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光の呼び名  作者: アルエル
ベルカン編
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第22章 影は灯りで濃くなる


衣装の紐は、ほどけないように結ぶほど、息を細くした。

まるで、自分を隠すことを許さないように。


キーラは胸の奥で一度だけ呼吸を整え、廊下へ出た。

控え室の熱が背中に残っている。それでも、廊下の空気は冷たい。冷たい空気は肌の上を滑り、布の軽さを際立たせる。


ノアが続く。足音が小さい。小さいのに、床板が軋む。軋みは、この建物が古いからではない。人の出入りが多すぎるからだ。

扉の向こうから音楽が漏れてくる。遠いのに厚い。厚い音が、言葉を隠すために使われているのが分かる。


案内役の女が、廊下の角で立ち止まった。

立ち止まる場所が決まっている。ここは説明の場所だ。説明の場所が決まっている商売は、揉め事を数で潰してきた商売だ。


女は振り返らないまま言った。


「大部屋に出る前に、決まりを叩き込むわよ。覚えられないなら、踊る資格もない」


言葉は乱暴なのに、声が落ち着いている。落ち着きは慣れだ。慣れは、女がここで長く生き残ってきた証だった。


女は廊下の壁を指で叩く。壁に札が掛かっている。木札だ。薄い。薄いのに、角が減っている。何度も掛け替えられた札だ。


「まず大部屋。好きに踊れ。誰の許可もいらない。踊りで客の目を引け」


キーラは頷き、目だけで扉の位置を確認した。扉が近づくほど、空気が熱を帯びる。だが人の熱が流れている。


女は続ける。


「客が気に入ったら、上だ。二階の個室。上に行くかどうか、客から誘われる。お前が選ぶのは、上に行くか交渉の仕方だ」


ノアの指先が、衣装の端をつまんだ。つまむ力が強い。強い力は、心を留めている。


「接待の中身は?」


ノアの声が低い。低い声は、怖さを隠すときの声だ。


女は笑わない。


「中身は問わない。飲ませてもいい。話してもいい。触らせてもいい。嫌なら断れ。その代わり、金を出させろ。そこは交渉だ」


交渉、という言葉が、ここでは刃物みたいに聞こえる。

キーラはその言葉だけは嫌いじゃなかった。刃物は、握り方を知っていれば武器になる。


女は掌を上に向けた。指を三本立てる。


「事が終わったら、部屋代を払え。金貨三枚。一晩の部屋代だ。上納みたいなもんだと思え」


金貨三枚。

数字が口に出た瞬間、背中に重みが乗った。衣装の軽さとは逆の重み。軽い布で重い金を稼ぐ。矛盾が、ここでは当たり前になる。


キーラは壁に掛かった札を見た。

薄い木札の角が、何度も触れられて丸くなっている。


女は淡々と付け足す。


「逆に言えば、三枚払えりゃ、それ以上はお前の稼ぎだ。また下に来て客を取れ」


「一回使った部屋は?」


キーラが訊いた。訊き方は短い。短い質問は、相手に余計な嘘を混ぜさせない。


女が札を一枚つまむ。


「一晩、そいつの部屋扱いになる。だから鍵を掛けろ。自分の鍵は常に持ち歩け。鍵をかけなきゃ。部屋がなくて揉める。揉め事は店の損だ」


鍵は軽い。軽いのに、ここでは境界になる。

キーラは鍵の凹凸部分を見た。凹凸が擦れて黒ずんでいる。境界が何度も侵された痕跡だ。


女は今度は、指を二回鳴らした。音が乾く。乾く音は支払いの音だ。


「店は客から入場料と酒代で稼ぐ。お前ら踊り子からも取る。だからみんな遊びじゃない」


「踊り子からもですか?」


ノアが眉を上げた。困惑の形が、きれいに出る。きれいに出る困惑は、ここでは削られる。


女は頷く。


「踊り子も入場料を払うの。舞台代、場所代、見せる権利の代金だ。払った分は踊りで取り返せ。取り返せなきゃ、踊り子は踊れなくなる」


キーラの奥歯が噛み合った。

部屋に連れ込まなくていい、と聞いた瞬間の小さな安堵が、今、釘で留められる。逃げ道が残っているようで、逃げ道に税がかかる。


ノアの呼吸が、わずかに浅くなった。

キーラはそれを横目で見る。浅い呼吸は、計算している呼吸だ。


キーラは心の中で、ほんの短く思う。

必ず、男を部屋に連れこむ必要がない。

そう思った瞬間に、次の疑問が冷水みたいに落ちる。

それで娼館は稼げるのか。


大部屋だけで食えるやつが増えれば、上の部屋に行く者は減る。店は困らないのか。

女は、疑問が顔に出る前に答えを置いた。


「上に行かず踊りだけで食う奴もいる。客のチップで生きる奴だ。だがな、入場料は毎晩だ。真剣に踊らなきゃ人気は死ぬし、抱けないと分かったら離れる男もいる。上に行かずに済むほど上手いのは、ほんの一握りさ」


