第21章 潜入
娼館の影は、昼でも薄暗い。
光が届かないわけではない。届いているのに、壁がそれを吸う。布がそれを飲む。笑い声がそれを裏返す。
ここはそういう場所だと、キーラは入口の匂いで分かった。
甘い香が最初に来る。次に粉。最後に、消しきれない人の熱。
扉の金具は磨かれているのに、触れた指先に冷たさが残らない。人が多い。だから温い。温いから、逃げ道が狭い。
先に雇用の話はついていた。新人のダンサー。肩書は借り物のように軽い。
扉を開ける前に、キーラは頭の中で三つだけ並べた。
合言葉。神官長の所在。通行証の発行元。
三つ。四つ目は拾わない。拾うと鎖になる。
軽いのに、首の後ろが重くなる。見られるからだ。
見る視線は値段になり、値段は鎖になる。
キーラはそれを理解した上で、歩幅を崩さなかった。
顔に出せば終わる。ここで一番安く買われるのは、迷いだ。
ノアは一歩遅れてついてくる。遅れ方が、迷っている人間の遅れ方だ。
扉の内側に入った瞬間から、ノアは目をどこに置けばいいのか探している。視線が彷徨うと、周囲の視線が寄る。寄った視線は、すぐ値踏みに変わる。
「来なくてよかったのに」
キーラは小さく言った。声は棘を立てない。立てても意味がない。
ノアは頬の色を変えずに答える。変えないのは強がりだ。強がりが必要な場所だと理解している。
「ここで女性一人は厳しいです。誰かに絡まれたら、話が崩れます」
言葉は丁寧なのに、足元が少しだけ硬い。硬い足元は、怖さを押し殺している証拠だった。
キーラは返事をしなかった。返事をすると、優しさが漏れる。優しさはここでは弱みに見える。
代わりに、視線だけでノアの肩を見た。細いのに、線がある。布の上からでも分かる。
羨ましい、と思った。
思ってから、すぐ捨てた。ここで羨みは足を遅らせる。遅れた足は踏まれる。
案内役の女が、廊下を曲がる。香が少し強くなる。
壁に鏡が並んでいる。鏡があると人は姿勢を整える。姿勢が整うと、売り物になる。
控え室の扉が開いた。
中は熱い。火があるわけではないのに、肌が乾く。
衣装の布が積まれ、飾りの鈴が小さく鳴っている。鈴の音は軽い。軽い音ほど、逃げ場がない。
採用官は机に座っていた。年齢不詳の女。年齢の輪郭が薄い。
薄いのに、目だけが鋭い。鋭い目は、欲を隠す。
「新人ね」
採用官は二人を見た。見る順が決まっている。顔、首、肩、腰、脚。
見られるのは当然だ。ここではそれが仕事だと分かっているのに、ノアの指先がわずかに固くなる。
キーラは固くしない。固くすると、それだけで値が落ちる。
「踊りは?」
「覚えます」
キーラが言う。言い切ると、採用官は少しだけ笑った。笑いが薄い。薄い笑いは信用に近い。
「衣装に着替えて。合わせるから」
控え室の奥に、薄い布の仕切りがあった。布は薄いのに、ここでは壁の役目をする。
仕切りの向こうに入った瞬間、空気が変わる。香が弱まり、粉の匂いが残る。
粉の匂いは肌に張り付く。張り付くものは離れにくい。
積まれた衣装は、どれも軽い。軽い布は隠さない。隠さない布は、隠している心を暴く。
キーラは布を一枚持ち上げ、手触りを確かめた。指先が滑る。滑るのに、冷たい。
恥ずかしい衣装だと、すぐ分かった。
恥ずかしいのは露出のせいだけではない。自分の体が、他人の目的に合わせて形を変えることが、恥ずかしい。
ノアが、声を落として言う。
「これを、着るのですか」
落とした声が震える。震えは怒りではない。戸惑いだ。
戸惑いは善良さの証拠で、ここでは最初に削られるものでもある。
