第14章 封の意味と船長
下層へ降りるエレベーターは、上がるときより速い。
重力が、足裏から背中まで抜ける。
木枠が軋み、鎖が鳴る。
中層の匂い——鉄と油——が薄れていき、代わりに潮と酒と煙が混ざった空気が戻ってくる。
「また来たのか」
エレベーターの番人が呆れた声を出す。
キーラは通行証を見せて、釣り銭を置いた。
「また来るわよ」
エイドは槍を肩に担ぎ直す。
封印状態のランスは、いつもより重い気がした。
重いのは武器じゃない。これから聞く話の方だ。
ミレイが小さく言う。
「……また、あの酒場?」
「そう」
キーラは言い切る。
「ザックに聞くのが一番早い」
ミレイの顔が少しだけ硬くなる。
前に見た、あの圧力を思い出しているのだ。
ノアが小さく頷く。
「……マスターも、いますね」
キーラがノアを見る。
「そうね。また働けって言われるわよ」
ノアは何も言わない。
だが、口元がほんの少しだけ緩んだ。
リュミエルはいつも通り"そこにいる"。
だが光の揺らぎが、わずかに強い。
警戒しているのだ。
*
酒場は、昼でも暗かった。
扉を開けると、煙が先に出てくる。
酒と汗と木材の湿気が混ざった匂い。
下層の匂いだ。
カウンターの向こうで、マスターが顔を上げた。
布巾を肩に掛け、杯を磨いている。
マスターの目がノアを見つけた瞬間、顔が明るくなる。
「……おお!」
声が裏返る。
「また来てくれたのか!」
ノアが小さく頷く。
「……お世話になります」
マスターが前のめりになる。
「いや、お世話したいのはこっちだよ! また働いてくれないか? いやぁ、今すぐじゃなくてもいいから、時間があるときだけでも——」
「おい」
奥の席から、低い声が割り込んだ。
ザック・ハーケン。
頬の傷は昼の光でも消えない。
海賊船長の外套が肩に馴染んでいる。
マスターが慌てて口を閉じた。
ザックが顎で示す。
「客だ。先に話を聞け」
キーラは迷わず奥の席へ向かった。
ザックが顎で示す。
「座れ」
エイドは立ったまま。
ミレイとノアも同じ。
リュミエルは"そこにいる"。
マスターがカウンターの向こうで、ノアをちらちらと見ている。
また働いてくれないか。
そう言いたそうな顔だ。
ノアはそれに気づいているが、無視している。
今は仕事の時間じゃない。
キーラだけが座る。
そして、懐から封書を取り出した。
封蝋の紋章が、薄暗い光の中でも浮き上がる。
ザックの目が、一瞬だけ細くなった。
「……それ、どこで手に入れた」
「偽造業者の倉庫」
キーラはすぐに答える。
「押収品の中にあった」
ザックが舌打ちする。
「面倒な物を拾ったな」
「面倒だと分かってるなら、教えて」
キーラは封書を机に置く。
置き方が丁寧だ。丁寧さが、値段を上げる。
エイドは槍を握り直す。
封印状態のランスが、手の中で脈打つような気がした。
気のせいか。
それとも、これから来る何かを感じ取っているのか。
ザックは封書を手に取り、封蝋の紋章をじっくり見た。
指先で紋の縁をなぞる。
確認しているのは形じゃない。"本物"かどうかだ。
しばらく沈黙が続く。
マスターが杯を磨く音だけが響く。
やがて、ザックが口を開いた。
「……オークションの招待状だ」
その一言で、空気が冷えた。
エイドが反射で槍を握り直す。
ミレイの手首の風の輪が揺れた。スウィフトが警戒する。
ザックは封書を机に戻す。
「ベルカンの上層区には、非公式の取引市場がある。精霊も、魔道具も、出航記録も——金で買えないものはない」
キーラが前に出る。
「出航記録?」
「そうだ」
ザックは杯を傾ける。
「表の記録にない出航も、裏には残る。誰がどこへ行ったか、何を運んだか。——全部、値段が付く」
ノアが一歩前に出た。
「……私たちが探している人の記録も?」
ザックの目がノアに向く。
値踏みする目だ。
「あの神官長か」
キーラが頷く。
「プラムよ」
ザックは短く息を吐いた。
「表の出航記録には、その名前はなかった」
エイドの喉が鳴る。
なかった。
つまり——
キーラが言葉を継ぐ。
「調べてくれたの?」
