第23章 勘違いの温度
「キーラたち、大丈夫かな」
エイドは言いながら、部屋の隅に荷を置いた。中層の宿は便利だ。上層へ上がるのは商売のためで、寝泊まりはここにする。壁は薄いのに、息は通りにくい。廊下の軋みと隣室の笑い声が滲み、灯りの油の匂いがいつまでも残る。
今日も風便を二人で回した。荷を受け取り、宛名を確かめ、道の癖を覚える。ついでに言葉を拾う。昼の喧噪はまだ耳の奥にへばりついているのに、部屋に戻ると静けさが先に立つ。
その静けさが、いつもと違う。
いつもは四人と二体で、この部屋は賑やかだ。キーラが次の段取りを話し、ノアが紙に書き付け、ミレイがリュミエルに何か囁いている。エイドはそれを聞きながら、槍の手入れをする。その形が、この旅の形だった。
今夜は、エイドとミレイだけだ。
リュミエルは屋根に上がっている。出ていく前に「夜風を見てくる」とだけ言い残して、窓から出た。窓は少し開いたままだ。夜の空気が薄く入ってくる。スウィフトの気配はある。ミレイの手首の輪の近くで、静かに息をしている。
二体ともいる、はずなのに、今夜の部屋はやけに静かだ。
キーラとノアが出ていった扉を、エイドはもう一度見る。扉は閉まっている。閉まったままだ。当たり前のことなのに、その当たり前が、少し重い。
ミレイが外套を椅子に掛けながら言った。
「変な感じがするね」
「……何が」
「二人だけって」
ミレイが部屋を見回す。見回す目が、いつもの賑やかさを探している。
「なんか……広いな」
「同じ広さよ。人が減っただけ」
「そうだけど」
エイドは槍を壁に立てかけた。革紐の結び目に指が触れる。ほどけていない。ほどけていないのに、指先が落ち着かない。
考えてみると、二人きりで夜を過ごすのは初めてだった。
学園でも、旅に出てからも、誰かが必ずそばにいた。誰かの気配が空気の中にあった。それが当たり前だったから、今この静けさがどこか手持ち無沙汰に感じる。
ミレイとは子どもの頃からの付き合いだ。家が近かった。庭を走り回って、転んで、喧嘩して、仲直りした。それだけの関係だと思っていた。思っていたのに——
なぜか、今夜の静けさは、いつもの静けさと少し違う。
エイドは自分の指先を見る。落ち着かない理由が分からない。分からないのに、落ち着かない。
沈黙が伸びた。伸びた分だけ、部屋が静くなる。
ミレイが肩をすくめた。
「仕方ないわよ。私たちの年齢じゃあ入れない場所でしょ」
「そうだけど、心配はするよ」
ミレイが振り向く。目が細くなる。
「ほんとは、行きたいんじゃないの? そういう場所に」
「……行きたいとか、そういう話じゃない」
声は落ち着いて出したつもりだったが、言い終わりが少し硬い。
ミレイが口元を緩める。
「心配してるっていうより……興味あるんじゃないの」
「ないって言ってるだろ」
「本当に?」
エイドが振り返る。
「本当に」
「ふうん」
ミレイが椅子に腰を下ろす。足を組む。組み方が、からかっている組み方だ。
「お年頃だもんね」
「……何が」
「エイドが」
ミレイが笑う。笑い方が、楽しんでいる笑い方だ。
「そういう場所に興味があっても、おかしくない年齢でしょ」
エイドの顔が少し赤くなる。
「興味ない」
「ないの?」
「ない」
「本当に?」
「本当に」
エイドは即答した。即答したのに、ミレイの目が細いままだ。
「じゃあ、なんで顔赤いの」
「赤くない」
「赤い」
ミレイが立ち上がる。近づいてくる。近い。
「ほら、赤い」
「……お前が近いから」
エイドは視線を逸らす。逸らしたのに、ミレイの笑い声が聞こえる。
「やっぱり赤い」
「……もういい」
エイドが諦めたように息を吐く。
ミレイが笑いを収める。収めてから、少し真面目な顔になる。
「……でも、本当に心配してた?」
「してた」
エイドは即答した。今度は、視線を逸らさない。
「お前も行くんじゃないかって」
ミレイの笑いが消える。
「私が?」
「そう」
エイドは頷く。
「キーラと一緒に、あの場所に」
ミレイが黙る。黙り方が、予想外だった黙り方だ。
ミレイは短く頷いた。
「いい。今はそれより心配」