キーラは衣装を抱えたまま、肩をすくめた。
「仕事よ。踊るなら、衣装も仕事」
言葉は割り切っている。だが胸の奥は、割り切れていない。
割り切れない部分を見せないために、割り切った声を使う。
ノアは布を手に取った。手が止まる。キーラには分かる——まだ戻れる場所を探している。
キーラはそれを見て、ほんの一瞬だけ思った。
ついてこなくてよかったのに。
思った直後、別の思いが追いかけてくる。
ここで女性一人は厳しい。
厳しい、という言葉は優しい言い方だ。
この街の下で、孤立は値段になる。値段になった孤立は、逃げ道を削る。
キーラは息を吐き、先に着替え始めた。
布が肌に触れる。触れた瞬間、空気の冷たさが入り込む。
冷たさが入ると、背中が伸びる。背中が伸びると、弱さが減る。
鏡の前に立つ。
鏡は嘘をつかない。嘘をつかないものほど、残酷だ。
ノアの方を見ると、ノアも着替えていた。
布が似合う。似合うのは、体型だけではない。姿勢が整っている。
戸惑いがあるのに、崩れない。崩れない人間は強い。
ノアの姿勢を見て、キーラは小さく息を吐いた。
崩れない人間は強い。——その強さが、今は必要だ。
仕切りが開き、採用官が入ってきた。
視線が一瞬で二人を撫でる。撫でられる感覚が、肌に残る。
残るのに、払い落とせない。
採用官はまずノアを見た。長い。長い視線は評価だ。
「……売れる」
声が淡々としている。淡々としているほど確信がある。
ノアの喉が小さく鳴った。鳴った音が、ここでは鈴に近い。鈴の音は逃げない。
次にキーラを見る。視線は短い。短いのは切り捨てではない。計算だ。
「あんたは……まぁ、そういうのも好きな客はいる。見せ方次第ね」
キーラは頷いた。頷きの角度を低くする。低い角度は従属に見える。
ここで必要なのは従属ではなく、通行証だ。
採用官が机に戻り、紙に何かを書いた。紙が擦れる音が、やけに大きい。
紙の音は信用の音だ。どんな場所でも。
「今日から仮採用。踊りは教える。客前は段階を踏む。勝手はしないこと」
勝手はしない。言い方が柔らかいのに硬い。
この場所の規則は、外の規則よりも早く人を壊す。
キーラは口元だけで笑った。笑いは薄い。薄い笑いは仕事の笑いだ。
「分かりました」
ノアも同じように頷く。頷くのに、手が少し震えている。
震えはまだ残っている。残っているなら、守れる。
採用官が視線を上げ、二人を並べて見た。
「名前は?」
キーラは一拍置いた。置いた一拍が、ここでの呼吸になる。
「キーラ」
「ノアです」
採用官は頷き、合図のように指を鳴らした。鈴の音が廊下に流れる。
流れた音に、別の足音が応える。ここには人の流れがある。流れは逆らえない。
案内役の女が近づき、低い声で言った。
「部屋に通す。今日からは、ここで息をするのよ」
息をする、という言葉が妙に重い。
重い言葉は、真実に近い。
キーラは衣装の紐を結び直した。結び目が小さく固い。固い結び目は、ほどけにくい。
ほどけにくいものを作るのは、今の自分に必要なことだった。
ノアが隣に立つ。近い。近いのに、距離がある。
互いの息が聞こえる距離で、互いの怖さは触れないようにしている。
キーラは鏡を一度だけ見て、もう見なかった。
見るほど、迷いが増える。迷いが増えるほど、値段がつく。
扉が開き、廊下の香が戻ってきた。
甘さが先に来て、粉が残って、最後に人の熱が押し寄せる。
その熱の中へ、二人は並んで歩き出す。
足音を揃えない。揃えないのに、同じ方向を向く。
彼女たちの潜入は、ここから始まる。




