第7章 炉の息
中層に上がると、空気の匂いが変わった。
潮の匂いが遠のく。 代わりに、鉄の熱と油の匂いが鼻の奥に残る。 火がある。炉がある。叩く音がある。研ぐ音がある。 そして——魔力が、焦げたみたいな匂いで混じっている。
下層は声が腹を空かせていた。 中層は音が仕事をしている。 規則正しい金属音は、街の心臓の鼓動みたいだった。
エレベーターの籠が止まり、扉が開く。 木の床が石に変わり、足元の揺れが消える。
「……暑い」
ミレイが額に手を当てる。 冬の外気を吸ってきた身体が、いきなり鍛冶場の熱に馴染もうとして戸惑っている。
「ここが工房区」
キーラは淡々と言った。
見上げれば、壁一面に張り付くように工房が並び、煙突が森みたいに立っている。 道は狭い。荷車がすれ違うたび、肩が擦れる。 それでも誰も怒鳴らない。怒鳴る暇がない。納期が先に来る。
エイドが周囲を見回す。
「中層は治安、良くなるのか?」
キーラは笑わない。
「良くはならない。形が変わるだけ。ここは刃が"契約"になる」
ノアが頷く。
「……契約が刃になる街、ですね」
「そう」
キーラは振り返らずに続けた。
リュミエルが小さく言った。
「下層より、静かね」
「静かじゃない。集中してるの」
キーラが短く返した。
「ここでは声より、腕が価値を持つ」
工房の前を通り過ぎる。焼けた鉄を水に落とす音。じゅ、と白い湯気。 その湯気の向こうで、職人がこちらを一瞥して、すぐ作業に戻る。
見られた。測られた。値踏みされた。 下層とは違う"目"だ。
キーラが足を止める。
「で。——ここでどうやって稼ぐんだ?って顔してる」
エイドが即答した。
「してる」
ミレイも素直に言う。
「してる。下層で売ってた商品、もうないし」
ノアが静かに付け足す。
「……宿代も、食費も、中層では高くなります」
「その通り」
キーラは頷いた。
「だからこそ、稼ぎ方を変える」
キーラはミレイを見た。
「これからは、あんたらの精霊が要になるわ」
「精霊が?」
エイドが眉を上げる。 リュミエルは肩をすくめ、ノアは少し身を固くした。
キーラはミレイを指差す。
「風で木箱を運んでたでしょ。下層で」
「あれは……まあ」
ミレイはちょっと照れたみたいに目線を逸らす。 "働いてる"ところを見られる恥ずかしさだ。
「風でできる仕事はいっぱいあるの」
キーラが言う。
「運搬。乾燥。換気。煙の排気。塗料の乾き。炉の熱を逃がす。——全部、納期を縮める」
エイドが口を開ける。
「……そんなに?」
「ここは納期が命。命を伸ばすなら金を払う」
キーラは指を立てた。
「それをサービスとして売る。料金を取るの」
ミレイがぽかんとして、それから、じわっと目が輝いた。
「……なるほど」
風の精霊スウィフトが、ミレイの肩のあたりでふわりと揺れた。
『仕事の後に肉が食いたい』
「……肉ね」
ミレイが一瞬だけ真顔になって、次の瞬間、頷いた。
「決まりね」
エイドが横から言う。
「精霊、肉食べるんだな」
「食べるわよ」
ミレイが即答した。
「生きるためじゃないけど、美味しいものは好き」
「……精霊って、そういうもんなのか」
エイドが呆れたように言う。
リュミエルがくすっと笑った。
「そういうものよ。楽しみは大事」
キーラが今度はリュミエルを見る。
「で、リュミエル」
「私かぁ」
リュミエルは気の抜けた声を出したが、目だけは真剣だった。 中層の空気は、精霊にも"用途"を要求する。
「あなた、偽造されてる物や魔術道具、見分けられるでしょ」
「見分けられるわ。……全部とは言わないけど、かなり」
エイドが口を挟む。
「それ、地味にすごくないか?」
リュミエルが首を傾げる。
「地味?」
「目立たないって意味」