言い切って、視線を窓へ投げた。窓は小さく、外は見えない。見えないのに、遠い音だけが聞こえる。厚い音楽。杯が触れる金属音。笑い声。別の建物の熱が、夜の空気を伝ってここまで届いてくる。
エイドは息を吐き、声を落とした。
「何かあっても気づけないのは怖いだろ」
ミレイは一拍置いてから言う。
「それはそうだけど。ノアさんもいるし、私たちを狙う人なんていないでしょ」
エイドは頷きかけて、止まった。狙う、という単語が引っかかる。
今夜みたいな夜に聞く言葉じゃない、と思ってから、自分がそう感じていることに気づいて、少し驚いた。
ミレイが続ける。続け方が少し早い。
「エイドは……何か隠してない?」
「隠してない」
「隠してる」
ミレイの指先が外套の端をつまむ。つまむ力が強い。強いのは、聞きたいからだ。
「キーラさんが、エイドを狙ってるって言ってたでしょ。あれ、どういう意味?」
エイドの動きが止まる。
「……あれか」
「そう、あれ」
ミレイの目が細くなる。
「まさか本当に、そういう意味?」
「違う」
エイドは即答した。即答したのに、ミレイの視線が逸れない。
「じゃあ何」
「……リュミエルのこと」
「リュミエルの?」
エイドは椅子に腰を下ろし、同じ高さで言葉を選んだ。
「リュミエルと契約する前、リュミエルを追ってた商人がいた。それがキーラだ」
ミレイの目が見開かれる。
「え……それだけ?」
「それだけって、それ以外に何がある」
ミレイの頬が赤くなる。赤くなったのに、目を逸らせない。言葉が喉で止まる。
「……ううん。何でもない」
「何でもなくないだろ」
「何でもない!」
声が少し大きくなって、ミレイは外套を握り直す。握り直すほど、さっきより静かになってしまう。
逃げた、と自分で分かっている。分かっているのに、戻れない。
エイドは革紐の結び目を見る。ほどけていない。ほどけていないなら、変な形で終わらせたくない。
「……悪い」
「何が」
ミレイの声は尖っていない。尖っていないから、余計に胸に入る。
「心配させた。……届かないのが怖かった。キーラのことは、そういう話じゃない」
ミレイは小さく息を吐いた。
「そういうのは、言わないと分からない」
「分かった」
短く返してから、エイドは少し迷った。迷った末に、外套を持ち上げてミレイの肩へそっと掛けた。布の重さは軽い。軽いのに、落ち着く場所を作る。
「寒いだろ」
ミレイは肩の布を見てから、エイドを見る。
「寒くない」
そう言いながら、布の端を指で押さえた。
エイドはその手を見た。押さえている。外さない。
それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
部屋の隅で、風がほんのわずかに揺れた。笑い声になる手前の音。音だけが残り、すぐ消える。
灯りの縁で、光が一度だけ柔らかく薄まった。目を刺さない程度の揺れだ。そこにいることだけが分かる。
ミレイは布の端を押さえたまま、視線を落とす。
落とした視線が、指先へ集まる。指先が布を握る。握る力が、聞きたいことの重さになる。
「……エイドは」
「ん?」
エイドが振り向く。ミレイの顔が見えない。髪が少しだけ顔を隠している。
「私のこと、どう思ってる?」
声が小さい。小さいのに、部屋に染み込む。
エイドの呼吸が止まる。止まったまま、次の息が来ない。
「……どうって」
ごまかしの言葉が口から出る。出たのに、ミレイは逃がさない。
「そういう、ごまかし方しないで」
ミレイの声が少し震えている。震えているのに、視線を逸らさない。
顔を上げた。目が合う。目が合ったまま、どちらも動けない。
エイドは言葉を探す。探して、見つからなくて、でも何か言わないと——
「……仲間、だろ」
出た言葉は、逃げの言葉だった。
ミレイの目が細くなる。細くなり方が、呆れている細くなり方だ。
「仲間」
「そう。仲間」
エイドは頷く。頷いたのに、ミレイの目は変わらない。
「……仲間ね」
ミレイが小さく笑う。笑い方が、呆れている笑い方だ。
笑いの中に、少しだけ寂しさが混じる。
「それだけ?」
「それだけって——」
「それだけなら、別にキーラさんやノアさんと変わらないわよね」
エイドが言葉に詰まる。
