第26章 オークションの商品
あの夜から、きっちり一週間。
ベルカンの上層は、時間を贅沢に消費する街だ。焦りを隠すための香りと、余裕を演じるための笑い声が、路地の奥まで染みている。街全体が、金を使う者の"呼吸"に合わせて動く。
ヴェルナードの屋敷の門は、その贅沢を"入口"で選別していた。
衛兵の鎧は光り過ぎない。飾りを抑えた金属の面が、逆に本気を感じさせる。視線が刺さるのは、顔ではなく喉元と手だ。金を持つ者は、そこから漏れる。
キーラが招待状を差し出す。紙の角が折れない距離で、最短の動きで。
「合言葉を」
声は低い。門の蝶番と同じくらい、よく手入れされている。
キーラは仮面の奥で微笑んだ。
「翼をもがれた鳥たち」
一瞬、空気が止まる。衛兵の目が彼女の身のこなしを測り、次いで後ろへ移る。
「……お連れ様は?」
キーラは首だけで笑った。余計な温度を上げない。
「護衛よ」
それ以上は言わない。言えばボロが出る。
衛兵は短く頷き、視線を戻した。
エイドは息を浅くした。正装は慣れない。首元の布が少し擦れるだけで、場違いな自分が浮き上がる。隣でミレイが一歩前に出る。迷いを靴底に残さない歩幅だった。ノアは背筋を伸ばし、視線だけを低く保っている。まだ"正しさ"より"許可"の形で生きている癖が、所作に残っていた。
そして、そのさらに半歩後ろ。
黒。
黒いヴェールが灯りを吸い、黒いドレスが床の赤を拒む。布の重なりが、光を隠すために選ばれている。肌も髪も、余計な色を見せない。誰かの随行に見えるように、上品に、静かに。
リュミエルはそこにいる。精霊とバレないように全身を黒で包んだ謎の麗人に仕立てた。
息は白くならない。けれど気配だけが、周囲の灯りより少しだけ澄んでいる。エイドがふと振り返ると、ヴェール越しの視線が返ってきた。感情を大きくしない。けれど、見捨てない目だった。
門が開く。
蝶番の音が丁寧すぎて、怖い。中庭を抜けると、屋敷の玄関が口を開けている。磨かれた白い石。踏まれるために用意された絨毯。そこを歩く足音すら、控えめに丸められていく。
玄関の先、ホールに足を踏み入れた途端――匂いが変わった。
香水だけじゃない。蝋燭の甘さ、木材の乾いた粉、革の手袋の油、ワインの酸。混ざり合っているのに、どれも"消えない"。ここは、消えない匂いを纏える者が集まる場所だ。
その中で、さらに別の違和感。
笑いのタイミングが揃いすぎている。
誰かが杯を掲げると、周囲の肩が同じ高さで震える。小さな冗談に、同じ速度で息が抜ける。音が大きいわけじゃない。むしろ静かだ。静かなのに、反応だけが同じ形で波打つ。
胸が勝手に速くなる。
それが自分の興奮なのか、場に飲まれているのか、判別できないのが怖かった。
「……多いね」
ミレイが、視線を床へ落としたまま言う。
「警備。柱、扉、階段。動きが硬いけどしっかりしてそう」
ノアが目だけで追う。視線の移動が早いのに、顔は動かさない。
「客同士の距離も……近い。わざと、詰めてる気がします」
キーラは頷き、声の温度を下げる。
「客席に張り付かない。見るのは一瞬でいい。屋敷の中に入る」
一拍、間を置く。仮面の内側で、計算が終わる音がした。
「客席は餌。欲しいのはオークションの商品じゃない記録よ」
エイドは確かめるように言った。
「たぶん、書斎だよな。航海記録」
「そうね」
ミレイの返事は短い。結論が先に出る。
キーラが視線を上へ向ける。階段の陰、二階の廊下、出入り口の布。屋敷は"見せたい場所"と"隠したい場所"の境界を、空気で教えてくる。
「……動くわよ」
キーラが先に歩く。迷いがない。仮面の下でも、商人の足だ。価値のある場所へ最短で行く足。
二階へ上がる階段は広い。すれ違う客の靴音が、妙に柔らかい。絨毯が音を吸っているだけじゃない。歩く者たちが、"音を出さない歩き方"を知っている。
それが、さらに怖い。
二階の廊下に出ると、吹き抜けがあった。
下のホールが広い。オークション会場に繋がっていた。中心に舞台があり、黒い布が掛けられている。銀の留め具。檻のような枠。何かを運び込むための道具が、最初から揃っている。
司会の声が響いた。
抑揚が妙に心地よい。聞き続けると、頭の角が削れていく感じがする。考えるより先に、頷きたくなる。
「さあ、本日の"収穫"を。どうか皆様、喉を潤し、目を澄ませて」
――目を澄ませて。
その言葉が、合図みたいにホールを撫でた。
拍手が起きる。大きくない。なのに熱だけが上がる。喉が乾く。視線が吸い寄せられる。
エイドは自分の手を見た。震えていない。
震えていないことが、自分の中で違和感だった。
(これ、……慣れてる人たちなのか)
誰かの人生が運ばれてくることに、拍手ができる人たち。
隣でミレイが、ほんの少しだけ眉を動かす。ノアは唇を結び直した。キーラは笑っている。仮面の下で。感情があるように見せるための笑いだ。
そして――
背後で、空気が"薄く"なった。
薄くなる、というより、光が減ったような感じ。蝋燭の明かりはそのままなのに、視界の奥行きだけが詰まる。
リュミエルが、黒いヴェールの奥からエイドを見ていた。
「……気をつけて」
声は小さい。けれど、はっきり届く。囁きなのに、耳の奥に直接落ちる。
(なにが……?)