エイドが付け足す。
リュミエルがくすっと笑った。
「人間の価値観って面白いわね」
キーラが迷わず言った。
「ここでは刺さるわよ」
工房区の路地の向こうで、誰かが怒鳴った。
「これ刻印が違うだろ!」
「違わねぇ!」
「違うんだよ!」
怒鳴り声が、仕事の音に吸われて消えていく。 それが日常みたいに。
キーラは言う。
「職人の道具を偽って売る奴はごまんといる」
「偽物を掴ませれば、工房は品質を落とす。品質を落とせば、契約を切られる。下層のキャンセルと同じよ」
ノアが低く言った。
「……ここでも、半日で切られる」
「切られる」
キーラは頷いた。
「だから"真贋"を保証するサービスは——最強の信用を生み出せる」
エイドが少しだけ笑った。
「精霊が"鑑定士"ってわけか」
「そう。しかも賄賂が効かない鑑定士」
リュミエルが首を傾げる。
「賄賂?」
キーラが説明する。
「人間の鑑定士なら、金で口を曲げられる。"本物だ"って嘘をつかせられる」
「でも精霊は?」
ミレイが続ける。
「契約者が"これは本物だ"って言っても、精霊は偽物を偽物としか言えない」
キーラが頷く。
「人間の価値観に寄った診断をしない。だから信用になる」
リュミエルが静かに笑った。
「……なるほどね」
ノアが小さく言った。
「私は、何をすれば……」
「あなたは記録」
キーラが即答した。
「契約の内容、金額、日時、相手の顔。全部覚えておいて」
「……分かりました」
ノアが頷く。
「記録は、武器になりますね」
「武器になる」
キーラが歩き出す。
「最初が肝心。最初に"信用"を買う」
エイドがついていきながら聞く。
「当てはあるのか?」
キーラは振り返らないまま、答えた。
「ある」
そして、工房区の道の先を指した。 石造りの建物。看板には紋章。槌と歯車と、秤。
「まずは商業ギルドに行くわよ」
ミレイが息を吸う。 風が髪を揺らす。中層の熱い空気が、風で少しだけ冷えた。
スウィフトが小さく唸る。
『この街、暑い』
「我慢して」
ミレイが小声で返す。
「仕事の後、肉ね」
『忘れるなよ』
「忘れない」
その会話を聞いて、エイドが小声で言った。
「……精霊との契約って、案外シンプルなんだな」
リュミエルが楽しそうに笑う。
「シンプルよ。人間が複雑にしてるだけ」
ノアが小さく言った。
「……ここから、商売なんですね」
キーラは短く返した。
「ここからが"上"の商売よ」
ギルドへ向かう途中、工房の角で足が止まった。
小さな窓口のような棚が、壁から突き出ている。上に鉄の急須と、素焼きの杯が五つ。湯気が立っている。
看板も値段もない。ただ杯があるだけだ。
奥から腕まくりの職人が顔を出した。白髪の混じった、日に焼けた顔。手は煤で黒い。
「飲んでいけ。冷えてるだろ」
冬のベルカンで、中層の路地は炉の熱で温いはずだった。けれど人は、温い場所にいても冷える。冷えるのは身体ではなく、気の方だ。
エイドは杯を受け取った。中身は薄い茶だった。草の匂いがする。甘くはない。けれど、喉を通ると胸の奥がほどける。
「……うまい」
「水に草を入れただけだ。大した物じゃない」
職人はそれだけ言って、奥に戻った。礼も求めない。名前も聞かない。杯を置いて、去っていく客を見送る気もない。
ミレイが杯を両手で包む。指先の赤みが、少しだけ戻った。
ノアは杯を持ったまま、しばらく湯気を見ていた。湯気は上がって、鉄の匂いに混ざって消える。
キーラは一口で飲み干して、杯を棚に戻した。
「……タダの茶って、あるんだ。この街にも」
誰に向けた言葉でもなかった。けれどその一言だけが、この街で初めて値段のつかない温度だった。
そして四人と二体は、ギルドの扉へ向かった。 炉の息が背中を押していた。




