第6章 商人は価値を見る
キーラは、港に近い倉庫街の一角にある小さな事務所で、帳簿を閉じた。
「……噂が早すぎるわね」
独り言のように呟き、窓の外を見る。
夜のリーベは相変わらず明るい。規則正しく並んだ街灯が、均一な光で石畳を照らしている。
人の手で管理された、魔術式の灯り。
揺れない。乱れない。感情がない。
その中に――余計な光が混じっている。
見ようとしなければ見落とす程度の差。
街の光に紛れて、しかし同じ規則には従わない揺れ。
鍵穴から漏れる灯りみたいに、自由な気配だけが残る。
精霊がいる、という話はもう広がっていた。
姿を見た者はいない。
名前もない。
ただ「夜道が少し安全になった」という実感だけがいたるところに残っている。
それが一番、厄介だった。
善意は燃えやすい。
だが、価値になる善意は、もっと危険だ。
値札が付いた瞬間から、人は“守る”より“奪う”ほうを思いつく。
キーラは椅子に深く腰掛け、目の前の男と向き合った。
個人魔術師。
対精霊拘束・遮断専門。
名前は、マルクス。
マルクスは三十代半ばほどの男だ。灰色がかった黒髪を短く整え、目立たない外套を着ている。腰には小道具袋を下げている。
所属なし。
帰属国家なし。
宗教にも、市場にも、思想を持たない。
――金で動く。
「来てくれてありがとう」
扉を開けて現れた男は、周囲を見回すこともなく椅子に座った。
挨拶は最低限。無駄がない。
装備は簡素だが、目が違う。
見えているものの数が多い目。
意識を向けなければ気づかない程度の魔力の流れだけは、隠しきれていなかった。
「依頼内容を」
マルクスは淡々と言った。
キーラは肩をすくめる。
「光の精霊。未契約。中位」
「大まかな居場所は特定済み。ただし、街中よ」
その瞬間、男の視線がほんのわずかに動いた。
驚きではない。面倒の計算に切り替わる動きだ。
「難易度が高い」
即答だった。
「精霊は位階が上がれば、捕縛の失敗率も跳ね上がる」
「周囲を巻き込まない保証はない」
「ええ」
キーラは否定しない。
「だから、あなたを呼んだの」
キーラは指を三本立てた。
「商品に傷をつけないこと」
「街の人間を、極力巻き込まないこと」
「離脱はスマートに、静かに」
指を一本ずつ折りながら条件をつげる。
「報酬次第だ」
「相場の倍を出す」
その言葉で、初めて視線が合った。
「……理由は?」
キーラは、ほんの少しだけ笑った。
「犠牲者は、少なければ少ないほどいいでしょう?」
倫理ではない。後処理のコストの話だ。
「犠牲者が出なければ事件にならない」
「精霊が消えた? 噂と一緒に忘れられるわ」
マルクスは一度だけ窓へ目を向けた。
均一な街灯の中で、自由な光がまだ揺れている。
「……噂が厄介なのは、見えないからだ」
ぽつりと落ちる声。現場の言葉。
「見ようとしなければ、誰も気づかない」
「だが――“見えてしまう”奴が出てくると話が変わる」
キーラは目を細めた。
「選ばれし者、ってやつ?」
「素質か、若さか、偶然か。理由はどうでもいい」
マルクスは淡々と言う。
「問題は、見えた瞬間に“欲”になることだ」
キーラは息を吐いた。
値札が貼られる。
貼られたら、剥がすのは難しい。
「だから、先に捕まえる」
キーラは言った。自分に言い聞かせるように。
「選択肢を与えないために、ね」
マルクスが指を組む。
「精霊の詳細な居場所」
「人が少なくなる時間帯」
「干渉してくる魔法使いの可能性がないか」
淡々と必要事項を並べていく。
話し方が冷たいのではない。無駄がないだけだ。
「全て、情報を揃えてから動く」
「一つでも欠けたら、撤退だ」
キーラは頷いた。
「ええ。隠密作戦よ」
「派手にやる意味はない」
「逃走経路は?」
「船を用意する」
「捕縛後、即座に出港よ」
「売り飛ばし先は、なにもこの国じゃない」
海外。闇市。
ここよりも、ずっとあくどい都市はいくらでもある。
「準備は私がやる」
「あなたは捕まえるだけ」
二人の間に沈黙が落ちる。
共犯の空気ではない。
取引の確認だ。
互いの“線引き”が一致したかどうかの静けさ。
「……一つだけ言っておく」
マルクスが言った。
「中位精霊は、賢い」
「追い詰めれば、何をするかわからない」
キーラは静かに答える。
「だからこそ、早く捕まえる」
「選ぶ前に、檻に入れる」
窓の外で、いつも通りの街灯の光が揺れている。
規則正しく、均一に。
その中にあるはずのない光が、
まだ自由に揺れている。
「さて」
キーラは立ち上がった。
「各々、できることをやりましょう」
「この街に、傷を残さないために」
マルクスは何も答えず、席を立った。
去り際の気配が、薄い。人混みに紛れたら二度と見つからない類の薄さだ。
仕事は始まった。
誰にも祝福されない形で。
値札だけが、正直に増えていく形で。




