの方角へ繋がっている。


触れる前から、指先がしびれた。魔力の管ではない。もっと柔らかくて、もっと厄介なもの。名前がまだない。でも確かに、何かが会場へ流れ出ている。


管の根元は――廊下の奥の、一枚の扉に繋がっていた。


鍵は外側からかかっている。


中のものを、逃がさないための扉。


その向こうから、呼吸が聞こえた。


浅い。軽い。人のものではない。


けれど確かに、生きている音だった。


ノアの足が動いた。判断より先に。命令より先に。


彼女自身の意志だった。

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