問い返す前に、下で黒い布が引かれた。
最初の商品が運ばれてくる。
それは、台車だった。
豪奢に飾られた車輪でも、滑らかな木でもない。むしろ雑な木材で、使い捨ての匂いがした。使い捨ての道具は、使い捨てのものを運ぶ。
台車の上には――鳥かご。
ただの鳥かごじゃない。鉄格子が二重で、留め具が多い。鍵穴がいくつもあるのに、鍵は一つも見えない。鍵を見せないのは、"開ける気がない"という宣言だ。
舞台の中央へ近づくにつれて、ホールの呼吸が一つに揃った。
笑いのタイミングと同じだ。
拍手が起きる。今度はさっきより、ほんの少しだけ厚い。
司会が笑う。
「皆様、お待ちかね。噂は噂のままでは価値になりません。価値に変えるのは――"現物"です」
現物。
その言葉が、エイドの背中を冷たく撫でた。
鳥かごには、黒い布が掛けられている。布の端から、光が漏れていた。蝋燭の光じゃない。もっと冷たくて、もっと透明で、それでいて目を刺す。
布が、ゆっくりと持ち上がる。
――見えてしまう。
見ようとしなくても、勝手に視界へ入ってくる。存在の輪郭が、こちらの目を"使って"しまう感じだ。
鳥かごの中。
そこに、精霊がいた。
小さな影が、檻の中で揺れている。鳥のような形にも見えるし、羽そのものが光でできているようにも見える。輪郭は定まらないのに、"いる"ことだけは確かだ。
顕現している。
エイドの頭に、その言葉が勝手に浮かんだ。勝手に、というのが怖い。自分の知識に当てはめたくないのに、当てはめないと立っていられない。
精霊が、逃げない。
逃げられない。
格子の間に光が引っかかり、羽のようなものが裂けるたび、薄い音がした。音というより、悲鳴の手前。言葉にならない意思が、空気を震わせる。
ホールの客たちは――見ている。
見て、笑っている。
「……っ」
エイドの喉が、うまく動かなかった。息を飲み込む場所を間違えた。
(見えてる? みんな……見えてるのか?)
一階の客が、杯を掲げる。別の客が値を口にする。反応が返る。司会が頷く。
誰も、"見えないはず"という顔をしていない。
当たり前に。
当たり前のように。
精霊が、商品として扱われている。
エイドの視界が、狭くなる。足元の絨毯が沈む。沈むのに、逃げられない。
キーラが、エイドの腕を掴んだ。
強くない。掴んだことが分からない程度の圧で、位置だけを戻す。
「動かない。いいわね」
口の形だけで言う。声にしない。
ノアも、視線だけで合図する。今は息すら、目立つ。
キーラは舞台を見下ろしたまま、低く言った。
「……始まった」
その声は、冷たいのに震えていない。震えないように固めている声だった。
鳥かごの中の精霊が、こちらを見た。
――見た、気がした。
"視線"だけがある。光が、こちらへ向いた瞬間に分かる。
エイドの背筋が冷えた。
(やめろ)
言葉にできない。
やめろ、を言ってしまえば、ここで死ぬ。死ぬ、が現実になる。その直感だけが異様に正確だった。
隣でリュミエルが、ヴェールの奥でほんの少しだけ表情を変えた。
もっと静かな――警戒。
「……エイド」
名前を呼ばれた瞬間、エイドの胸の奥がきゅっと縮む。
(見られてる。俺が、うろたえてるのを……)
客の視線ではない。場の視線。金の視線。価値に換算する目。
それが、二階のここまで届いてくる。
精霊が鳥かごの中で揺れるたび、ホールの空気が少しずつ熱を増す。熱を増すのに、温かくならない。寒いまま、熱い。矛盾の中へ押し込まれていく。
エイドの呼吸が乱れかけた。
乱れないように、息を殺す。
――どうして、見えてる。
その問いが喉まで上がってきて、そこで止まった。
エイドは拳を握った。手袋の内側で汗が滲む。握っているのに、支えにならない。
精霊が、もう一度だけこちらを見た。
助けを求める視線じゃない。
責める視線でもない。
ただ、"ここにいる"という事実の提示。
それが、エイドの足を床に縫い付けた。
そして一階で、最初の値が告げられた。
「金貨五十」
下層で五百泊できる金が、一声で消えた。
札が上がる。金貨七十。八十。百。
数字が壁を弾むように跳ね、そのたびに拍手が厚くなる。
笑いが揃う。
精霊は、鳥かごの中で黙って揺れている。
エイドは、その光から目を逸らせなかった。