詰まった喉から、言い訳が出ようとして、出ない。出ないのは、言い訳が嘘だからだ。
「いや、でも——」
「でも?」
ミレイが一歩前に出る。
近い。近いのに、逃げられない。逃げたら、もっと悪くなる。
エイドは息を吸う。吸ってから、小さく吐いた。
「……大事だ」
「大事?」
ミレイの声が少し上がる。上がり方が、確かめている上がり方だ。
「そう」
エイドは視線を逸らしかけて、でも逃げたら終わると思って、逸らさずに続けた。
「お前は、大事」
ミレイの顔が赤くなる。
赤くなったのに、目を逸らさない。逸らさないから、エイドも逸らせない。
「……ずるい」
小さく呟く。呟き方が、責めているのか、照れているのか、分からない。
「ずるくない」
「ずるい」
ミレイが顔を伏せる。
伏せた顔が、少しだけ笑っている。笑いながら、困っている。
「そういう言い方されたら、分かんなくなる」
「何が」
エイドが聞き返す。聞き返したのに、ミレイは答えない。
答えないまま、息を吸う。吸ってから、小さく吐いた。
「私が、どう返せばいいか」
ミレイの声が、さらに小さくなる。
小さくなった声が、次の言葉を運んでくる。
「私も……エイドのこと、大事だから」
エイドの息が止まる。
止まった息が、胸の中で固まる。固まったまま、動かない。
「……本当か」
「本当」
ミレイが顔を上げる。目が合う。
合った目が、逃げない。逃げないから、嘘じゃないと分かる。
「だから、心配なの。キーラさんたちのことも、エイドのことも」
ミレイの声に、震えが混じる。
震えが、本気の形になる。
エイドは何か言おうとして、言葉が出ない。
出ないから、代わりに——
「……俺も」
短く返した。
短いのに、それが一番伝わる言葉だった。
ミレイが小さく笑う。今度は、満足した笑い方だ。
笑った顔が、少しだけ泣きそうに見える。
言葉を続けると壊れそうで、二人とも黙った。
黙りが続いて、続いたぶんだけ気まずくなるはずなのに、今夜は違う。
気まずさの代わりに、照れが残る。照れが、温かさになる。
その照れが何かの形になりかけたところで、廊下の足音が近づいた。迷いのない足音。鍵が回り、扉が開く。
それとほぼ同時に、開いたままの窓から風が入った。
光が、するりと滑り込む。リュミエルが屋根から戻ってきた。着地の音もなく、ただ気配だけが部屋に溶ける。
「ただいま~」
キーラの声が先に来る。外気と一緒に、甘い匂いが流れ込んだ。酒と香と、人の熱。
キーラが先に入ってくる。仕事の顔のまま、目だけが少し疲れている。後ろにノア。ノアは衣の端を確かめながら入ってきた。声を出さない歩き方だ。
その瞬間、エイドとミレイはばっと離れた。
離れるのが速すぎて、椅子が軋む。
キーラが一拍置く。
視線が、二人を順番に測る。
「……邪魔した?」
「してない!」
二人の声が重なる。重なったあと、空気が固まる。
キーラの口元が、ほんの少しだけ上がった。
笑ったわけじゃない。でも、分かってる笑い方だ。
「そう」
それだけ言って、深追いしない。視線だけで一度測って、荷を置いた。
ミレイが顔を伏せる。
エイドは革紐の結び目を見る。
ノアが小さく言った。
「……お邪魔しました」
「してない」
エイドが即答する。
ノアの目が、困ったように細くなる。
エイドはそこで、別の違和感に気づく。
匂いが濃い割に、夜の疲れが浅い。戻るつもりで戻ってきた匂いだ。
「……帰ってきたんだ」
キーラは外套を外しながら頷いた。
「今日はここまで」
ミレイが小さく言う。
「今日は戻らないと思ってた」
言ってから、視線を少しだけ逸らした。逸らし方が、続きを飲み込んだ逸らし方だ。
キーラは言い訳をしない。短く切る。
「長くいるほど、呑まれる」
ノアの喉が小さく鳴った。肯定とも否定ともつかない音。
キーラはそれ以上、言葉を足さない。足さないまま、次の段取りへ移す。
「明日はパイロット工房に行く。道具がいる」
ノアが静かに荷の口を押さえた。布越しに硬いものの角が当たる。
エイドは部屋を見回して、声の温度を落とす。
「寝よう。明日も動く」
その言葉で、部屋は仕事の形に折り畳まれる。
折り畳まれた中に、彼らの外套の温度だけが残った。