「調べたさ」
ザックは杯を置く。
「お前らがセレナの札で動いてるなら、俺も気になる。——だが、表には何もなかった」
ミレイが小さく言う。
「……じゃあ、その人は——」
「裏だ」
ザックが遮る。
「表にないなら、大抵、裏にある。それがベルカンだ」
「裏にはある?」
キーラがすぐに聞く。
ザックは杯を傾けた。
「あるかもしれない。ないかもしれない」
「どっちよ」
「分からん」
ザックは酒を喉に流し込む。
「——だが、裏の記録を見るには、オークションに潜り込むしかない」
キーラが招待状を指で叩く。
「この招待状で入れる?」
「入れるわけがない」
ザックの返答が早い。
キーラの目が細くなる。
「……即答ね」
「当たり前だ。合言葉を知らない奴は門前払い」
エイドが眉を寄せる。
「合言葉? パスワードみたいなものか」
「そういうものだ」
ザックは封書を指で叩く。
「招待状は鍵の形。合言葉は鍵穴。——両方揃って、初めて扉が開く」
ミレイが小さく言う。
「……で、その合言葉は?」
「さあな」
ザックは肩をすくめた。
「俺が知ってたら、もう儲けてる」
キーラの目が鋭くなる。
「知らないの? 本当に?」
「本当に知らない」
ザックは杯を置く。音が短い。
「昔は招待されたこともあったがな。——船長になってからは呼ばれない」
その言葉に、わずかな苦みが混ざった。
見習い時代の話だろうか。
エイドは聞かない。聞けば、話が逸れる。
ノアが静かに言った。
「……では、誰なら知っていますか」
ザックが目を細める。
「さあな。俺が知ってるのは、"オークションが近々ある"ってことだけだ」
キーラは封書を懐に戻した。
戻し方が速い。もう次に進んでいる。
「分かった。——ありがとう」
ザックが眉を上げる。
「礼を言われる筋合いはない」
「筋合いはなくても、言うわ」
キーラは立ち上がる。
ノアがマスターを見る。
マスターもノアを見返す。
マスターの目が、また働いてくれないか、と訴えている。
ノアは小さく首を横に振った。
マスターが肩を落とす。
ザックが奥の席から言う。
「マスター。諦めろ」
「……はい」
マスターは素直に引き下がった。
キーラが振り返る。
「行くわよ」
ノアが小さく頷く。
ミレイはスウィフトに囁く。何を言ったかは分からない。
スウィフトが、ミレイの手首の輪の中で小さく揺れた。
ザックが最後に言う。
「……オークションには、気を付けろ」
キーラが振り返る。
「どういう意味?」
「そのままの意味だ」
ザックは杯を傾ける。
「あそこは、金で買えないものはない。——だが、金で買えるのは"物"だけじゃない」
エイドが眉を寄せる。
「……どういうことだ」
「命も、信用も、未来も——全部、値段が付く」
ザックは杯を置いた。
「お前らが何を買おうとしてるのか知らないが——代償は覚悟しておけ」
キーラは何も言わずに頷いた。
頷き方が、いつもより重い。
酒場を出ると、潮の匂いが強くなった。
港が近い。
船が出る。
石畳が、足音を吸い込む。
下層の石は、中層より柔らかい。
踏まれすぎて、削れているのだ。
キーラが歩きながら言う。
「次は、合言葉を探す」
エイドが聞く。
「どこで?」
「まだ分からない」
キーラは淡々と答える。
「でも、オークションがあるなら、合言葉も必ずどこかにある。——探すわよ」
ノアが静かに言った。
「……裏の出航記録が、そこにあるなら」
「そう」
キーラは頷いた。
「そこに行くしかない」
エイドが前を見る。
下層の路地は、どこまでも続いている。
灯りが少ない。
人の声が遠い。
でも、港の音だけは近い。
ミレイが小さく息を吐く。
「……面倒なことになってきたね」
「面倒よ」
キーラは笑って言った。
「だから儲かる」
エイドは槍を担ぎ直した。
封印状態のランスは、まだ重い。
重さが、これから来る戦いを予感させる。
ザックの言葉が、頭に残る。
「命も、信用も、未来も——全部、値段が付く」
代償。
覚悟しておけ、と言われた。
エイドは覚悟している。