一握り、という言葉が現実だった。

才能は逃げ道になる。才能がない者は、交渉か、上か、どちらかで払う。


キーラは自分の足首を意識した。

踊りが得意ではない。得意ではない自覚が、膝を固くする。固い膝は、客に見抜かれる。見抜かれると、値切られる。


ノアの呼吸が変わった。

変わり方が、覚えている呼吸だ。怖さで浅くなる呼吸ではない。舞台に立つ前の、数を数えるような呼吸。

足の指が床を探り、重心が揺れなくなる。揺れない身体は、逃げない身体だ。


キーラは横目で見た。


ノアは困惑している。だが困惑の中に、慣れが混じっている。

昔、金の匂いがする席に座ったことがある者の慣れだ。口にはしない。口にした瞬間、ここでは値段が変わる。


女が最後に言った。


「覚えたな。じゃあ出ろ。笑え。踊れ。目を集めろ。目が集まれば、財布の紐が緩む」


紐が緩む。

その言い方だけで、キーラは目的を思い出す。

キーラの場合、緩ませるのは財布ではなく口だ。


この街で拾うべきものがある。

この街の影に触れるための、糸口がいる。

糸口は、正面の扉では落ちてこない。こういう場所で、酒と欲に混じって落ちる。


大部屋の扉が開いた。


音が襲う。

鼓膜が押される。床が震える。笑い声が跳ねる。杯がぶつかり、金属が鳴る。

灯りが眩しい。眩しいのに、視線の影が濃い。影は人の欲で出来る。


大部屋の空気は、喉の奥に甘さを残した。甘さの下に汗と酒がある。

キーラは一歩踏み出し、すぐに分かった。


視線が刺さる。


下品な視線だ。服の値段より、舌の動きで人を測る視線。

笑いながら、目だけで値を決めてくる。

その目が、ノアの方へ寄る。寄り方が早い。しかし早い寄り方は、捕まえる寄り方だ。


キーラは、そこで初めてノアがついてきた意味を骨で理解した。

女一人は厳しい。厳しいのは守られないからではない。守られないと値が下がるからだ。値が下がれば、交渉も情報も買えない。


舞台の端で、他のダンサーが輪のように踊っている。

動きが揃っているのに、同じではない。揃えすぎないのは、個を売るためだ。


キーラはその輪に混ざった。

混ざるだけで、衣装の鈴が鳴る。鳴った鈴が、誰かの笑いを誘う。笑いは、財布の前触れでもある。


ノアが隣に入る。

足取りが、さっきより落ち着いている。視線の投げ方が、遠い席まで届く。それでも届くのに、媚びない。

媚びないのに届く技術を、キーラは羨ましいと思ってしまい、すぐに捨てた。羨みは遅れだ。遅れは踏まれる。


キーラは笑わなかった。

笑う代わりに、目を選んだ。

下品な目。油断した目。金を持っているのに、言葉が軽い目。

その目の中に、目的へ繋がる緩みが混じっているはずだ。


息を吸う。

軽い布の下で、心臓が重い音を立てる。

それでも足は止めない。


ここまで来た。

ここまで来たのは、ただ生きるためじゃない。


キーラは輪の中で身体を動かしながら、胸の奥に言葉を沈めた。

沈めた言葉は、熱と一緒に硬くなる。


この街での目的は、やり遂げる。



一曲が終わる。

息が切れる。汗が肌を滑る。


キーラは舞台の端へ下がり、呼吸を整えた。

客の視線が離れる。離れた視線は、次の標的を探す。


ノアが隣に来る。

息が少し荒い。


「……どう?」


ノアが小さく聞く。


「まだ分からない」


キーラは客席を見る。

金を持っている客。油断している客。


その中に、情報を持っている客がいるはずだ。


だが——問題がある。


音楽が、大きすぎる。


楽器の音。太鼓の音。笑い声。杯の音。

全てが混ざって、言葉が聞こえない。


客同士が話している。

口が動いている。

だが、言葉が届かない。


キーラの喉が鳴る。


これでは、情報が拾えない。


ノアも気づいている。

気づいた顔が、困惑の形だ。


「……音楽が、大きすぎます」


「そうね」


キーラは頷いた。


「このままじゃ、何も聞こえない」


客の笑い声が響く。

笑いの下に、言葉がある。

言葉の下に、情報がある。


だが——届かない。


キーラは息を吐いた。


「……道具が要る」


ノアが振り向く。


「道具?」


「人の声だけを拾う道具」


キーラは言い切った。


「音楽を消して、会話だけを聞く装置」


ノアの目が細くなる。


「……そんなもの、作れますか?」


「作らせる」


キーラは頷いた。


「パイロットなら、できる」


舞台の上で、他のダンサーが踊り始める。

音楽が、また大きくなる。


キーラは客席を見た。


油断した客。

緩んだ口。

金の匂い。


全てが、そこにある。

だが——届かない。


「明日、工房に行くわ」


キーラは小さく言った。


「道具を作らせる。それまでは——顔を覚える」


ノアが頷く。


「……承知しました」


キーラは舞台に戻る。

踊る。

客を見る。


合言葉が、音の向こうに沈んでいる。

情報は、まだ拾えない。

だが——準備は始まった。


影は灯りで濃くなる。

濃くなった影に、秘密が隠れる。


その秘密を、必ず掴む。


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