だが、何を失うかは——まだ分からない。
港の音が遠くで響いていた。
船の汽笛。
鎖の音。
そして、波の音。
下層の空気が、少しだけ潮に変わった。
*
港は、いつも通り騒がしかった。
船が着く。荷が降りる。人が叫ぶ。
鎖が鳴り、滑車が軋み、波が岸壁を叩く。
キーラは港の倉庫の前で足を止めた。
「ここで少し待って」
エイドが眉を上げる。
「何を?」
「人を」
キーラは短く答えた。
ミレイが周囲を見回す。
港には荷運びの人足、船員、商人、そして——見張り。
下層の目が、ここにも届いている。
ノアが小さく言う。
「……誰か、来ますか?」
「来るはず」
キーラは港の入口を見る。
その視線の先から、見覚えのある男が歩いてきた。
白髪混じりの髪。日焼けした顔。船乗りの歩き方。
リーベからベルカンに来た時の船長だ。
船長がキーラたちを見て、目を丸くした。
「……お前ら、まだベルカンにいたのか」
キーラが笑わずに笑う。
「いるわよ。——商売が長引いてね」
船長は荷物を肩に担ぎ直す。
港の匂いが、船長の服から漂ってくる。
「いつまでいる気だ」
「まだ分からない」
キーラは軽く答える。
「でも、そろそろ終わる。——たぶん」
船長が眉をひそめる。
「たぶん、って顔してないな」
「してないわよ」
キーラは頷いた。
船長は周囲を見回し、声を落とした。
「……何か、面倒なことに巻き込まれてるのか」
「巻き込まれてない」
キーラは言い切る。
「自分から入っただけ」
船長が息を吐く。
「……お前らしいな」
エイドがその会話を聞きながら、港の空気を感じていた。
潮の匂い。
木材の匂い。
そして、遠くから聞こえる鐘の音。
船が出る合図だ。
船長が荷物を下ろした。
「用があるなら、早く言え。俺も忙しい」
キーラが一歩近づく。
「船長。一つ、頼みがあるんだけど」
船長が警戒する。
「金が絡むなら断る」
「金じゃない。伝言」
船長の手が止まった。
「……伝言?」
「そう」
キーラは声を落とす。
「リーベに戻ったら、セレナに伝えてほしい。——街に水が必要になりそうだって」
船長の目が細くなる。
「……なんだそりゃ」
「ただの商品発注よ」
キーラはさらりと言った。
「意味は、セレナなら分かる」
船長は唇を噛んだ。
噛み方が、面倒を察している顔だ。
「……お前、何を企んでる」
「企んでない」
キーラはすぐに答える。
「ただ、準備してるだけ」
船長は何も言わずに荷物を担ぎ直した。
担ぎ直し方が、諦めている形だ。
「……分かった。伝えておく」
「ありがとう」
キーラは船長に金貨を一枚渡す。
船長は受け取らない。
「礼は要らない。——セレナには世話になってる」
キーラは金貨を引っ込めた。
引っ込め方が速い。礼儀じゃなく、計算だ。
船長が港の方を見る。
「……あの女、何を考えてる」
「さあね」
キーラは肩をすくめた。
「でも、必要になる。——たぶん」
船長が息を吐く。
「またたぶん、か」
「たぶんよ」
キーラは頷いた。
船長は歩き出す。
港の奥へ。
船が待っている。
エイドがその背中を見送る。
「……あれでいいのか」
「いいわ」
キーラは頷いた。
「セレナなら、分かる」
ノアが小さく言う。
「……暗号、ですね」
「そう」
キーラは頷いた。
「街に水が必要になる。——つまり、火が出る」
ミレイが息を吸う。
「……火?」
「そう」
キーラは港を見る。
「大きな揉め事が起きる。——セレナに知らせておく必要があった」
エイドが眉を寄せる。
「……でも、セレナが来たら——」
「来ないかもしれない」
キーラが遮る。
「セレナは港から離れられない。でも、準備はする。——そういう女よ」
リュミエルが小さく笑った。
「面白い人ね」
「面白いわよ」
キーラは呟く。
「だから厄介」
港の鐘が、また鳴った。
船が出る。
波が岸壁を叩く。
エイドは槍を担ぎ直した。
ランスは、まだ重い。
キーラが振り返る。
「行くわよ。次は合言葉を探す」
ノアが頷く。
ミレイも頷く。
リュミエルは"そこにいる"。
港の音が、背中を押していた。




